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天皇となった市辺押磐皇子の子ら

 ところで、雄略天皇に殺された市辺(いちのへの)押磐(おしいわの)皇子には、億計王(おけのみこ)弘計王(をけのみこ)の皇子の2人の皇子がいました。また、飯豊青(いいとよあお)皇女というのもいます。

 億計(おけ)王と弘計(をけ)王は、父親の市辺(いちのへの)押磐(おしいわの)皇子が殺されたとき、播磨国に亡命して難を逃れています。2人は、清寧天皇に跡継ぎができなかったことから、その後の天皇として即位しています。2人の母親は、葛城蟻臣の娘の(はえ)媛です。

 先に即位したのは、弟の弘計(をけ)王の方でした。これが顕宗天皇です。即位した顕宗天皇は、兄の億計(おけ)王に、父親の仇である雄略天皇の陵を破壊するよう命じましたが、逆にそのようなことは止めるように諫められたと日本書紀(公式)にはあります。古事記(インディーズ)では、雄略天皇の陵の一部を少し掘って辱めたに止めたとあります。雄略天皇は、父の仇ではあるものの、同時に父の従兄弟でもあり、天皇でもあったので、破壊し尽くすには忍びないということらしいです。そこで陵の一部を少し掘るにとどめたという古事記(インディーズ)の記述は、そこに人間の葛藤を感じさせるようで、自分は好きです。

 

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