EP 2
転生先は伯爵家三男坊。脳筋の父と、深夜に金融論を囁く母
赤ん坊の生活というのは、恐ろしく暇だ。
視力もまだ完全ではなく、自力で寝返りを打つことすらままならない。腹が減るか、おむつが気持ち悪くなれば泣いて知らせるしかない完全な無力状態。
だが、前世で自動車工場の過酷なライン作業を三日で逃げ出した俺からすれば、一日中ふかふかのベッドで寝ていられるこの生活は、まさに天国だった。
(最高だ……。転生バンザイ。親の金で食う飯――いや、ミルクか。とにかく極楽すぎる。一生このままでいい)
ここはルナミス帝国。俺の前世と同じ日本からの転生者である「佐藤太郎」という偉人が建国し、謎の近代化を遂げたファンタジー国家だ。
俺が生まれ落ちたのは、その帝国でも古参の貴族である「ミリシア伯爵家」。
つまり、俺は正真正銘の「お坊ちゃん」としてリスタートを切ったわけである。
ドンッ!
俺がベビーベッドの中で呑気なスローライフ構想を練っていた時、鼓膜を破るような粗暴な音を立てて部屋の扉が開いた。
のっしのっしと重い足音を響かせて近づいてきたのは、熊のように筋骨隆々な大男だった。
立派な髭を蓄え、軍服のようなカチッとした服の上からでもわかる異常な筋肉量。
「……ふむ。これがマリアの産んだ三男坊か」
彼こそが、この家の当主にして俺の父親、ゴートン・ミリシア伯爵(50歳)だ。
ゴートンは無造作に太い腕を伸ばし、俺の小さな体を片手でひょいっと持ち上げた。
た、高い! やめろ、落としたらどうするんだ! 俺の小市民メンタルが恐怖で警鐘を鳴らす。
「どれ……」
ゴートンの身体から、ブワッと目に見えるような熱気が立ち上った。
これがこの世界における力の象徴、『闘気』というやつだ。ゴートンは己の闘気を微弱に俺の体に流し込み、俺の素質を測っているらしい。
数秒後、ゴートンはひどく落胆したような、つまらなそうなため息をついた。
「チッ……。貧弱な身体だ。闘気の器も底が浅い。長男と次男は生まれながらにして覇気があったというのに」
ゴートンは乱暴に俺をベッドへ戻すと、蔑むような視線を向けてきた。
「ただでさえ三男坊で家督を継ぐ目はないというのに、武の才能すら皆無とはな。我がミリシア伯爵家の面汚しめ。……ええい、乳母! 適当に育てておけ!」
それだけ吐き捨てて、ゴートンは嵐のように部屋から去っていった。
残された俺は、ベッドの中でポツンと瞬きをした。
(……えっ?)
(……もしかして俺、親父から完全に『見放された』ってことか?)
普通なら、生まれたばかりで親から見限られて絶望するところだろう。
しかし、俺の口元はニチャア……と、だらしない笑みの形に歪んでいた。
(よっしゃああああああっ!!)
心の中でガッツポーズを決める。
家督継承権なし! 武術の期待値ゼロ!
それはつまり、血で血を洗うような面倒なお家騒動に巻き込まれることもなく、血反吐を吐くような厳しい剣術の稽古を強制されることもないということだ。
前世で親から「粗大ゴミ」と呼ばれていた俺にとって、誰からも期待されないポジションなど実家のような安心感がある。
(いいぞ! 適当に成長して、適当に部屋に引きこもってやる。三男坊の気楽な穀潰しニート生活の確定だ!)
俺は完全に勝利を確信し、心地よい眠りにつこうとした。
――しかし。
その日の深夜。俺の甘い目論見は、一人の女性によって見事に打ち砕かれることになる。
* * *
カチャリ、と。
一切の足音を立てず、油を差したように静かに扉が開いた。
ベビーベッドの横に立ったのは、銀色の髪をタイトにまとめ、冷質な銀縁メガネをかけた美しい女性。
彼女の名前はマリア・ミリシア。
ゴートンの第二夫人であり、俺を産んだ実の母親である。
だが、その佇まいは「我が子を愛する母親」というよりは、「業績グラフを睨む冷徹な経営幹部」のそれに近かった。
「……こんばんは、エイト。今日もよく眠っているわね」
マリアは淡々とした声で囁くと、俺の胸にそっと冷たい手を置いた。
次の瞬間、彼女の手のひらから淡い翠色の光が溢れ出した。
『ルチアナ教会式・極大回復』。
ぶわあああっ、と俺の細胞の隅々にまで、濃密な生命力と魔力が浸透していくのを感じた。
(なんだこれ!? すっげえ力が湧いてくる……っていうか、細胞が無理やり活性化させられてる!?)
「赤ん坊の頃から定期的に限界値まで回復魔法を注ぎ込み、強制的に筋肉と魔力回路の超回復を繰り返す……。佐藤太郎の提唱した『二郎系超回復理論』の乳幼児向けアレンジよ」
マリアはメガネを中指でクイッと押し上げながら、恐ろしいことを言った。
「あの脳筋の旦那様は、ただ力強く叩けば闘気が育つと勘違いしているけれど。……本当に強靭な肉体と魔力は、計算された負荷と回復のサイクルからしか生まれないの。あなたは私が、最高の『優良資産』に育て上げてあげるわ」
(ドーピングだ! 母ちゃん、赤ん坊に魔法で完全な肉体改造を施してやがる!)
俺は恐怖で泣きそうになったが、筋肉がパンパンに張って声が出ない。
「さて、今日の身体投資はこれくらいにして……。エイト、おやすみ前の『絵本』の時間よ」
マリアは懐から、一冊の分厚い本を取り出した。
表紙には難しい漢字で『ルナミス帝国金融論 ~信用創造と負債の魔法~』と書かれている。
絵本じゃねえ。それ、絶対絵本じゃねえ。
「今日はね、第三章『複式簿記と減価償却』のお話よ」
マリアは、子守唄を歌うような優しく甘い声で、恐ろしい内容を朗読し始めた。
「いいこと、エイト。あのゴートンは『闘気こそ全て』『剣の腕が貴族の誇り』だなんて時代遅れの寝言を言っているけれど……。そんなものは、最前線で命を削るだけの使い捨ての駒に過ぎないわ」
マリアの瞳が、月明かりを反射して鋭く光る。
「剣は折れるわ。闘気はいつか尽きる。でもね、『借金の利子』はあなたが寝ている間も絶対に止まらない。相手が死ぬまで増え続けるの」
「あうぅ……」
「この世で一番強い力。それは炎の魔法でも、魔導ライフルでもない。……『債権』と『差し押さえの権利』よ。ルールを作った側、システムを管理する側が、最終的に全てを合法的に搾取できるの」
マリアは、かつてルナミス帝国の心臓部たる『ルナミス中央銀行』で幹部を務めていた超絶エリートキャリアウーマンだ。
実家の経営破綻を救う代わりに、このミリシア伯爵家に第二夫人として嫁いできたという経歴を持つ。
つまり、彼女は知っているのだ。
魔法やモンスターが存在するこのファンタジー世界においても、建国者・佐藤太郎が持ち込んだ『近代資本主義のルール』こそが、最もえげつなく、最も強力な武器であることを。
(……この母ちゃん、ヤバい)
俺は、前世で工業高校の授業をサボりながらも、パチンコやソシャゲの課金で借金を作って破滅していった奴らの顔を思い出していた。
そうだ。どんなに喧嘩が強いヤンキーでも、スーツを着た取り立て屋の「法的な手続き」の前には、土下座して震えるしかなかった。
システムには逆らえない。ルールをハックした奴が一番強いのだ。
「フフッ、いいお顔ね。私の言っている意味が分かっているのかしら?」
マリアは俺の頬を優しく撫でた。
「エイト。あなたは三男坊。剣を持たずとも結構。ただ、誰よりも『賢く(ずるく)』なりなさい。理不尽な力で殴ってくる野蛮人どもを、法律と経済の力で、裏から笑って破滅させる……そんな男になるのよ」
「あー、うー(訳:はい、母上様)」
俺はベビーベッドの中で、激しく同意するように手足をバタバタと動かした。
脳筋の親父には見捨てられたが、この最強の母親の下でなら、あるいは。
(……力で勝てないなら、悪知恵とルールでハメればいい)
俺の心に、前世の「どうやってサボるか(システムを抜け道を探すか)」という根性が、マリアの英才教育によって『最強の悪知恵』として芽吹き始めた瞬間だった。
スローライフへの道は険しいが、俺はこの母から、生き抜くための戦術をすべて盗んでやろうと決意した。
読んでいただきありがとうございます。
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