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ヴィエッタ学園を出て北に数時間進んだ先にある丘陵地帯に"悪魔の胃袋"は存在する。
高低差十数メートルの畝が波のように幾重にも連なって遥か遠くまで続いている様子は、クリシュカでも有数の絶景として知られており、芸術家たちはこぞってこの丘陵の尾根から見下ろす雄大な景色を自らの作品に取り入れていたという。
そう、ほんの100年前までは。
今や畝の谷間に開けられた穴から続々と這い出してくる魔物たちのせいで、近年ここを訪れる一般人は激減していた。
丘陵地帯は観光地としての役割を渋々断念することになったが、代わりに冒険者たちを新たな顧客とすることに成功した。それは皮肉にも、この地に出現したダンジョンのおかげだった。
「あらゆる病気を治すといわれる黒スズランの花、か」
「誇大広告ではあるわね。それでも大抵の熱病や肺炎なんかはあっという間に治せるらしいけど」
俺たちは丘陵地帯の谷間にぱっくりと開いた裂け目の淵から"悪魔の胃袋"を覗き込んでいた。
近隣の町医者からの依頼で、薬の材料となる黒スズランを採取してくるというのが今回のクエストだった。
話を聞く限り黒スズランには抗生物質のような効能があるのだろう。医者としては喉から手が出るほど欲しいものに違いない。それだけに報酬は5人で山分けしても学生の手に余る額だった。
「しかし臭っせえな……。本当に病気を治す花とやらがこんな体に悪そうなダンジョンに生えてるのかよ?」
「君は相変わらず短絡的だね。そういう環境で育つことができるからこそ強い薬効があるとは考えないのかい?
実際に産地として資料室にも記録されてるんだから、空振りに終わることはないさ。
……採り尽されていなければ、だけど」
鼻を押さえながら眉をひそめるアキュート。言い返すナギアもまた入り口から顔を背けていた。
裂け目の中からは卵が腐ったような異臭と黄色い煙が常に吹き上がってきており、まるで温泉のようだった。臭いは温泉どころかゴミ捨て場だが。
入り口の時点で予想以上の異様さにたじろぐ俺たちだったが、クエストを受けてしまった以上何の成果もなしに帰るわけにはいかない。
俺たちは当分吸えなくなる新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んでから、螺旋状のスロープになっている入り口を降りていった。
ダンジョンの内部はおおむね俺がイメージした通りの景色が広がっていた。
洞窟の地面には誰かが落とし穴でも作ったかのように小さな池が点在しており、その池になみなみと満たされているのは当然ただの水ではなかった。
この世のあらゆる色を混ぜ込んで最後に油をぶっかけたような、ギトギトして虹色に光る液体が辺り一面に黄色い煙を充満させていたのだ。異臭の正体はこれに間違いなかった。
「これ、絶対落ちたら駄目なやつだよな……」
「臭いがきついからできるだけ早く……って思ってたんだけど、こんな毒溜まりがたくさんあるんじゃ危ないよね。この際臭いのは我慢我慢……」
ここは確か地下水の関係で東の山脈から毒性のある有機金属が流れ込んでくる場所だと授業で言っていた。
そういえば地上の丘陵地帯にはいくらか草が生えていただけで樹木は一切見当たらなかった。汚染されているのはおそらく毒溜まりだけではなく周辺の土地全体だろうし、あまり地面や壁に触らない方がいいかもしれない。
ひょっとすると、人が来なくなったのは魔物のせいだけではなく、地下にこんな汚らしいものが詰まっていたと知れ渡って「美しい丘陵」のイメージが壊れてしまったというのが本当の理由ではないだろうか?
俺たちは鼻を摘まみたくなる衝動を必死に抑えながら奥に進んでいく。ここはダンジョンなのだ。臭さに負けて片手を塞いでしまえばいざという時に一手遅れてしまう。
隊列はアキュートを先頭にリン、ナギア、プリムラ、そして俺が最後尾だった。徒手空拳しかできない俺が最後なのは不意打ちへの備えだ。
"悪魔の胃袋"には巨大なトカゲが生息している。ダンジョンの毒に適応し、自身もまた同種の毒を持つ厄介な魔物だ。
このダンジョンにも瘴気による光源は存在するとはいえ、内部に立ち込める煙によって視界は限られており、壁に張り付くことができる毒トカゲに後衛が奇襲される危険性は高い。
「いざって時には体を張って守らないとな……」
「無理しないでね。ソウタだってちょっと前に大怪我したばっかりなんだから」
俺の前を歩いているプリムラが心配そうな視線を送ってくる。気持ちは嬉しいのだが前を見て歩いてほしい。雑談してて毒溜まりに落ちましたなんて洒落にもならなかった。
「大丈夫だよ。俺だって少しは強くなってるんだからそうそう怪我なんてしないさ」
気功術を使えば大抵の攻撃は防ぎきれるだろうし、毒を受けたとしても治療する手段はある。
それこそが俺たち新人にこの一見危険度の高いダンジョンの探索が許可された理由であり、リンやプリムラがこのクエストを受けた理由でもあった。
「ソウタ、解毒剤はちゃんと持ってるかしら?後で忘れてたなんてことのないようにするのよ」
「ちゃんと持ってるよ」
俺はベルトを通す穴に結び付けていた巾着袋を軽く叩いて中のビンが健在であることを確かめた。
毒があるなら、解毒剤を作ればいい。そう考えた者は俺たちだけではなかった。
ヴィエッタ学園の錬金学科が長年に渡る研究の末に生み出した、"悪魔の胃袋"の毒を中和する薬。それを俺たちは購入していたのだ。
この薬はまだ一般への流通が始まっていないため、"悪魔の胃袋"というダンジョンは普通の冒険者にとっては厄介だが冒険学部の生徒にとっては探索難度が低いという奇妙な逆転現象が起きていた。
毒さえなければこのダンジョンはただの見通しの悪い洞窟にすぎない。トカゲには警戒が必要だが連中は群れて行動する性質ではないので落ち着いて対処すればいい。
仮に解毒剤が切れてもここには治癒の魔術を覚えたナギアがいる。加えて彼の星魔術があれば迷うこともないだろう。
準備は万端、事前調査も万全。しかも報酬は莫大。幸先のいいスタートを踏み出すことができそうだ。
「毒トカゲに注意して、黒スズランを見つけて、すぐに帰還する。解毒剤の費用を差し引いてもかなりの儲けになるわ」
「初日からウハウハだね。帰ったらすぐお母さんに仕送りしてあげよっと」
「やれやれ……。皮算用はやめた方がいいよ。まだ探索を開始したばかりだし、ダンジョンでは何が起こるか分からないんだからさ」
「つってもトカゲだろ?さっき地上でも何匹か見かけたが、言うほど強そうには見えなかったぜ」
「君も素人じゃないんだからいい加減見かけで判断するのはやめなよ」
そう言っているナギアの声にもそれほど緊張感があるようには思えなかった。
連日のダンジョン実習を無事乗り越えてきたという自負が俺たちに全員に強い自信を与えていたのだ。
俺たちは油断していた。だからこそ気付かなかった。
このダンジョンに、毒トカゲとは比べ物にならないほど厄介な魔物が潜んでいるということに。




