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市辺押磐皇子の暗殺

 雄略天皇には4人の兄がいましたが、長男は自殺し、父の後を継いだ安康天皇は7歳の少年に殺されて、そのドサクサに紛れてもう2人の兄を殺し、さらにもう1人の皇族も殺して、即位したのでした。今回は、そのもう1人の皇族の話をします。

 その皇族というのは、市辺(いちのへの)押磐(おしいわの)皇子です。日本書紀(公式)では、雄略天皇は市辺(いちのへの)押磐(おしいわの)皇子を巻狩りに誘います。その巻狩りの際中に、「鹿がいる」と言って市辺(いちのへの)押磐(おしいわの)皇子を弓で射殺したということです。これに合わせて、市辺(いちのへの)押磐(おしいわの)皇子の舎人(とねり)を皆殺しにしたらしいです。

 どうして市辺(いちのへの)押磐(おしいわの)皇子が殺されなければならなかったのか、よく分かりません。市辺(いちのへの)押磐(おしいわの)皇子は、允恭天皇の兄、履中天皇の長男であり、母親は葦田宿禰の娘の黒媛です。日本書紀(公式)では明言されておりませんが、古事記(インディーズ)では、葦田宿禰は葛城(かずらぎの)曾都比古(そつひこ)の子とされています。

 葛城(かずらぎの)曾都比古(そつひこ)というのは、武内宿禰の子とされています。なお、蘇我氏も、武内宿禰の後裔とされています。

 武内宿禰については、いつか、まとめてみたいと思います。

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