戦場としての宴 — 「居酒屋のポジションと配慮」
「本日は新渡戸くんのプロジェクト一巡を祝して……乾杯!」
グラス同士が重なり合い、甲高い金属音が店内に響いた。職場のメンバーが集まった居酒屋の座敷。木造のぬくもりと焼き鳥の香ばしい匂い、そして充満するアルコールと熱気。
奏にとって、ここはいかなる惑星の戦場よりも緊迫した「局地戦闘領域」であった。
乾杯のコールが発せられる数十秒前、奏の頭脳では猛烈な戦術演算が行われていた。
(上座と下座……入り口から最も遠い奥の席が上位権力者の座域。出入口に近く、人の往来が激しい下座に配置されるべきは、最も階級の低い者……すなわち私だ。初期配置は完璧)
席順の確保には成功した。しかし、戦闘(宴会)が開始された瞬間、次なる試練が波のように押し寄せた。
「新渡戸くん、サラダ取り分けてあげるね」
先輩の結衣が大きな鉢に入ったシーザーサラダにトングを伸ばそうとした瞬間、奏の直感が警鐘を鳴らした。
(待て! 階級上位者、あるいはサポート役である女性社員に給仕作業を負わせるなど、陣形上の失策! 下座に位置する私が後方支援業務を一手に引き受けるべきではないのか!?)
「佐々木殿、手を引いてください! その業務は私が担当します!」
奏は素早い手つきでトングを奪い取り、等分計算を開始した。レタス葉の枚数、クルトンの粒数、温泉卵の崩し具合まで、正確に人数分へ均等分配する。
「お、新渡戸くん気が利くねえ!」と課長が満足そうに目を細めたのも束の間、奏の眼光はテーブル上の「残量メーター」へと向けられた。
(課長の生ビール、残量12%。結衣殿のレモンサワー、残量20%。グラスが空になる手前で追加注文の意志を確認し、インターバルをゼロに抑える……これが『目配り・気配り』という名の兵術……!)
「課長、次は何を補給されますか。同一銘柄の麦芽発酵飲料でよろしいですか」「佐々木殿、サワーの果汁補給タイミングです」
間髪入れずにメニュー表を差し出す奏に、同僚たちは圧倒されつつも「すごいスピード感だな」と苦笑いした。
しかし、奏を真に恐怖させたのは、アルコールが回り始めた中盤に課長が発した一言だった。
「いやあ新渡戸くん、今日は固いこと抜きだ!『無礼講』でいこう! 日頃の不満でも何でも、ぶっちゃけて言ってみろよ!」
ブ レ イ コ ウ 。
奏の思考回路が完全にフリーズした。
(無礼講……? 無礼を許可する……? 秩序と階級制度の一時的無効化プロトコルだと……!?)
脳内データベースを検索する。この概念は「日頃の階級格差によるストレスを緩和し、親睦を深めるための過渡的無秩序状態」と定義されている。
だが、かつて全宇宙の戦術を研究した奏は知っていた。歴史上、権力者が口にする「無礼講」ほど危険な罠はないということを。
(甘い! 甘すぎるぞ! 額面通りに受け取って『課長、あなたの指示は非合理的で業務効率を阻害しています』などと本音を叩きつければ、翌朝には待つのは粛清のみ! これは『建前』という名の地雷原だ……!)
「どうした新渡戸くん? 遠慮するなよ!」と笑う課長に対し、奏は極限まで無表情を保ち、静かに口を開いた。
「……課長のお話は、常に組織の『調和』を第一に考えられており、私のような新参者には大変勉強になります。ただ、たまに『指示の意図を察する』難易度が高すぎると感じる瞬間があり、自らの未熟さを痛感しております」
絶妙なラインだった。相手の権威を立てつつ、「ちょっと困っている」という事実だけをユーモア交じりに提示する。
一瞬の静寂の後、課長は大笑いした。
「わはは! 固いなあ新渡戸くんは! でもまあ、分かりにくくて悪かったよ。もっと分かりやすく言うように気をつけるわ!」
ほっと胸を撫で下ろす奏の横で、結衣がくすくすと笑いながらサワーを一口飲んだ。
「新渡戸くん、さっきからずっと全方位に気を配ってて、全然ご飯食べてないでしょ? ほら、焼き鳥冷めちゃうよ」
結衣は取り皿に焼き鳥を乗せ、奏の前に置いた。
「居酒屋はね、戦場じゃないんだから。みんなで楽しく美味しいものを食べて、仲良くなるための場所なの。もう少し力を抜いて、自分も楽しんでいいんだよ」
奏は差し出された焼き鳥を見つめた。香ばしいタレの香りが鼻腔をくすぐる。
(力を抜く……楽しむ……)
言われてみれば、自分は相手のグラスの残量や座順の計算ばかりに没頭し、目の前の料理の味すら認識していなかった。
一口噛み締めると、ジューシーな鶏肉の旨味と甘辛いタレが口いっぱいに広がった。
「……うまい」
「でしょ? 頑張って気を使うのも素敵だけど、新渡戸くんが美味しそうに食べてる方が、みんなも嬉しいんだよ」
結衣の言葉に、奏はハッとさせられた。
過剰な配慮や儀礼は、相手に嫌われないための「防壁」だと思っていた。しかし、この「居酒屋」という空間で人々が求めているのは、完璧な給仕ロボットではなく、同じ時間を共有し、笑顔を交わし合う「人間らしさ」なのだ。
「なるほど……『無駄な気遣い』を削ぎ落とし、あえて『スキ』を見せることもまた、高度なコミュニケーション技術というわけですか」
「うーん、ちょっと違う気もするけど……まあ、美味しいならいっか!」
奏はグラスを掲げ、結衣のグラスと軽く合わせた。カチンと心地よい音が鳴る。
(空気、儀礼、そして酒場のコミュニケーション……。この星の人間関係はどこまでも奥が深い。だが……悪くない)
ほろ酔いの熱気の中で、元参謀長はまた一つ、地球という文化の不可思議な温もりに触れたのだった。




