2030年6月。ほどほどをちゃんとやる。年末の税金2000万対策として1000万抜く。
二〇三〇年六月。
博之の会社は、相変わらず「ほどほどを、ちゃんとやる」を合言葉に動いていた。
派手な高級化はしない。
百点満点のサービスも狙わない。
その代わり、値段に対して十分と思ってもらえる仕事を、毎日きちんと続ける。
「なんか、これでええ気してきたな」
月次の報告を眺めながら、博之が言った。
老人ホーム訪問営業部は、予想以上に順調だった。
おじさんたちが地道に施設を回り続け、高槻、茨木、吹田方面へ少しずつ取引先を増やしている。
ネイル。
訪問美容。
そこから家族や施設職員の実店舗利用につながることもある。
「老人ホーム部、まだ伸びてますよ」
「最初、営業のおっちゃんの給料出たらええなぐらいやったのにな」
今では、立派に一つの事業になっていた。
高槻のネイルも美容院も、スナックも概ね順調。
千里山など新しい店舗に残っていた赤字も、月を追うごとに縮まっている。
さらに高槻ネイル二号店については、一号店の客を一部振り分けたこともあり、
「初月、ほぼプラマイゼロです」
「ええやん」
博之は満足そうに頷いた。
「新店一か月目でゼロなら、もう勝ちみたいなもんやろ」
「黒字じゃないですけどね」
「赤字十万、二十万覚悟してたんやから十分や」
焦らず、そこから新規客とレビューを積み上げればいい。
ただ六月になると、博之ができれば見たくなかった数字も出てきた。
「社長、税金用のお金、先に動かしますね」
経理担当のおじさんが言った。
「……いくら?」
「今年のペースだと、ざっくり年間で二千万円ぐらいは税金関係を見ておいた方がいいです」
「二千万?」
博之の顔が露骨に曇った。
「なんで二千万も払わなあかんねん」
「それだけ稼いでるからですよ」
「いやいやいや」
博之は椅子にもたれた。
「二千万あったら、何個仕事作れると思ってんねん」
「それ言うと思いました」
「ネイル何軒作れる?」
「数えないでください」
「五十万の小箱なら四十――」
「だから先に抜くんです」
経理担当は冷静だった。
「とりあえず今、管理上は一千万円、税金用として別枠にします」
「千万円消えるん?」
「消えません。使えないお金にするだけです」
「俺の中では消えるのと一緒や」
「その感覚が危ないんですよ」
周囲から笑いが起きた。
博之には前科がある。
もちろん税務上の前科ではない。
Excel上で税金をまともに管理せず、二千万円以上あったと思っていた数字が一気に百万円台まで
縮んだ、あの事件である。
「十月ぐらいに『税金足りません』ってなるよりいいでしょう?」
「……まあ、そらそうやな」
「社長、金見たら店作るし」
「全部は作らへんわ」
「五十万円余ったら物件探すじゃないですか」
「……探すだけや」
誰も信用していなかった。
数字が増える一方で、博之には別の変化も気になっていた。
「昔より、俺と現場の距離でかなったな」
最初のスナック一軒だけだった頃は、働いている人間の顔どころか、その日の機嫌まで
だいたい分かった。
今は無理だ。
百人を超える関係者。
店長。
統括。
清掃。
外回り。
経理。
「八月ぐらい、また交流会やろか」
「お茶会みたいな?」
「そんな感じ」
大げさな社員旅行でもない。
強制参加の宴会でもない。
顔を合わせ、飯を食い、少し喋る。
「金一封も?」
「ほんまにちょっとだけな」
「ボーナスじゃないんです?」
「そこまでガッチガチの会社ちゃうやろ」
そもそも博之としては、普段の報酬を極端に抑えて年二回まとめて渡すやり方には、
あまり興味がなかった。
「その分、時間単価はちゃんと払ってるつもりやで」
「それは高いと思いますよ」
スタッフの一人が言った。
「仕事細切れでも受けられるし、変なサービス残業みたいなのないですし」
「あと、無駄に店残って練習とかもさせへんな」
「美容系って、そこ結構大きいですよ」
自己研鑽は大事だ。
技術を高めたい人もいる。
しかし博之の店は、
「全員トッププレイヤーになれ」
という組織ではない。
「うち百点狙わんからな」
「またそれですか」
「七十五点とか八十点を毎回ちゃんと出したらええねん」
「七十五点って言われると微妙ですけど」
「ほな八十二点」
「刻みましたね」
皆が笑った。
「もっと技術極めたい人は、それはそれで外で勉強したらええし、将来自分の店でやったらええ」
ここで働く全員に同じ向上心を強制しない。
ほどほど働きたい人もいる。
生活費を少し増やしたいだけの人もいる。
家庭や体調と両立したい人もいる。
「今のところ、その辺で大きな歪み出てへんから、これでええと思う」
「細かい問題はありますけどね」
統括の一人が言った。
「例えば?」
「いや、いっぱいありますよ」
「……ほな俺、半分耳塞いどくわ」
「また逃げた!」
「そのための店長手当と統括手当やろ!」
「社長の仕事ですよ!」
「全部俺が聞いたら俺が潰れるわ!」
部屋中から笑い声が上がった。
博之も笑っていた。
現場の細かな人間関係。
シフトの不満。
誰と誰が合わない。
誰が少し遅刻が多い。
全部自分で抱えるつもりはない。
「重大なんだけ上げて。あとはみんなで頑張って」
「指示出し屋、本領発揮ですね」
「金も出してるからな」
二〇三〇年六月。
店は増え、利益も増え、税金も増えた。
そして博之が直接知らない仕事も増えた。
それでも大きく崩れてはいない。
ほどほどを、ちゃんとやる。
税金の一千万円は先に避ける。
細かな問題には耳を半分塞ぐ。
それが今の博之なりの、会社を長く続ける方法だった。




