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東部都市ピオネールから東へ進むこと数キロ、クリシュカの東端に位置する山岳地帯には、3000メートル級の切り立った山々が南北に軒を連ねている。
緑豊かなこの国では珍しく、黒っぽい岩に覆われた不毛の山肌と、万年雪によって白化粧を施された峰々は、古来よりクリシュカじゅうにその威容を知らしめながら人々の崇敬の念を集めてきた。
"牙の山脈"──クリシュカの人々は、この、人間を拒絶するかの如くそそり立つ、ナイフのように鋭利な山々を、そう呼んでいる。
「師範、拠点の設営、万事滞りなく完了しました!いつでも行けます!」
「重畳であるな。ソウタよ、そなたも体が温まってきた頃合ではないか?」
「温まってきたというか、既に汗だくですね……」
汗腺から溢れ出る雫を滴り落ちるままに任せ、恨めしげに雲一つない空を見上げる。平地に比べればいささか気温は下がっているはずなのだが、上から強烈に照りつける陽射しがじりじりと俺の肌を焼いていた。
山脈の麓から道なき道を登ること数時間、俺たちはごつごつした岩が見渡す限り広がる緩やかな斜面に荷物を降ろし、そこにテントを張った。
「プリムラ様、作業はひと段落つきましたから、少しお休みになってくださいませ。膝が笑っておりますよ」
テントの傍ではミスティア先輩がフラフラになっていたプリムラのお尻に折り畳み式の椅子を差し出していたところだった。
後衛にしては健脚なプリムラだが、平地の多いクリシュカ生まれなだけに山登りの経験は少なかったようだ。不安定な岩場と急勾配に幾度となく膝をつき、その足取りは終始ぎこちないものだった。
一方のミスティア先輩は余裕綽々な様子で俺たちの3歩後ろを歩いていた。あの丈のスカートでどうやって登っていたのか観察し損ねたのは一生の不覚だ。
「体力には自信あったんだけど、平地と山じゃ勝手が違うんだね。太ももパンパンになっちゃった」
「仕方ないさ。ここは足場が悪すぎる。俺もまさか山道すらないとは思わなかったし」
"牙の山脈"は鉱物資源の宝庫であり、裾野には多数の鉱山がひらかれているが、中腹以降にはまったくといっていいほど人の手が加わっていない。
岩だらけの進みにくい地形と山頂付近の厳しい気候に加え、100年前からは多数の魔物が出没するようになり、今ではこの山脈に登ろうなどと考えるのは一部の冒険者に限られている。
魔物が増加したということは、近くにダンジョンが存在するということでもある。
この長大な山脈のいずこかに、まだ見ぬダンジョンの入り口が隠されている……そう考えた多くの冒険者たちが"牙の山脈"に挑んできたが、未だに目ぼしい成果は得られていない。
まあ、今回はダンジョンを探しに来たのではないから、その辺を気にする必要はない。あわよくば……なんて考えているのは否定しないが。
「でね、今更なんだけど、ここでどんな特訓をするの?ソウタはもう聞いてる?」
「いや、全然聞いてない。ラオフー先生はギリギリまで勿体ぶるのが好きな人だから」
「敵は己の心構えができるまで待ってはくれぬのでな。これも愛の鞭よ」
「受講者が減った主な理由ってたぶんそこだと思いますよ」
不意打ち気味に命の懸かった戦場に放り込まれれば力自慢の生徒たちだって嫌気が差すだろう。格闘学科の先行きは暗かった。
「山奥で修行といえば滝行や瞑想を連想いたしますが、この辺りに滝など見当たりませんし、魔物が出没するような場所で精神を研ぎ澄ませるなど……難問でございますね」
ミスティア先輩にも分からないとなると、後はセイレンに聞いてみるしかない。丸石の上で器用にバランスを取りながら腕のストレッチを始めている彼女に視線を向ける。
「はい!さっぱり分かりません!考えるのは苦手ですから!」
元気のいい返事が返ってきた。彼女にとっては何が来ようと全力投球することに変わりはないのだろう。
当面の課題である俺の持久力を鍛えるのが特訓の目的なのだから、順当に行くと麓との標高差を利用した訓練法がまず考えられる。
空気の薄い高地で運動をすることによって肉体の機能を高め、効率的にスタミナを向上させる、いわゆる低酸素トレーニングというやつだ。
この山中で気功術を発動しながらフルマラソンでもすれば、体力と魔力を共に大きく高めることができるはずだ。実に論理的な発想だ。
だからこそ、有り得ない。あのラオフー先生が、そんな味気ないものをわざわざ特訓と称するはずがないのだ。
「ラオフー先生、俺は、何と戦えばいいんですか?」
いくつかの過程をすっ飛ばして結論を訊ねてみた俺に、ラオフー先生は「さすが分かっておる哉」みたいな顔を向けてきた。全然嬉しくない……。
この特訓が穏便に終わるなんて期待はとっくに捨てていたので、せめて何と戦わされるのか……というか、先ほどからこちらに向けて山を下ってきているアレの正体だけは知りたかった。
周囲の岩々が保護色になっていたので気付くのが遅れたが、それは生命の息吹が感じられない荒涼たる景色の中で、唯一意思を持って動いている物体だった。
「筋肉も魔力もその根本は同じよ。使えば伸びる。洗練される。酷使すればするほど、さらに逞しく、強靭に蘇るのだ」
先生の長話が本題に到達する前に、謎の物体は詳細なディティールを把握できる距離まで近付いてきた。
それは真っ黒い肌をした人型の魔物だった。褐色とか、茶色とかではなく、この山脈の色と同じ、岩石の黒さだ。
オーガよりやや小さいだろうか、石そっくりの色と質感を備えた身の丈3メートルばかりの巨人が、涎を垂らしながらのしのしと歩いてくる。
「ロックジャイアントだね。気を付けてねソウタ、すっっっっっっっごく硬いって噂だから、たぶん素手で叩くと痛いよ」
「心配めされるな、倒す必要はない。それでは修行にならぬでな」
「倒さなくてもいい……?」
かえって不穏な台詞だった。先生は「倒す必要はない」とは言ったが「戦う必要はない」とは言っていないのだから。
「左様。そなたにはこれからあの虚ろな巨人めの攻撃を真っ向から受けてもらう。無論1度や2度ではない。息の続く限り、魔力が底を尽くまで防御し続けるのだ。
極限のせめぎ合い、生と死の狭間に垂らされし蜘蛛の糸を辿ることこそが武の道と知れ」
かいつまんで言うとロックジャイアントのサンドバッグになれということらしい。いつもながらこの人は俺の予想を軽々と越えていく。
魔力が空っぽになるまで気功術を発動し続け、筋肉における超回復的な理屈で魔力の限界量を伸ばすのが狙いなのだろう。
なら別に他の方法でもいいんじゃないかと思うが、何かしらの緊張感がないと人は無意識で自分の力をセーブしてしまうから、らしい。
「よいかソウタよ、ただひたすら耐えるのだ。そして己の限界を越えた時、そなたは見事天へと昇る竜となるのだ!」
「昇天って意味じゃないことを願いたいですね……」
手を抜けば死ぬという状況を作り、火事場の馬鹿力を体に馴染ませていくのがラオフー式教育術だ。
理屈は分かる。ただ、これについてこれる人はそう多くはないのだろうなと再確認した。
「なら、私はソウタさんのサポートに回りますね。気功術を維持できなくなってきたら私にお伝えください。すぐにロックジャイアントを処理しますから」
「その時はそこらをひとっ走りして新しい巨人を調達してくるのだぞ。この山は広いが、それも修行と心得よ。そなたは体力も鍛えねばならぬのだからな」
「結局マラソンもするんだな……」
うんざりするようなハードワークだが、手っ取り早く成長するためには、多少の無茶は許容するべきなのかもしれない。
この程度で根を上げるようなら、ダンジョンの攻略など夢のまた夢なのだから。




