2028年8月。博之の家も店も少しづつ広くなる。美容院の箱も検討始める。
二〇二八年八月。
「さすがに、そろそろ引っ越すか」
博之は、ようやく重い腰を上げた。
これまで住んでいたのは、家賃三万五千円ほどのワンルーム。
一人で寝て、飯を食って、パソコンを触るだけなら十分だった。
だが今では、JR茨木側に一号店と二号店、阪急茨木市側に三号店。
さらにネイルサロンがあり、美容師のシェア営業まで動いている。
「俺だけ三万五千円の部屋でええんか?」
そんなことを店長たちにも散々言われた。
そこで選んだのが、JR茨木駅と阪急茨木市駅のだいたい中間。
家賃七万円ほど。
多少築年数は古いが、二LDK。
「広っ」
内覧で部屋を見ながら、博之は思わず言った。
「一人暮らしには十分すぎるな」
一部屋は完全に自分用。
もう一部屋は荷物や仕事道具を置いてもいい。
リビングなら、スタッフと軽い打ち合わせをすることもできる。
「女の子呼べるやん」
そう言うと、一号店の店長に即座に、
「打ち合わせだけですよ」
と釘を刺された。
「分かってるわ」
「ほんまですか?」
「付き合ってくれへん人らに、なんで俺がそこまで期待すんねん」
「そういうこと言うからあかんのです」
引っ越しそのものは、ほとんど業者に任せることにした。
荷造り。
運搬。
大型家具の移動。
細かな処分。
「もう、お任せパックでええわ」
「高くないです?」
「面倒くさい方が嫌やねん」
初期費用や引っ越し代、細かな買い足しまで含めると、四十万円ほどかかりそうだった。
昔なら、自分で段ボールを集めて、できるだけ安く済ませただろう。
だが今は違う。
「俺が一日潰れて荷造りするより、金払って店見に行った方がええ」
そんな考え方に変わっていた。
引っ越し作業を業者に任せている間にも、博之は一号店、二号店、三号店を回っていた。
一号店と二号店については、もうかなり安定している。
「最近どう?」
「普通です」
「普通が一番ええな」
「リピーターさんで結構回ってますよ」
新規客を大量に追いかけなくても、常連客が定期的に来てくれる。
多少酔っ払い同士で揉めることはある。
面倒な客もゼロではない。
それでも店長たちが処理できる範囲だった。
「何かヤバかったらすぐ電話して」
「分かってます」
「俺、基本茨木おるから」
三号店も少しずつ軌道に乗り始めていた。
まだ博之自身が顔を出すことは多い。
それでも、開店当初ほど付きっきりではなくなった。
「そろそろ四号店も考えられるかなあ」
阪急茨木市側にもう一軒。
そこまでできれば、JR側二軒、阪急側二軒。
茨木の中でかなり動きやすくなる。
ただ、スナックだけではない。
ネイルサロンも客が増えている。
美容師のシェア営業も、少しずつ人数が増えてきた。
「美容、そろそろ箱持ってもいいんちゃいます?」
美容担当の女性から、そんな話も出るようになった。
「俺も考えてる」
「人も増えてきましたし」
「でも美容室は高いねんなあ」
ネイルのように、小さな部屋を借りて椅子と机を置けば終わりではない。
設備がいる。
水回りもいる。
居抜きを拾ったとしても、それなりに金はかかる。
「まあ焦らんと考えよ」
それでも、やりたいと言ってくれる女性が増えているのはありがたかった。
一方、ネイルや美容をやっている女性たちからは、同じ話を何度も聞いた。
「リピーターはありがたいんですよ」
「うん」
「でも新規が難しい」
「そこなんやな」
「一回来てもらって、気に入ってもらえれば次につながるんですけど」
スナックと同じだった。
一号店と二号店は、すでに常連客の心をつかんでいる。
だが、新しい業態は最初の客を集めるところが一番難しい。
「ほな、そこは俺がやるわ」
博之は言った。
SNSで喋る。
スナックの客に紹介する。
知り合いに声を掛ける。
最初の入口を作る。
「その後リピートしてくれるかは、君らの腕やからな」
「それで十分です」
「俺、ずっと客集め係やな」
「一番大事な係ですよ」
人の採用についても、少しずつ考え方が変わってきていた。
店が安定していても、働いている女性がずっといるとは限らない。
本業が忙しくなる。
結婚する。
引っ越す。
別の仕事を始める。
「辞める時に慌てんように、少しずつ採用続けよ」
スナックだけで考える必要もない。
面接の時に、
「ネイル経験あります」
「美容師免許持ってます」
「昔サロンで働いてました」
という人がいれば、別の仕事も渡せる。
「うち、スナックだけちゃうからな」
週一でスナック。
月何件かネイル。
美容ができるなら美容。
そんな働き方でもいい。
一つの仕事で生活全部を支えなくても、いくつか小さな仕事を組み合わせればいい。
八月。
博之は七万円の二LDKへ引っ越した。
店も増えた。
人も増えた。
相談されることも増えた。
「家まで広なったなあ」
新しいリビングで一人、博之はつぶやいた。
ただ、そこに誰かが集まる予定は、まだない。
「……ほんまに誰も来んかったら、それはそれで寂しいな」
そう言いながら、博之は次の日もまた、茨木の店を順番に回っていった。




