過重なる儀礼 — 「お疲れ様です」と「ハンコ」
「空気を読む」という第一の試練を経てから数日。新渡戸奏の観察データは着々と蓄積されつつあった。しかし、この「日本」という未知の社会システムは、参謀長の緻密な予測を軽々と嘲笑うように、次から次へと新たなる不条理を突きつけてくる。
その日の朝、奏が社内の廊下を歩いていると、すれ違う社員たちが一様に特定の音声コマンドを発していることに気づいた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様ですー」
奏は思考を巡らせた。「疲労」とは、生物的身体における筋繊維の損傷や神経伝達物質の枯渇を意味する異常状態だ。なぜ彼らは、就業開始からわずか十五分しか経過していない午前九時十五分の時点で、互いの肉体的・精神的疲弊を前提とした挨拶を交わしているのか。
(集団におけるコンディション低下の確認作業か? いや、誰も相手の疲労度を測定している様子はない……)
試掘として、奏は通りかかった若手の後輩社員に向かって、昨日覚えたばかりの威厳ある言葉を投げかけてみた。
「ご苦労様だ」
すると、後輩は一瞬だけギョッとしたように目を丸くし、気まずそうに「あ、お疲れ様です……」と釈然としない表情で去っていった。
「……何かミスを侵したか?」
首をかしげる奏の背後から、救世主のごとく佐々木結衣が現れた。
「新渡戸くん、いま後輩に『ご苦労様』って言った?」
「はい。労いの意思を表現する言葉としてデータベースから抽出しましたが」
結衣は声をひそめ、人差し指を口元に当てながら苦笑した。
「それは目上の人が目下の人に使う言葉なの! 目下の人が使ったり、同僚間で使うと『上から目線で失礼な奴だ』って思われちゃうんだよ。基本は全員『お疲れ様です』で統一するのが無難かな」
奏の脳内で警告アラートが赤く点滅した。
(何だと……!? 同じ『労い』の意を示す通信語でありながら、送信側と受信側の階級差によって使用権限が制限されているだと!?)
さらに結衣の解説は続いた。社外の人間に対しては「お世話になっております」、去り際やお願い時には「よろしくお願いいたします」、社内の上位役職者へは「お疲れ様です」。
(言語通信におけるプロトコルが複雑すぎる。ゼノビア帝国であれば『全艦隊、了解』の一言ですべてが解決するものを、この星の住人は権力構造と人間関係の距離感に応じて数多の変調言語を使い分けているというのか……!)
挨拶のバリエーションによる脳のオーバーヒートも冷めやらぬまま、奏にはその日、さらなる巨大な試練が待っていた。
「紙の決裁書……ですか」
デスクに置かれた一枚の用紙。奏が苦心して「空気」を折り込み、修正を完了した新企画書である。データ送信で即座に承認可能なシステムが存在しているにもかかわらず、なぜかこの会社では、印刷された紙媒体に人間が個別の朱肉印を押していく「スタンプラリー」が必要なのだという。
奏は胸ポケットから、会社から支給された自身の姓「新渡戸」が刻まれた小さな竹製の円筒——シャチハタ印を取り出した。
(物理的な印影による個人の識別および承認証明……古代の粘土板封印儀式と同等のプリミティブなシステムだが、ルールならば履行するまで)
奏は定規を取り出し、用紙の「担当者印」の枠線に対し、印影の文字が完璧に水平かつ垂直、狂いなく中央に配置されるよう0.1ミリ単位で位置合わせを行った。そして、垂直方向に寸分のブレもなく一気に圧力を加えた。
ポン。
完璧だ。寸分違わぬ美しい「新渡戸」の赤文字が枠の真中央に印字された。奏は満足げにうなずき、上司である課長のデスクへ提出した。
しかし、書類を受け取った課長は、その印影を一目見ると、微妙な顔で首をひねった。
「新渡戸くん……君、仕事は丁寧なんだけどさ。ハンコが真っ直ぐすぎるんだよね」
「……はい?」
奏の時空が止まった。
「ハンコが真っ直ぐすぎる……とは、どういう意味でしょうか。傾き誤差は0.01度以下に抑えておりますが」
「いやさ、ウチの課ではね……ううん、日本のビジネスマナーとしては、担当者のハンコは少し『左に傾けて』押すのが粋なんだよ。上司である僕の印鑑に向かって、お辞儀をしているように見えるだろ?」
課長は親切心から教えるように、自らの承認印を少し左斜めに傾けて押してみせた。
お じ ぎ ハ ン コ 。
奏は自席に戻るやいなや、PCの画面を殴りつけたい衝動を必死に抑え込んだ。頭痛がした。物理的な頭蓋骨の内側で、脳細胞が悲鳴を上げている。
(狂気の沙汰だ……! 朱肉に含まれる顔料の物理的配置に対し、特定の傾斜角度を付与することで『視覚的従属意思』を表現するだと!? 重力制御の失敗でも、手元の狂いでもない。あえて意図的に不正確なスタンプ作業を行うことが『マナー』だと……!?)
「佐々木殿……!」
奏は青ざめた顔で結衣を振り返った。
「私は発狂しそうです。この『お辞儀ハンコ』なる儀礼に、一体どのような合理的力学が存在するのですか! 直立した印影は反逆の意思を示すとでも!? 傾斜印字によって印章の可読性が低下し、認識エラーを引き起こすリスクの方がはるかに甚大ではありませんか!」
結衣はクスッと笑い、温かいお茶の入った湯呑みを奏の前に置いた。
「落ち着いて、新渡戸くん。理屈で考えたら絶対に無駄だし、おかしいよね。私も最初は変だなって思ったよ」
「では、なぜこのような非効率の極みとも言える文化が存続しているのですか!」
「うーん……多分ね、『私はあなたを敬っていますよ』っていう気持ちを、目に見える形にしたいからなんだと思う」
結衣は湯呑みを両手で包み込みながら、静かな声で言った。
「日本人はさ、直接言葉で『私はあなたより下です』とか『尊敬しています』って言うのが苦手な人が多いでしょう? だから、挨拶の言葉を細かく変えたり、ハンコの角度を変えたりして、角を立てずに『あなたへの敬意を持っていますよ』ってシグナルを送ってるんじゃないかな。そうやってお互いの自尊心を守り合って、無駄な衝突を避けてるの」
奏は絶句した。
(衝突の回避……自尊心の保護……)
ゼノビア帝国においては、絶対的な力と階級制度によって秩序が保たれていた。下位の者が上位の者に服従するのは圧倒的な武力と権威による恐怖があるからだ。
しかし、この平穏な地球の日本社会においては、誰もが対等な人間として生きている。武力で他者を圧伏することが許されない世界において、人間たちは過剰なまでの「儀礼」と「配慮の記号」を発明した。
言葉の端々に忍ばせる微細な階級コード。
紙の上の印影にまで込める、慎み深い傾斜角度。
それらは一見すると愚行でしかない「業務効率の低下」に見えるが、実態は——**個と個が衝突して破綻するのを防ぐための、高度に発達した『社会的緩衝材』**なのだ。
奏は自らの手元にあるシャチハタ印を見つめた。
「誇り高きゼノビアの参謀たる私が、紙の上の朱肉の角度ごときに屈することになるとは……」
奏は静かに息を吐くと、新たに印刷し直した書類をデスクに広げた。
情動を捨て、課長の印影が存在する方向を精密に割り出すと、自らのハンコをわずかに——完璧に15度だけ左へ傾け、丁寧に押し直した。
ポン。
お辞儀をした印影が、そこにあった。
「……分析完了だ。これもまた、この星で生き残るための防衛戦略の一環と定義する」
奏の呟きを聞いていた結衣が、嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、新渡戸くん、すごく日本人に近づいてきたね」
「不本意です」
奏は真顔で返しつつも、胸の奥で小さな達成感を覚えていた。目に見えぬ「空気」に続き、目に見える「儀礼」の裏にあるアルゴリズムを、彼はまた一つ解読したのだった。




