第1章 這い寄る影は鼠のように-1
水の流れる音が、すぐ脇を通る水路から聞こえてくる。
その匂いに、彼女は眉をしかめずにはいられなかった。
なにせ生活排水の全てがここを通っていくのだ。
雨水をまとった泥、肉より放り出された糞尿、酸化し汚泥と成り果てた油。
それはまさに汚濁としか言いようのない腐水が、彼女の横を通り過ぎていく。
無論、その全てが自然界に垂れ流されるわけではないものの、しかし腐臭と汚穢の象徴に晒されて、少なくとも正の感情が湧き出る訳もない。
しかし、だからこそ彼女はここを拠点として選んだのだ。
深き地の底。
誰の目にも映らぬ、汚濁の地。
其を彩るは汚泥に浸された灰色と、光一つ通らぬ仄暗き闇。
水が元来持つ清廉なイメージとは真反対の、何に満たされているのかさえもはや見当のつかないほど汚れきった泥水。
それだけが、この場にある全てだった。
これこそを、彼女は求めていたのだ。
「……随分と、場所の選定に時間をかけてしまった。ここからは、急ぐ必要がある」
「左様。我らが宿敵にいつ見出されるともしれぬ状況。なればこそ、準備に取り掛かるべし」
「ヴァーリか。思ったよりも早かったな。……状況は」
背後から音もなく現れた気配に、しかし彼女は驚く素ぶりすら見せない。
彼の夜闇に溶け込むが如き服装も、もう慣れたものだ。
このような服装を極東では何というのであったか。
……ああ、そうだ。
確か、忍びとでもいうのだっただろうか。
別段、相手がどんな服装をしていようが、彼女は興味を持たない。
求めているのは協力者に足るだけの能力。
そして、背後の男はそのハードルを楽々と飛び越えるだけの能力をすでに示している。
状況整理を求める彼女に対し、ヴァーリと呼ばれる男は水音に紛れそうなほどの低い声で説明を始めた。
「現時点においては、特に問題の兆候なし。されど、オイゲン殿の間諜によれば、既に動きが見えると」
「奴らも鼻は効くと見える。……まあ、このような場所だ。鼻が効いてくれた方が、逆に都合がいいかも知れん」
薄く笑みを浮かべる彼女だが、男は何の反応も見せない。
そもそもマスクで半分以上表情が隠れている状態で、しかも灯り一つない場所だ。
何かしらの反応を見せた所で、多少の変化では気付かないに違いない。
この男がわかりやすく喜怒哀楽を見せることは、めったにない。
ここまでの準備を共にしてきたいわゆる同士に近い存在だが、未だに彼が何に喜び、何に憤るのかはわからない。
ただ一つ明白なのは、彼には彼女についてくるだけの理由があること。
ただそれだけで、十二分。
ここまで来てしまえば、あとは一蓮托生だ。
今更疑うだけバカバカしいというものだろう。
「ところで、そのオイゲンはどこに行ったんだ。この数日、ほとんど姿を見せていないが」
「間諜の数を増やす、と。いればいるだけ、困るものではないと申されていたが」
「あいつのことだ、お楽しみも兼ねているのだろうさ。後をつけられるようなヘマさえしなければ、構わない」
個人的には唾棄すべき趣味だとは思う。
だが、その上で仕事をきちんとこなしているのだから、こちらがケチをつける必要もないだろう。
そもそも彼女らが為そうとしていること自体が、世界から認められることではないと自覚しているが故に、その程度の趣味をとやかく指摘する資格は自分にはない。
ただの好悪で求めている結果を逃すほど、彼女は馬鹿にはなれない。
「オイゲンに会えば、伝えておいてくれ。やり方は問わないが、仕事だけは全うしろ。それさえも出来ないのであれば、その役に立たないモノを切り取るぞ、と」
「委細承知。少々時間は必要だが、されど確かに」
「女の私には理解できない情動だ。……いや、私だからわからないのかも知れないが」
「さてな。俺とて語り得るほど多くは知らん。が、このような世界に身を落としたとて、人間の性をあっという間に切り捨てられる、というものでもあるまいよ」
「おやおや、今日は随分と喋るじゃないか。もしかして、君もご相伴に預かるタチかい」
「……時間を喰った。失礼」
呆れたような声を最後に、その姿が水路の陰に溶けていく。
しばらくはコツ、コツと規則正しい歩行音が耳に届いていたが、それもすぐに消えてしまった。
後に残された彼女は一人、くっくっと嗤う。
何を考えているかわからないと思っていたが、意外と人間らしいそぶりも見せてくれるらしい。
それとも、案外彼もここぞという時には緊張を感じるのかも知れない。
どちらにせよ、仕事をやる気があるというのは良いことだ。
こちらとしてもそうでなければ誘い込んだ甲斐がないというもの。
「……さて、こちらも仕込みを始めるか」
そう呟いた時には、先ほどまでの微笑はすでに抜け落ちていた。
現れるのは、魔導師としての冷徹な側面。
自らの望みを叶えるべくこの世の理でさえも捻じ曲げ、自らの力ではどうしようもないはずの難題でさえも通してみせると言わんばかりの、冷ややかな瞳が改めてその場を一瞥する。
自らの力で叶えられない現実に圧し潰され、どうしようもない苦難を前にして嘆くことしか許されず。
それでもなお、何とかして乗り越えんと立ち上がってきたのが魔導師であるが故に。
眼前にそびえ立つ壁が高いことを理解しながら、しかし彼女は立ち振る舞いでそれを払いのけてみせるのだ。
「それがどうした」と。
出来ない事など、百も承知。
無謀な賭けである事など、最初の内から既に骨の髄まで染み込まされている。
だとしても手を伸ばさずにはいられないのだから。
ある者は、それを後悔と呼ぶだろう。
またある者は、これを執着と呼ぶに違いない。
好きに呼ぶがいい。
そうでもしなければ届かない物があることを、理解できない者に共感を求める事などハナから期待していないのだから。
「もしも、この世界に神がおわしますならば」
その目がふい、と天を仰ぐ。
無論、その瞳が蒼空を捉えることはない。
そも時間帯が深夜だということもあるし、そもそもとしてその目に映るのは灰色の天井ばかり。
けれど、神が諸人を見守るというのであれば、きっと神はこの身さえも見届けているのだろう。
……もし、そうであるならば酷いお笑い話だ。
「神よ、私は今からあなたの教えに背くだろう。もしこの身を憐れむのであれば、決してこの哀れな信徒を邪魔してくださるな」
くは、とその口から笑みが溢れる。
口から飛び込んだ臭気が鼻を飛び越えて肺腑までも満たしにかかるものの、そんなことは気にしないと言わんばかりに、彼女は大笑した。
この世を嘲り笑うように。
この世を嘆き悲しみように。
一通り大笑しきった後、彼女は自分が笑っていたことを忘れてしまったかのようにその口元がキュッと引き締められ。
そして、彼女は無言のまま、作業を開始した。




