飛狼
鎮魔隊に朝が来た。
いや。
正確には朝など来ていなかった。
酒臭い。
汚い。
うるさい。
宿舎の中では朝から殴り合いが始まっている。
外では賭博。
食堂では盗み。
武林盟直属の組織とは思えない有様だった。
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「おい新入り」
誰かが声をかける。
柳青玄は振り返らない。
足音で分かっていた。
軽い。
異様に軽い。
地面を踏んでいるのに音が消えている。
普通の人間ではない。
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塀の上。
片目の少年がしゃがんでいた。
岳飛狼。
未来の天下第一軽功。
だが今は。
鎮魔隊一の問題児だった。
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「俺のこと知ってたな」
岳飛狼が笑う。
「昨日」
「熊鉄山を見て驚いてた」
「俺を見ても驚いてた」
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柳青玄は黙っている。
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「何者だ?」
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周囲の隊員が耳を立てる。
面白い。
岳飛狼が他人に興味を持つことなど滅多にない。
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柳青玄はゆっくり立ち上がった。
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「お前こそ何者だ」
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岳飛狼の片目が細くなる。
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「俺は岳飛狼だ」
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「違う」
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柳青玄は首を振る。
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「お前はまだ岳飛狼じゃない」
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空気が変わった。
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隊員たちは意味が分からない。
だが岳飛狼だけは笑わない。
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「面白いこと言うな」
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塀から飛び降りる。
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フッ――
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風だけが残る。
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次の瞬間。
岳飛狼は柳青玄の背後にいた。
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誰も見えなかった。
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鎮魔隊の隊員たちが歓声を上げる。
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これだ。
岳飛狼の化け物じみた速さ。
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まだ武功ではない。
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才能だ。
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獣のような感覚。
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鳥のような身軽さ。
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そして。
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誰よりも速くなりたいという執念。
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岳飛狼の指が柳青玄の肩へ伸びる。
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あと一寸。
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そこで。
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柳青玄が半歩だけ動いた。
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本当に半歩。
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それだけ。
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岳飛狼の身体が流れる。
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重心が崩れる。
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世界が回る。
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気付いた時には。
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喉元へ木剣が突きつけられていた。
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シン。
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演武場が静まり返る。
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誰も理解できない。
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岳飛狼自身でさえ。
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「何をした」
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初めて。
岳飛狼の声から笑いが消えた。
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柳青玄は木剣を下ろす。
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「お前は速くない」
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ざわめきが起きる。
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速くない?
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鎮魔隊最速の男が?
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岳飛狼の片目が吊り上がる。
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「喧嘩売ってるのか」
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「事実だ」
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柳青玄は真っ直ぐ言う。
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「お前は急いでいるだけだ」
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風が吹く。
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岳飛狼の表情が固まった。
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隊員たちは気付かない。
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だが。
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柳青玄は見ていた。
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岳飛狼の足。
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踏み込み。
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呼吸。
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視線。
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全てが前世と同じだった。
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焦っている。
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速くなりたい。
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誰よりも。
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何かから逃げるように。
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だから速くなれない。
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前世。
飛狼神行で天下を駆けた男は。
二十歳までその事実に気付かなかった。
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「いつか教えてやる」
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柳青玄は呟く。
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「本当に速いという意味を」
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その時だった。
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食堂の方から怒鳴り声が響く。
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「また盗んだな!」
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バリン!
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窓が割れる。
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小さな影が飛び出した。
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少女だった。
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饅頭を咥えたまま。
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笑っている。
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追いかける料理人。
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逃げる少女。
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そして。
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柳青玄は思わず額を押さえた。
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「まさか」
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少女の指が動く。
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逃げながら。
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石ころを一つ蹴った。
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カン。
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遠くの鍋の蓋が飛ぶ。
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ドン。
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料理人が転ぶ。
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誰も気付かない。
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偶然だと思っている。
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だが。
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柳青玄だけは知っていた。
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暗器は投げるものではない。
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世界を利用するものだ。
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未来の暗器皇。
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蘇月。
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彼女もまた。
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まだ自分が怪物になることを知らない。




