第1章 這い寄る影は鼠のように-4
「おんし、随分と眠そうじゃが。寝ておったのか?」
「……あー。お前がくる五分くらい前まで寝てた。頭が回らん」
「ううむ、そんな状態であまり動いてものぉ……。眠気覚ましに、少しランニングにでも行くか?」
「そうするか。正直、割と力が入らない」
ふああ、と盛大なあくびをこぼす琉衣夜に呆れたような目を見せながら、「それ用の服に変えてくるから待っておれ」と言い残して、静はジャージを一枚上に羽織った状態で戻ってきた。
その間に靴こそ履いたものの、琉衣夜は相変わらず眠たげな表情を浮かべている。
「ほれほれ、さっさと行くぞ。ぼんやりとしている暇があったら動け、動け」
「わーった、わーったから……」
後ろからげしげしと容赦無く蹴りつけてくる静にふわふわと答える琉衣夜は、アパートの入り口を出たところで大きく伸びをする。
それでようやく眠気が飛んだらしい。
ぐいぐいと首を回し、手足をぷらぷらと動かしながら、静の方へ視線を向ける。
「んで? どれくらいやるんだ」
「そうじゃな。ひとまずぐるりと五キロほどでどうじゃ」
「そんぐらいなら大丈夫だろ。んじゃ、行くか」
軽く答えて、琉衣夜が先導で走り始める。
琉衣夜と静では、圧倒的に静の方が身体能力が高い。
ランニングの際も琉衣夜のペースに合わせた方が、その後のトレーニングにも支障が出ない。
琉衣夜としては非常に遺憾ではあるものの、肉体能力差は歴然なのだから仕方がない。
なので日々努力を積み上げつつ、抜き去る事が出来る瞬間を探すしかない。
……ない、のだが。
「ふむ、もうそろそろ戻り始めるか」
「……そう、だな」
琉衣夜の息が上がり始めたところで、静が冷静にそう打診してくる。
静は汗こそかいているものの、その呼吸は普段通りのテンポを保っていた。
これを見るだけでも両者の体力差がはっきりと見て取れるだろう。
“黒”に頼りきりの戦闘をしていた琉衣夜と、小さい頃から神器を扱うために肉体能力の強化に努めてきた静の差である。
「もう体は温まったか?」
「温まるどころか汗だくだっつの。見りゃあわかるだろ……」
「まあ息が上がらんだけでもマシだろうよ。行って帰って十キロ程度、普段から走るやつの方が少ないじゃろうしな」
魔力補強なしで出来るだけマシよ。
そう静はカラカラと笑う。
その姿からは消耗など微塵も感じられず、琉衣夜は内心で溜息をつく。
(それなりに体力はある方だと思ってたんだが……こりゃ、まだまだ鍛えないとダメだな)
実際の戦闘時は無論、容赦無く魔力補強や“黒”を使っての戦闘になるだろう。
だが、魔力を使うにせよ“黒”を使うにせよ、根本となるのは自らの体だ。
そして、体力が落ちれば集中力は落ちるし、体力が低ければ戦闘行動を維持できる時間は加速度的に低下する。
この前の魔導に関する発見といい、体力面の改善といい、まだまだやれることはいくらでもあるようだ。
「しかし、大丈夫かおんし。随分と汗をかいておるが」
「大丈夫だって。思ったよりも体力使っただけだから……」
「そうか。……ふむ、少し待っとれ」
そう言い残して、静はトストスとすぐ近くにあった自販機に歩み寄り、ポケットから取り出した小銭を放り込む。
二回同じボタンを押した辺り、全く同じドリンクを二つ購入したらしい。
両手に一つずつドリンクを手にとって、ニンマリとした笑みを浮かべながらこちらへ片方のドリンクを差し出してくる。
「ほれ。少し重たくなるかもしれんが、水分とエネルギー不足になるよりはマシじゃろ」
「お、おう。悪いな」
「気にするでない。私も飲みたかったからの」
言うが早いか、さっさとペットボトルの蓋を開けて静はさっさと飲み始める。
琉衣夜も同じように蓋を開けて、中身を煽る。
運動中ゆえに気を使ってくれたのか、当分低めのスポーツドリンクを選んだらしい。
普段なら経口補水液に近い味に辟易とするのだが、運動中で味覚が変わっているためかそれなりに美味しく感じる。
気付けば、一息で半分ほどを飲んでしまっていた。
それを見て、静がニンマリと微笑んだ。
「なんじゃ、やはり必要だったのではないか」
「そう、かもな。自分でもこんなに飲めるとは思ってなかった」
助かる、と言葉を続けると、静は「なんのなんの」とヒラヒラと手を振りながら答える。
しかしその表情は嬉しそうな色を秘めており、こちらもつられてかすかに微笑んでしまう。
そんな時だった。
すん、と琉衣夜の鼻を何かの匂いが刺す。
普段は嗅ぐことのないその匂いに琉衣夜は顔をしかめながら、匂いのする方向へと視線を向けた。
その先を走っていったのは、人の手のひらほどの大きさのネズミだ。
灰色の毛皮を纏い、鼻を突き刺す匂いをばら撒きながら、灰鼠はさっさと走り抜けて影へと帰っていく。
(夜だけど……あんなに堂々と走るような動物だったか?)
「どうかしたか?」
「……いや、何でもない」
季節は秋。
鼠の生態はよくわからないが、冬になる前に栄養を溜め込んでおきたいと考えるのは生物の本能として無い訳ではないだろう。
夜とはいえ、人の気配も電気も普通にある状態で人前に走りでるかどうかはわからないが……。
「戻ろうか。筋トレもそうだけど、模擬戦やりてえし」
「じゃな。日々の楽しみなのじゃぞ? おんしとの模擬戦は」
「色々と複雑だわ……」
いや、模擬戦自体は琉衣夜ももちろん楽しいのだが、同い年の女性からそんなことを言われて純粋に楽しめる男は少数派だろう。
残りのスポーツドリンクをあっさりと飲み干し、ゴミ箱へペットボトルを放り込むと静も「では行こうか」とこちらへ微笑んだ。
涼やかな風が通り過ぎていく夜中を、二人は駆け抜けていく。
しかし、琉衣夜の心中は何ともいえない感情が渦巻いていた。




