2026年12月末日。仕事を辞める。退職金300万には手を付けずに年末ボーナス+αで出来るところまで踏みとどまる。
二〇二六年十二月。
博之は、十七年と少し勤めた会社に退職届を提出した。
何度も休職し、そのたびに復職してきた会社だった。
精神障害者手帳を持ちながら、できる仕事を探し、資格も数多く取った。それでも立場は変わらず、
給与は新卒社員より低いまま。会社の外で始めた動画配信や小説にも制限があり、
会社に残りながら別の道を広げることにも限界を感じていた。
一方、九月に始めたカレー屋兼スナックは、土日営業だけで月四十万円ほどの売上が
立つようになっていた。
原価、家賃、雑費、一日店長を務める女性への報酬を払い、自分の給与として十万円を取る。
それでも店には月八万円ほどが残る。
もっとも、その利益も清掃費や防犯カメラ、最初に使った二十五万円の設備投資の回収に
充てているため、事業全体で見れば、まだ大きく儲かっているわけではない。
それでも広之にとっては十分な手応えだった。
会社の肩書きを使わず、自分で場所を借り、自分で客を集め、自分との会話や店の空間に
金を払ってもらった。
土日だけでも、自分の給与として月十万円を取るところまで来た。
「これに平日の夜を足したら、最悪、食うぐらいはできるんちゃうか」
その見込みが、広之に退職届を出させた。
十二月末までは、有給休暇を消化することになった。
会社にはほとんど出勤せず、社宅の荷物を整理しながら、店の準備と年明けからの営業計画を考える。
最後の冬のボーナスも、約四十万円入る予定だった。
手元には、店を始めたときの資金から残していた二十万円ほどがある。
合わせて六十万円。
広之は、その金を当面の心の支えにしようと考えた。
「六十万あったら、何か月か売上が落ちても、すぐには死なんやろ」
退職後には、会社から退職金として約三百万円が支払われる予定だった。
だが、その金には手をつけないと決めた。
三百万円は、店を大きくするための金ではない。
新しい設備を買う金でも、酒を仕入れる金でもなかった。
もし店が失敗した場合に、人生そのものを立て直すための金だった。
どうしても大阪で生活できなくなれば、三重の実家近くへ戻る。
実家に住み、障害年金やSNS、小説から得られるわずかな収入で、細々と暮らす。
ぜいたくをせず、一人で生きるだけなら、何とかなるかもしれない。
「これは商売の金やない。最後の逃げ道の金や」
広之は、退職金が入る口座を普段使う口座とは分けるつもりだった。
店に不足が出ても、簡単には補填しない。
毎月の売上と、手元の六十万円の範囲で経営する。
そこを越えたら、店のやり方そのものを見直す。
十一月までの店は、土日利用を前提として家賃を月三万円に抑えてもらっていた。
しかし会社を辞める以上、いつまでも土日だけにしておく理由はない。
広之は、管理会社を通じて大家に相談した。
「年明けから、平日の夜も開けたいと思ってます」
「本格的に営業するということですか?」
「昼間は準備もありますし、最初から毎日は無理です。ただ、週に二日か三日、
女性にも立ってもらって、予約が入ったら自分も出ようかなと」
以前の約束では、平日も使う場合は通常の家賃六万円で改めて契約することになっていた。
「家賃は六万円で構いません。その代わり、平日も自由に使わせてもらいたいです」
大家側も、店が数か月続いていることは把握していた。
家賃も滞りなく支払われ、開店前に専門業者を入れて清掃し、防犯設備も整え始めている。
話し合いの結果、翌年一月からは、月六万円で平日を含めて使用できる契約へ切り替えることになた。
家賃は三万円増える。
だが、平日の夜を月に八回開けて、一日一万円の売上が立てば八万円になる。
そこから女性への人件費や酒代を払っても、家賃の増加分ぐらいは吸収できる可能性があった。
最初から毎日開けるつもりはない。
女性スタッフには、酒の作り方、料金の説明、延長確認、清掃、会計を覚えてもらう。
広之は相談の予約が入った日だけ店に出る。
客が少ない曜日は無理に営業しない。
体調が悪い日は休む。
普通の飲食店のように、毎日決まった時間に開け続けるのではなく、自分たちが続けられる範囲で
営業日を増やす。
十二月の店も、売上はおおむね四十万円ほどだった。
年末ということもあり、客が何人か集まって長時間話す日もあれば、
カレーだけ食べて静かに帰る日もあった。
博之自身の給与は、これまでどおり十万円。
会社員時代の給料とは比べものにならない。
それでも、自分の店から自分に払われた十万円だった。
十二月三十一日。
広之の会社員生活は、正式に終わった。
退職金三百万円には手をつけない。
手元資金は六十万円。
店の月商は四十万円。
自分の給与は十万円。
年明けからは家賃六万円となり、平日の夜営業も始める。
何も保証されてはいなかった。
来月も同じだけ客が来るとは限らない。
女性スタッフが続けてくれるとも限らない。
博之自身が体調を崩す可能性もある。
それでも、今までとは違った。
会社で与えられる仕事を待つのではない。
自分で営業日を決め、客を集め、人を雇い、売上を作る。
「まあ、いきなり全部変えんでもええか」
博之は、年末営業を終えた店のカウンターを拭いた。
「一月から、平日をちょっとずつ増やしてみよ」
十七年と少し続いた会社員生活を終えたからといって、翌日から立派な経営者になれるわけではない。
博之はまだ、六席しかない古いスナックの店主だった。
それでも、自分の人生を会社以外の場所へ移す準備は、確かに始まっていた。
二〇二六年十二月末日。
博之は三百万円の退職金を最後の逃げ道として封印し、残った六十万円と小さな店を頼りに、
新しい一年を迎えようとしていた。




