時はさかのぼり2026年7月~9月上旬。床屋で空きスナックの話を聞き興味を持ち、交渉、条件付き契約。開店までこぎつける
話は少し遡り、二〇二六年七月。
大阪府茨木市で暮らす四十一歳の博之は、十年来通っている散髪屋の椅子に座っていた。
「今日は、いつもぐらいでええですか?」
「はい。横だけ短めで。上は適当に残してください」
鏡の前で白いケープをかけられ、広之は目を閉じた。
仕事は相変わらずだった。
週に何度か会社へ行き、与えられた仕事をこなし、家に帰れば動画を撮り、小説を書く。
YouTubeの登録者は四千八百人ほど。小説家になろうでは、いくつかの作品を合わせて
何百万回も読まれていた。
だが、それで生活できるほどの収入にはなっていない。
かといって、会社で出世できるとも思えなかった。
いつものように、景気の話や近所の店の話をしていると、散髪屋のおじさんが
思い出したように言った。
「そういや博之さん、店とか興味ないんですか?」
「店?」
「この近くに、空いたままのスナックがあるんですよ。前の人が辞めてから、
ずっと借り手がつかんらしくて」
「家賃いくらですの?」
「たしか六万円ぐらいですわ」
「六万かあ。毎日やるんやったら安いんかもしれんけど、俺、会社員ですからね」
博之は苦笑した。
飲食店を経営した経験などない。
料理も、特別うまいわけではなかった。
「でも博之さん、配信とかしてるんでしょ?」
「まあ、ぼちぼちですけど」
「せっかくやったら、秘密基地みたいに使ったらええんちゃいます? 土日だけ店にするとか。
ずっと空いてるから、条件も勉強してくれると思いますよ」
散髪屋のおじさんは、たいしたことではないように言った。
だが、博之の頭の中では、その瞬間から計算が始まっていた。
土日だけ。
一日二人か三人。
昼はカレーを出して、夜は酒を飲みながら話せる店にする。
YouTubeを見ている人や、小説を読んでいる人が、一度ぐらいは遊びに来てくれるかもしれない。
店というより、秘密基地。
配信の撮影場所としても使える。
「一回、場所だけ見せてもらえます?」
髪を切り終える頃には、博之は管理会社の連絡先を教えてもらっていた。
数日後、博之は空きスナックの前に立っていた。
古い雑居ビルの三階。
細い階段を上がった先に、色あせた扉がある。
中に入ると、L字型のカウンターと、赤い椅子が六脚ほど残されていた。
壁紙は少し黄ばんでおり、床にも長年の汚れが染みついている。
それでも、水道と流し台は使えそうだった。
カウンターの奥に立ってみると、不思議と悪くなかった。
「ここ、ずっと空いてるんですか?」
「半年ぐらいですね」
管理会社の男性が答えた。
「家賃は六万円と聞いてるんですけど、僕、平日は仕事があります。最初は土日だけやろうと
思ってまして」
「土日だけですか」
「はい。いきなり六万円払って、毎日営業するんは無理です。まだ客が来るかどうかも分からんので」
博之は正直に話した。
「その分、少し負けてもらえませんかね」
男性は腕を組み、しばらく店内を見回した。
「博之さんは、いつ頃からやりたいんです?」
「準備も色々かかるのでできれば九月からです。まず半年ぐらい試したいです」
「半年というと、来年の三月末までですかね」
「そうですね。次の四月までに、続けられそうか判断したいです」
何度かやり取りを重ねた末、管理会社から提案されたのは、来年三月末までは土日利用を前提に、
通常より安い月3万で貸すというものだった。
「それで見込みがありそうなら、四月から平日込みの六万円で、改めて契約してもらったらええです」
「途中で普通の借り手が見つかったらどうなります?」
「その場合は相談になりますけど、すぐ追い出すようなことはしません。
まずは半年やってみたらどうですか」
博之はその場では返事をしなかった。
自宅に戻ってから、ルーズリーフに数字を書き出した。
使える金は、夏のボーナスで入った四十万円だけだった。
しかも、広之は自己破産の手続き中である。
新たに借金をすることはできない。
誰かから金を借りて、大きく始めることもできなかった。
「四十万か……」
家賃と保証金。
冷蔵庫。
電子レンジ。
ホットプレートか、IHコンロ。
炊飯器、鍋、フライパン、包丁、皿、グラス。
清掃代も必要になる。
食品衛生責任者の講習も受けなければならない。
営業許可を取るためには、保健所に設備を確認してもらう必要もある。
「二十万で設備を揃えて、残り二十万を運転資金に残したいな」
広之はぶつぶつと独り言を言いながら、何度も計算をやり直した。
新品ですべて揃えれば、すぐに四十万円を超える。
だから、冷蔵庫だけは状態のいいものを選び、それ以外は安い量販店を探した。
椅子とカウンターは、そのまま使う。
内装も大がかりには変えない。
汚れは清掃業者をしっかり入れる。金はかかるが仕方ないwww
七月の終わり、広之は契約書に判を押した。
八月は、ほとんど準備で終わった。
休日になるたびに店へ通い、油のついた壁を拭き、床を磨き、食器を洗った。
保健所へ相談に行き、必要な設備を一つずつ確認した。
食品衛生責任者の講習も申し込んだ。
カレーの試作をしては、原価を計算する。
「五百円やと、何人来ても残らんな」
「七百円にして、少し量を増やすか」
「夜は一時間いくらにするんや」
一人で考え、一人で迷い、一人で決める。
会社では何かを変えるたびに、何人もの承認が必要だった。
だが、この店では、全部が自分の責任だった。
怖さはあった。
客が一人も来なければ、四十万円は減るだけである。
それでも、準備が進むにつれて、広之の中には少しずつ楽しさが生まれていた。
八月最後の日曜日。
掃除を終えた広之は、カウンターの中に立ち、六つの空席を眺めた。
まだ誰もいない。
だが、ここに一人、二人と客が座り、カレーを食べながら、会社の愚痴や人生の話をする姿が、
なんとなく想像できた。
「まあ、一日二、三人来たらええか」
広之はスマートフォンを取り出し、店内を撮影した。
「九月から、土日限定で店を始めます」
投稿ボタンを押す。
会社員として生きながら、別の人生を少しだけ始めてみる。
四十万円と、六席の古いカウンター。
社会不適合者を自称するメンヘラおじさんの小さな店は、こうして開店の日を迎えようとしていた。




