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雄略天皇と呉

 もう少し、雄略天皇のエピソードを紹介します。

 古事記(インディーズ)では、雄略天皇の記事は、まずその系譜の説明があり、その次に出て来るのが渡来人の記事です。原文では「此時吳人參渡來」などとあります。

 不思議なのは、ここで「呉」という言葉を用いていることです。「呉」といえば、三国時代の呉国を連想しますが、それは3世紀の話です。他方、雄略天皇を倭の五王の「武」に比定するならば、それは5世紀の話で、時代が合いません。当時、このほかに中国で「呉」なる国はありません。

 さて、この「呉」の国の話は、日本書紀(公式)でも取り上げられています。原文を検索したところ、17ヵ所で出てきました。内容は、呉の国と使節をやり取りしたり、百済国から逃げて来た人が「呉」の人であったりなどです。

 古事記(インディーズ)にせよ、日本書紀(公式)にせよ、その編纂は8世紀以後です。その当時は、中国が「唐」と呼ばれており、日本書紀(公式)でもそのように表記しています。このことから分かることは、少なくとも日本書紀(公式)の編纂者は、当時の日本がやり取りをしていた中国の国号を、きちんと区別していたということです。おそらく、当時の記録か口承の中に、はっきりと「呉」という言葉が出て来たので、そのように表記したのでしょう。

 ここで、どうして「呉」という言葉が出て来なければならないのか、自分にはよく分かりません。三国時代の日中交流といえば、卑弥呼が魏国に使節を送ったことが有名です。他方で、記録に残らない形で、呉とも交流していた可能性もありましょう。日本では、この「呉」の国の年号が刻まれた銅鏡も出土しています。こういう遠い過去の記憶が、古事記(インディーズ)日本書紀(公式)に反映されたのでしょうか?


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