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第10夜 思慕の行く末

前回のあらすじ


お兄様が助けに来た。

 









 既にそこは帝国領であった。

 辺境伯領の雑木林とは全く違う森が広がる。光一つとして入らない程に木々に囲まれ、昼だと言うのにどこまでも鬱屈した暗さに満ちていた。腐った木々は有り得ない異臭を放ち、食虫植物の群がひたすらに獲物がやってくるのを待ち構えていた。かと言って、蝿や虫がいる訳でもない上に、そもそも鳥や動物さえ気配がそこにはない。元々からそうであったのか、それとも‥‥この来訪者に恐怖したのか‥‥それが分かる者はいない。だが‥‥この突然現れた人物に対して、水晶玉越しに見ているその2人は身の毛がよだつような恐怖を感じていた。


 ゾッとする、なんていうものでは無い。


 プレッシャーとも言える精神だけが感じる圧。世界全ての音が一瞬で消え去り、目が眩むようにそれを視認するのを脳は拒否した。あまりの重圧に自身の存在の根本から壊れるような気さえし、その存在に全ての五感が奪われる。まるで人智を超えた“何か”がそこにいるようだった。恐怖、畏怖、脅威、圧倒される感情にまだ彼が何もしていないというのに、激しく狼狽する。息が上がり、足元はふらついて、激しい危機感と倦怠感に体が強ばる。


 こわい、こわい、こわい、こわい。


 そこにいるだけで生命が脅かされる恐怖に襲われる。次の瞬間、死んでしまうような予感と警告。

 圧倒されて、押し潰される。

 その存在の異様さよりも、自身がこの場にいてはいけないと思うような圧巻の存在。そんな存在にレーテンブルグ候は恐怖から引き攣った喉を無理やり動かして、マルケレに指示した。

 「今すぐ逃げろ!!」

 誇り高き魔族の中でもプライドが高く、撤退を嫌う彼でも即座に背を向けて逃げる程、相手は異常だった。いつもは見下している人間という種族の姿をしていることすら気にならない。少女のことすらその思考から吹っ飛び、今すぐこの恐怖から逃げたかった。

 だが。

 指示を下し逃げるよう命じたその男、マルケレを見て、レーテンブルグ候はすぐにその表情を青ざめさせた。


 「‥‥おれのもの、だと‥‥?」


 今更になってマルケレに理性が無くなっているのを再度痛感する。恐怖や脅威をマルケレが感じていない筈はない。しかし、それよりも狂ったそれが上回っている。そんなマルケレはわなわなと震えながら、水晶玉に詰め寄り、目を見開いた。

 「違う!私の所有物ものだ!」

 そう叫んだマルケレにレーテンブルグ候はすぐさま背を向け、この地下から脱出しようと歩を進めた。女に狂って、自分の身を危険に晒すなど、これからまだ先の計画があるレーテンブルグ候には出来ない。女を諦めてでも、今は、今は!逃げなければならない!!

 あの存在に、自身を認知される前に!マルケレという協力者を身代わりにし、失ってでも!!





 少女の入った檻を人形は置くと、その両手から夥しい熱量を持ったその炎を男に向かって放射する。人形にはその存在が焼け、そして、灰になる未来が見えていただろう。だ、が、その炎は‥‥。

 「‥‥。」

 その存在がたった1度、一瞥しただけだった。まるで、霞となって霧散するように炎は瞬時に消える。

 人形はそれに目を見張った。

 「‥‥。」

 その存在は尚も無言だった。無言のまま、ここにいる人形以上に人形のような表情一つないその顔を人形の、その向こうにいる男に向けていた。そうして1歩ずつ檻の中にいる少女に‥‥その少女を脅かしたその男に近づいてくる。

 人形はその危機感から、次々と炎を放った。しかし、如何なる火でさえも、如何に織り上げられ練り上げられた炎でさえも、彼にたどり着く前に、霧散する。

 人形の表情に焦りが出てくる。そして、湧き上がる恐怖、一体目の前で何が起こっているのか分からない。ただただ自身が彼が歩を進める度に不利になっていくのに人形は震えた。

 かつ、かつと鳴る革靴の音がヤケに響いて、まるで、カウントダウンのようだ。もうすぐ自身は死ぬ。しかし、人形に‥‥マルケレに退くという考えは無かった。


 全ては後ろにいる少女をこの手に収める為‥‥。


 少女に惚れ、しかし、少女のことを何一つ知らない男は自分の感情しか見えていない。少女の感情もこの目の前にいる脅威も全てどうでもいいものだった。

 ただ奪う者を殺す。

 それがどれだけ狂っているのか、彼は理解出来ているのだろうか、いや、出来ていないだろう。




 だから。




 人形の頭が突如として、彼の手に捉えられる。手でまるでその水晶玉の瞳を握り潰すように彼の手が人形を‥‥マルケレを捕らえた。

 「‥‥。」

 彼は何も言わない。しかしだが、水晶玉越しにそれを見ていたマルケレは真っ暗になった水晶玉を見て、やっと、やっと事態が分かった。恋情に狂い、冷静に状況を、今自身が何に囲まれているのか見ていなかった為に、全く対処ができず、瞠目してしまう。

 そこで初めて、マルケレは自身の隙を自覚したのだ。

 殺す事に注力しすぎて、自身を守ることを怠っていた。

 そのために、自身の体が燃え上がってもどうしようもなかった。

 彼は炎を霧散させていたのではない。“移動させていた”のだ。マルケレを囲う地下は一瞬で自身の魔法で火の海になる。生きている生き物のようにマルケレの周りを暴走し、地下という行き場のない場所で藻掻くように焼き尽くすそれは正に自身の狂気そのものだった。マルケレは息を飲んだ。

 1人の少女に熱を上げた。それがまさか自身を焼き殺すことになるなど誰が思ったか。


 「ああ‥‥。」



 「ああああ‥‥!!」



 「アアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」



 一人の魔術師が業火によって灰になる。

 焼き尽くされても灰が残るのは果たして、彼の生きた名残か、少女への思いを遂げられなかった恨みか‥‥死者は語らない。死者は語ることが出来ない。

 ただそこに狂気と、それを圧倒的に凌駕した畏怖があったことだけを示していた。










 動かなくなった人形を、彼‥‥ハルトは手を離し、その場に何の未練も無く捨てる。人形は一切の生気が消えていた。だが、やがて、焦げ付いた匂いが人形から漂い、身体の中から、熱を吹き上げ自身をその火で燃やし尽くした。火で燃やされるそれはまるで生きているように火の中で灰になりながら這いずり回り、次第に黒く、崩れていった。

 「‥‥。」

 そんな人形が消えたことをハルトは視認すると、その人形の背後‥‥そこに置かれた小さな檻の方へ行く。その檻に跪くようにハルトは腰を下ろすと、その檻を閉じる錠を自身の力で壊す。そうして丁寧に檻の扉を開けた。開けるとそこには、今に泣きそうな表情で震えているシヴァリエがいた。

 「‥‥立てるか?」

 寡黙なその人の淡々とした声が響く。しかし、そこにある確かな気遣いにシヴァリエはボロボロと音も無く泣き始めた。立てない、と首を振れば、ハルトは彼女を檻から出すように抱き上げ、小さく細い身体のシヴァリエを彼は傷つけないよう腕に抱えた。

 シヴァリエの体は余程怖かったのか、心臓の鼓動は彼に聞こえるほどに動悸しており、その肩を震わせていた。

 そんなシヴァリエに彼は何を思ったのか、その表情からは想像もつかない。ただただそばに寄り添うように。

 「帰るぞ。」

 そう一言だけ言った。

 それにシヴァリエは泣きながら、うん、と小さく頷いた。





 ハルトはシヴァリエを抱えたまま、徒歩で自身の領地に帰ってきた。魔法ですぐさま帰宅することも出来ただろうに、なかなか泣き止まないシヴァリエに配慮してか、それとも別の理由か、徒歩だった。

 領地に着くその頃には領地は夜になっており、遠くに見える家々から明かりが消えていくのをやっと泣き止んで落ち着いたシヴァリエは見ていた。もう人が寝静まるそんな時間なのだ。

 「‥‥兄様‥‥。」

 シヴァリエはハルトと出会った時には無かった半月が浮かぶ空に視線を移しながら、先程からずっと気になっていたことを、まだ2週間しか家族になってから経っていないその人に聞いた。

 「どうして、こんなに良くしてくれるんですか?‥‥助けてくださるのですか?」

 彼にシヴァリエが何をしたのだろう。家族になってくれたり、教師をつけてくれたり‥‥助けに来てくれたり、何故、彼はシヴァリエにこれ以上ないほどいっぱい色んなことをしてくれるのだろう?シヴァリエは‥‥彼に何もしていないというのに。

 そんなシヴァリエの疑問にハルトは何も答えない。だが、たった一言。


 「お前は何故、俺を恐れない?」


 そうシヴァリエに聞いた。それにシヴァリエは何を聞かれたのか一瞬分からず、戸惑う。聞いた本人であるハルトの表情がいつものような無表情だったのもある。その問いが一体どんな感情で問われたのか分からなかったのだ。

 そこに疑問符が付いていたとしても、まるでただの棒読みにもただの確認にも聞こえ、また突き放すようなものがあるような無いような、縋るようなものがあるような無いような不思議な口調にも聞こえたのだ。

 しかし、一体どんな感情で問われたにしても、シヴァリエの答えは一つだった。


 何故?恐れないのか?


 それは。


 「‥‥だって、お兄様だから。」


 自分を幸せにしてくれる、そして、自分を家族にしてくれた‥‥助けてくれた唯一無二の人。何を恐ろしく思うことがあるか?

 むしろ。


 「離れたくないです。兄様。」

 「‥‥!」


 自身の本音を思わず零してシヴァリエは咄嗟に自分の口を塞ぐ。恐る恐る反応を伺うようにハルトの顔を見ると、そこには珍しく表情を崩し、やや驚いた顔をするその人がいた。ややあってその人はシヴァリエの髪を梳くように自身の手をシヴァリエの頭に置いて、緩やかに撫でた。

 「そうか。」

 彼はそれだけしか言わなかった。

 だが、その目は自身と同じ色の瞳をしている少女を映して、離さなかった。

 シヴァリエはそこで初めて気づく。彼は言葉にしないだけで、その瞳の奥で様々な‥‥シヴァリエが考えもしないようなことをずっと考えているのだ。実際、そのハルトの瞳はどこまでも深い色をして、複雑な様々な感情に輝いているように見えた。



 「お兄様、これからもお傍にいても良いですか‥‥?」




 月が半分だけ昇った空の下、独りぼっちだった少女はまるで長年の想いを打ち明けるように、そう自身の兄に聞いた。それに誰からも恐れられる上に、その本心を誰にも打ち明けることをしない寡黙な兄は、やはり彼女に自身の本心は打ち明けないまま、しかし、少女の全てを受け入れるように言った。



 「ああ、傍に居ればいい、存分に。」





 月だけはその話を聞いていた。

 しかし、月は誰にも告げ口する気は無かった。

 これは2人の話であって‥‥これは2人だけの、世界には内緒で秘密になる思い出に次の瞬間なるのだ。

 だから、月はただの傍観者に徹する。


 そうして、今後、その願いがどうなるかなんて野暮で残酷なことを少女に告げないようにした。









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