3-10
窪地の底からゆっくりとガルムが近付いてくる。
昔見た教養番組の動物特集で言っていたが、肉食動物というのは瞬発力に長けるが持久力においては多くの草食動物に負けるらしい。だからこそ彼らは獲物が絶対に逃げられないギリギリの範囲に入るまで全力で走らない。
そんなに慎重にならなくても持久力においてもあなたの方が上ですよ、と俺は心の中で呟きながら、じりじりと後退しつつ狩りが開始されるまでの時間を稼いでいた。
「よいか、明鏡止水の心で魔力の流れを感じ取るのだ!」
「ソウタさん、まずは血液の流れを意識してください!そうすれば自然と自分の中にある魔力に気付くことができます!」
「気功術のことは良く分かりませんけど、たぶん魔力を練り上げるところまでは魔術と同じはずです!メリッサ先生と昨日やったことを思い出してください!」
崖上の安全地帯に避難した3人が俺に檄を飛ばす。具体的な指導には感謝するがこの無謀な特訓を一旦中止するという発想はないらしい。
その場のノリで突撃した俺も馬鹿だが教えなかった2人も悪い。口頭によるアドバイスはあるものの、結局俺はぶっつけ本番で気功術を習うことになった。
というか習うという表現すらおこがましい気がしてきた。魔力を高めるための手順や手法などは実質俺の閃きにのみ依存しているのだから。
「血液の流れっていってもな……」
心臓の音ならうるさいぐらいに聞こえているが、この緊張状態で全身の血流を感じろというのはなかなか難しい。
こういうのって普通瞑想とかの方がいいんじゃないかと思ったが今さらそれを言ったところで後の祭りだ。
そうこうしているうちに、とうとう俺のかかとが固い岩壁にぶつかった。時間切れだ。俺はガルムの射程範囲に入ってしまった。
ガルムがわずかに身を屈めたかと思うと次の瞬間その体がバネでも付いたみたいに飛び上がり、緩やかな放物線を描いて俺に迫る。
「ガウウウッ!」
「──ッッ!」
窪地の上と下、高低差にすれば1メートルは俺の方が高い位置にいたのだが、ガルムは俺の斜め上から飛んできた。なんという跳躍力。だがそれが俺の命を救った。
ガルムの下を潜り抜けるように、窪地の中心に向かって野球のランナーさながらにヘッドスライディング。下り斜面になっているおかげで地上と空中、両者の相対距離は開く。ガルムの爪は俺の肉深くまで届かず、背中を掠めただけだった。
「ぐうっ……!それでも、痛いけどな……!」
強い熱感と共に学ランの背面がぱっくりと裂ける。肩甲骨のあたりから数十センチ下まで俺の表皮が破けているのだろう。もしかすると表皮どころではないのかもしれない。
ガルムはすぐに追撃してこなかった。着地したガルムは四肢の感触を確かめるようにその場で足踏みすると、おもむろに振り返った。
久しぶりの狩りで勘が鈍っていたのだろうか。ガルム自身も先ほどの大跳躍は失敗だと感じているようだった。
最初の一手は互いの立ち位置を交換しただけに終わった。これでひとまず仕切り直し……なんて甘い展開は用意されていなかった。
再び俺に体の軸を合わせたガルムが徐々に加速しながらこちらに駆け下りてくる。数百キログラムは下らない大重量の巨体が今度は下り坂の重力という加護を得て突進してくるのだ。
今度は跳躍などという派手で不確実な方法は取らなかった。4本の足はしっかりと地面を踏みしめ、野生特有の無駄を排した動きで全身に更なる加速度を与える。
「ウゥゥゥ……ガフッ!」
俺は横っ飛びでガルムの激突を回避しようとする。牙や爪も脅威だがあの速度で接触されればそれだけで車に轢かれるようなものだ。
だがこの生きた車はとても小回りが利いた。俺が進路上から逸れたのを見て取ると前足を地面に突き立てるようにして急ブレーキ、そして前足の関節を深く折り曲げることで慣性のついた後半身から来る勢いを吸収した。
こうして停止と次の行動への"溜め"を同時に行ったガルムは前足に蓄えられたエネルギーを伸ばすことによって解放した。
ガルムの前足が地面を斜めに蹴って、その体が急旋回する。俺とまた軸が合った。至近距離。
「まずっ──ぐ、ああああっ!」
一時的に2足で立ち上がったガルムの体が覆い被さってくる。反射的に身をよじるが、間に合わなかった。
左肩に溶けた鉄でも押し付けられたような強烈な痛覚が発生する。見れば、ガルムの尖った犬歯が食い込んでいた。
ガルムの口はともすれば俺を丸呑みにできそうなほど大きい。顎の力も見た目相応だ。奴があと少し力を入れれば俺の左腕はあっけなく胴体とおさらばすることになるだろう。
痛みと恐怖で体を退くのは最悪手だ。そのまま引きちぎられる。だから、俺は反撃に出た。
「放せ……よっ!」
俺は自由に動く右半身に可能な限り捻りを加え、ガルムのこめかみに右フックをお見舞いしてやった。
頭部への攻撃はダメージを目的としたものではない。相手の脳を揺らし、意識を乱れさせるためだ。
果たして俺の目論見が成功したのか、あるいは思わぬ反撃にたじろいだのか、ガルムは俺を解放すると機敏な動作でバックステップして距離を取った。
左肩に強い熱を感じる。同時に傷口から何かが抜けていくような悪寒も。2つの矛盾した感覚は俺に明確な死の予感を与えてくれた。
朦朧とした意識を必死に繋ぎ止めてガルムの様子を観察する。窮鼠猫を噛むという言葉を本能的に理解しているガルムは油断ならぬ目つきで俺を値踏みしていた。
余裕ができたことは僥倖だが俺が窮地に立たされていることに依然変わりはない。むしろ左腕が使えなくなったことで状況はさらに悪化していた。
「ソウタさんっ!」
遠くからセイレンの悲鳴が聞こえた。ちらりと目をやると崖の上ではこちらに降りてこようとするセイレンをラオフー先生が手で制しているところだった。
「し、師範!?」
「ちょ、どうして止めるんですかあなたは!?このままだとソウタさんが死んじゃいますよ!」
師の意図が掴めず困惑するセイレンや珍しく怒りを露わにするユニにラオフー先生は構わず、ずっと俺の方を見つめていた。
「ソウタよ。このままいけばそなたは死ぬ。なるほど、私やセイレンが手を出せばそなたは救われるであろうな。
……だが、そうしてここで生き延びたとして、次はどうする?」
次?この人はいったい何を言っているのだろうか。
「冒険者ともなればこの先数限りない苦難がそなたを襲う。しくじれば自分の命だけでは済まぬようなものばかりがな。
そうなった時、そなたはどうする?また誰かに助けを求めるのか?これも天命と諦めるのか?」
ラオフー先生と目が合う。その瞳はタルカス先生と同じものを映していた。手段が滅茶苦茶という致命的な一点を除けばだが、この人も教師の端くれではあるのかもしれなかった。
「人にはな、どれほど勝ち目のない戦であったとしても、『無理だ』とは言えぬ時があるのだ。勝てる勝てないではない。勝たねばならんのだ。何としてもな。
……それを為すのは今ぞ」
このラオフーという男は狂人だ。狂っている。……だがまあ、言いたいことは理解した。
冒険者とは、絶望に立ち向かう職業なのだ。彼らにとって絶体絶命は日常茶飯事だ。その度に他人に頼るようでは話にならない。魔物という人々にとっての絶望を肩代わりして打ち払うのが冒険者の役目なのだから。
つまり先生は「どうせ何度もぶつかることになるんだから今のうちに絶望に慣れておけ」と言っているのだ。なるほど、確かにこれは授業だった。
「今勝てるかどうかは別問題だけどな……」
俺の左腕は既に感覚を失いはじめている。背中と肩、2つの傷口からとめどなく血が流れ、異常事態を認識した心臓がフル稼働して全身に血液を補充しようとする。だがそれも虚しくさらに多くの血が体の外に──
そこで俺はようやく気付いたのだ。一向に流れ出ていかない"それ"の存在に。
「ああ……確かにこれは死にそうにならないと分からないな」
血流とは似て非なるそれの流れが明確に区別できたのは、派手に出血したおかげだった。
こいつだけは出ていかない。そんな構造になっているとメリッサ先生は言っていた。四肢が八つ裂きにでもなればさすがに出るのかもしれないが、この程度の傷口から漏れ出るようなやわなものではなかったようだ。
今や完全に動きを止めた俺を観察した結果、こいつは脅威ではない、と結論を下したガルムが窪地の外周を伝って俺の側面を取る。
そこから隅の岩壁を蹴るようにして一気に速度を上げると、ガルムは俺の喉笛を噛みちぎらんと飛び掛かった。
「──!?、ガッ、フ!?」
この歴戦のハンターは俺の首筋に寸分違わず必殺の牙を突き立てることに成功した。
だが、それはあくまで皮一枚までの話。その先にある柔らかい肉も、骨も、表皮の下を流れる毛細血管すらも傷つけることはできなかった。
ガルムの牙は岩でも齧っているみたいに首の表面で停止し、文字通り"歯が立たなかった"。
後ろ足で体重を支えながら寄り掛かるようにして俺の首にぶら下がっているガルムは、1度引いて他の部分を狙うか、このまま強引に噛み切ろうとするかの選択を強いられていた。
ガルムは前者を選び取った。1歩下がって再び4つ足で地面に着地すると、今度は出血が続いている左肩に狙いを定める。
「必要な時に、必要な部位に、必要な分だけ……だったな」
首に感じる熱感はガルムに噛まれたことによる痛みではない。今まさに魔力が高まっているのだ、この部分に。そして俺の肉体は一時的にではあるがガルムの牙を受け止めるだけの防御力を発揮した。
ユニの言う通り、昨日メリッサ先生に操られた際に行った魔術の前準備、すなわち体内の魔力を操作した経験がここに来て活きてきた。あの時は不発ばかりでガッカリしたものだが、それも無駄ではなかったのだ。
防御はできた。次は、攻撃する番だ。
首への攻撃を何とか防げたとはいえ、ボロボロになっている左肩に攻撃を集中されればついさっき覚えたばかりの気功術では心許ない。
やはりここは賭けに出るしかない。ガルムが突撃してくるタイミングに合わせてカウンターをお見舞いしてやるのだ。
高めた魔力を右手に集めるのは首にやった時より楽だった。「できるということに体が気付けば後はどうにでもなる」というメリッサ先生の言葉は正しかった。
昨日やった時は火の魔術を使おうとして失敗に終わった。だが今回は体内に留めるだけなので昨日の工程を途中までなぞるだけでいい。
肘関節に力を蓄えるようなイメージで右手を折り曲げ、拳を徐々に固く握りしめていくことによって筋肉のギアを高めていく。
背中を弓なりにしならせたガルムが一気に加速を開始するのと俺の右手に集まった高密度のエネルギーが消費されるべき矛先を求めて爆発するのはほぼ同時だった。
魔術のようにカッコいい決め台詞は思い浮かばなかったが、ここは先輩に倣ってこう言うべきだろう。
「──破ァッ!」
「ギャウッ!」
右手から溢れんばかりの力に任せて振るった俺の正拳突きは、今まさに俺の肩を食いちぎらんと顎を広げていたガルムの胸部に吸い込まれた。
ガルムは体をくの字に曲げたままの姿勢で数メートル吹っ飛んで、地面に落ちた後も窪地の斜面を重力に逆らってスライド走行し、岩壁にぶつかってようやく停止した。
拳を引いてからたっぷり数秒の間静止して、ガルムが起き上がってこないのを見届けた俺は全身から力を抜く。俺はどうにかこうにかラオフー先生の言う立ち向かうべき苦難とやらを撃退することに成功したらしい。
……ただ、先生の言うことが正しいのなら、俺が冒険者としてやっていくために立ち向かうべき苦難は、本当はガルムなんかではないのかもしれない。
俺は、あの戦いを終わらせないままここに来てしまったのだから。




