雄略天皇と稲荷山古墳出土鉄剣
雄略天皇シリーズも、ひとまず今回で一区切りとします。その最後のネタは、やはり稲荷山古墳で出土した鉄剣の銘文としましょう。
昭和43年、埼玉県行田市の稲荷山古墳で、とても珍しい鉄剣が出土しました。鉄剣には、表裏に次のような銘文が刻まれていたそうです。
(表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
冒頭の「辛亥年」というのは、531年説もありますが、471年説が有力です。
裏面に「獲加多支鹵大王」と刻まれているのが有力ポイントです。獲加多支鹵を「獲加多支鹵」と読むならば、それは雄略天皇ということになります。倭の五王の「武」が雄略天皇に比定できるとすれば、雄略天皇が478年に宋の順帝に上表文を出していることから、辛亥年を471年とすれば時代も一致します。
ただし、次の「在斯鬼宮時(シキ宮に在る時)」は気になるところです。雄略天皇の宮殿は泊瀬朝倉宮とされており、シキ宮ではないからです。この点については、泊瀬朝倉宮は当時の磯城郡にあるので矛盾はないとする見解もありますが、どうでしょうか。シキといえば、第10代の崇神天皇が磯城瑞籬宮を皇居としています。何か関係はあるのでしょうか。
稲荷山古墳出土鉄剣の表面は、この剣の持ち主の系譜が刻まれています。その始祖を「意富比垝」としている点は興味深いです。「意富比垝」は大彦に通じます。大彦命は、第8代孝元天皇の長男で、開化天皇の同母兄にあたる人物です。この大彦命も興味深い人物ですので、またいずれ、ご紹介しましょう。




