仏教公伝
先週まで物部氏について書いてきたので蘇我氏と物部氏の抗争について、日本書紀の記録をまとめていきたいと思います。
物部氏と蘇我氏の抗争は、わが国における仏教の受容をめぐって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の抗争として受け止めるのが多数の考え方のようです。
日本書紀によれば、我が国に仏教が伝来したのは、欽明天皇の時代の西暦552年、百済の聖明王が使者を使わしてのものでした。仏教公伝の西暦については、そのほかにも諸説あるようです。
このとき欽明天皇は、まず蘇我稲目に仏教の扱いについて問うと日本でもこれを祀るべきと回答、対して物部尾輿と中臣鎌子に問うと反対されました。そこで蘇我稲目に命じて仏像を祀らせたところ(小墾田の家に仏像を安置し、向原の家を清めて寺としたとあります)、国に疫病が流行り死者も出ました。それで物部尾輿と中臣鎌子が「仏像を棄ててしまいなさい」と天皇に進言したところ、天皇が「そのようにせよ」と命じたので、仏像は難波の堀江に流し棄て、寺に火をつけたということです。
日本書紀では、この後に宮の大殿に不審火があったと記録しています。




