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銀河帝国の参謀、日本で働く。  作者: sooomen


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概念なき防衛線 — 「空気を読む」

「おい新渡戸、これ……どういうことだ?」

フロアの静寂を切り裂くように、課長の低く重い声が響いた。


投げ出されたのは、新渡戸奏——かつて銀河帝国ゼノビアの最高参謀として幾多の星系を攻略し、「冷血な演算器」と恐れられた男、ゼノ=ヴェルグが昨日丸一日を費やして作成した業務改善企画書であった。

奏は完璧なお辞儀の角度から寸分の狂いもなく上体を起こし、氷のように冷徹な眼差しで上視線を返した。

「どういうこと、とは具体的にどの項目の記述を指しておられるでしょうか。現行の物流フローにおける無駄な目視確認工程を撤廃し、AIによる全自動識別へ切り替えることで、人件費を年間二割削減、処理速度を四〇%向上させる内容となっております。データに基づいた、最も合理的かつ最短の解決策かと」

「そうじゃないよ。論理は分かった。言ってることは百パーセント正しいよ」


課長は疲れたように太い首を横に振り、額の汗をハンカチで拭った。


「でもさ、これだと他部署の顔がつぶれるだろ? 隣の物流二課は、あの手作業の精度を誇りにしてるんだよ。いきなりこんなもん出されたら、二課の部長が激怒してウチの課全体の予算削られちゃうかもしれないじゃない。もう少し『空気を読んで』書いてくれないと困るんだよ」


クーキヲヨム。


その瞬間、奏の頭脳で地球人の生理構造とコミュニケーション体系に関する全知識データベースが超高速で走査された。しかし、どれほど深く検索をかけても、「大気中の気体成分を察知して行動を選択する」などという明確な計算式は見つからない。

(気体分子の密度でも測定しろというのか? いや、違う。この未開惑星の生物たちは、視覚と言語による情報伝達の裏で、目に見えない『暗号化された非言語プロトコル』を常時受信し合っている……!)


かつてゼノビア帝国が率いた戦場において、参謀の指示は絶対であり、かつ極めて明瞭であった。「全軍、第三基幹航路より突撃せよ」という命令は、文字通りの意味しか持たない。そこに「前衛艦隊のメンツを考慮して、あえて遠回りする」などという曖昧で情緒的な変数が挟まる余地は一切存在しなかったのだ。

だが、この「日本」と呼ばれる極東の島国においては、提示された言葉そのものよりも、その背景に存在する無数の人間関係や感情という莫大な隠しデータの解読が求められるらしい。

自席に戻った奏は、液晶モニタの無機質な光を睨みつけながら、深く、重い溜息をついた。かつて超新星爆発のエネルギー計算すら一瞬でこなした脳細胞が、知性のない熱を発している感覚があった。


「新渡戸くん、また課長に小言言われちゃった?」

隣のデスクから、軽やかな声が降ってきた。先輩社員の佐々木結衣だ。彼女は奏のデスクの端に、缶コーヒーを缶の向きまで整えてそっと置いた。

「……佐々木殿。私は深刻なバグに直面しております。『顔がつぶれる』とは何ですか。彼らの解剖学的な頭蓋組織や皮膚組織に不可逆的な物理的損壊が発生するわけでもないのに、なぜ組織の利益を最優先した合理的提案が退けられるのですか」

「あはは、解剖学って……相変わらず表現が個性的だねえ」

結衣はクスクスと笑いながら、自分のPCの手を止めて奏の方へ身体を向けた。

「あのね、要するに事前に『根回し』をして、お互いの面目を保ってあげなきゃいけないの。いくら新渡戸くんの案が『正論』でも、ストレートにぶつけると角が立つでしょ?『自分たちのやり方を否定された』って相手が感じちゃったら、仕事ってうまく回らなくなるんだよ」

「……正論を拒絶し、感情的な配慮を優先することが、結果としてこの集団の生存確率を高めるとでも?」

「そうだよ。特にこの国ではね、『正しさ』よりも『調和』の方がずっと大事な時があるの。だから言葉にされていない『空気』を感じ取って、相手の気持ちを察してあげるのが、大人としてのマナーなんだよ」


「察してあげる…」


それは、ゼノビア帝国であれば「高次元テレパシー能力者の領域」あるいは「不確実性による事故を引き起こす意思疎通の放棄」とみなされる過失行為だ。

この星の人間は、言葉という極めて高度な精密通信機器を与えられていながら、あえてそれを使わず、相手の表情の微細な変化や場の沈黙の長さを分析し、お互いの思考を推測し合っている。なぜこれほどまでに非効率で、かつエラーを引き起こしやすい複雑な交信手順を自らに課しているのか。

「難解すぎる……。過去に戦ったどの異星文明の暗号解読よりもはるかに不条理だ……」

奏が頭を抱えていると、社内チャットツールから電子音が鳴った。通知を表示すると、先ほどの上司からのメッセージだった。

『新渡戸くん、さっきの件だけどさ。まあ適当によろしく頼むよ』


「テキトウ……」


奏の思考が再び完全に停止した。

地球の辞書において、「適当」という語彙には二つの対極的な意味が存在する。「条件や目的にぴったりと適合していること(精密)」と、「いい加減で粗雑に対応すること(散漫)」。

上司は今、この極限状態においてどちらの戦略を要求しているのか。過不足なく完璧な調整を行えという高度な指令なのか、それとも適当にお茶を濁して撤退せよという敗退命令なのか。

「佐々木殿、これは我が部隊への試練ですか。どちらの解釈を選択すれば、私はこの組織で生存を許されますか」

メッセージ画面を指さす奏を見て、結衣は困ったように眉を下げつつ、優しく微笑んだ。

「ああ、それはね……『二課の部長の顔も立てつつ、うちの課の主張もちょっとだけ残して、いい感じに修正して再提出してね』って意味だよ。言葉通りに受け取っちゃダメ。頑張って!」

そう言って、彼女は自分の作業へと戻っていった。


「いい感じに修正……」


奏は缶コーヒーのプルタブを引き、静かに口へと運んだ。微糖のほろ苦い液体が、乾いた喉を通っていく。

言葉の定義すら一定しない世界。正論が牙を折られ、感情と人間関係という目に見えない網の目が張り巡らされた戦場。


(なるほど……これが『地球』、そして『日本』という未知の領域か。力による物理的干渉も、論理による説得も通じない。この『空気』という目に見えぬ流体を制御し、読み解かない限り、私はこの社会という集団の中で戦果を挙げることはできん……!)


元最高参謀としての誇りが、胸の奥底で静かに、しかし熱く燃え上がっていた。

論理だけで割り切れないというのなら、泥臭く行動作為のデータを蓄積し、この「日本人」という特殊な生命体の行動アルゴリズムを完璧に解析してみせる。

奏は背筋を再びピンと伸ばすと、ペンを強く握り直し、手書きのメモとモニターの企画書へと向かい合った。

まずは「他部署のメンツ」および「調和」という名の不可解なパラメーターを組み込んだ、新たな計算式を組み立てるために。

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