第3章 立ち塞がる者-5
「……チッ、単純に観光に行ッただけか」
戻ってくる気配を感じ取り、ヴェインは舌打ちをする。
気配が戻ってこないのであれば今夜再度襲撃を仕掛けることも検討していたが、この様子であればやめておいた方がいいだろう。
研究所員だけならまだしも、この前の二人を相手にするのは避けたい。
琉衣夜、と名乗ったか。
あの少年を相手取るだけでも負けかねないのに、更にもう一人追加されるのは本当に避けたい。
「何なンだ、あいつら。うッとォしいおまけに、今の俺じャあ勝てねェ。……これが偶然だと? ふざけてンのか」
ギリギリと奥歯を噛みしめる。
握りしめた拳を苛立ちのまま振り下ろしたい所だが、その場合容赦無く机が叩き割られることだろう。
せっかく見つけた安宿だ。
管理者も別に嫌いではないし、ここで宿泊できなくなるのはよろしくない。
そう自分を抑え込み、深く深く息を吸う。
吐き出すと共に怒気が溢れそうになるが、しかし新鮮な酸素が脳みそを多少冷やしてくれたらしい。
全身に込められた力も、わずかに緩む。
とはいえ、どうするべきか決めきれないのも事実だった。
無論、琉衣夜の言っていることを信用して、彼らがいなくなるまで待っているのも選択肢の一つだが。
「……ダメだ、やッぱり待ッてらンねェ」
落ち着いて思考を進めるも、結論はやはりそこに行き着く。
そもそも可能な限り一日でも早くあそこを襲撃する必要がある。
早く、一秒でも早く。
取り戻すために。奪い出すために。
本来であれば、歯噛みしている時間すら惜しい。
今すぐにでも殴り込んで、あの金髪メガネから全てを巻き上げないと気が済まない。
だと言うのに。
現実的に、それは不可能だと冷静になればなるほど理性はそう告げる。
無理、無茶、無謀。
そう、理性は彼に囁く。
そして、本能もそれを補強する。
対峙した時に全身を駆け抜けた衝撃が、それを物語る。
きっと勝てないだろう。
それが、二人もいるのだ。
どうにもならない。それはわかりきっている。
しかし、時間が惜しい。
それもまた事実で。
「……待ッてろよ、クソメガネ」
震える体を鼓舞するように、小さく囁く。
目を閉じ、もう一つ深く息を吸う。
そして。
吐き出した時には、心は決まっていた。
「ぜッてェに叩き潰す」
◇
時はわずかに遡る。
ミランは今日も今日とて研究室にこもっていた。
ふと気づけば、三つの気配が宿舎の方へと近付きつつある。
特異な気配であることもそうだが、何よりこの研究所は彼の領域だ。
その程度は眼前の景色を見るのと同様に簡単なことだった。
「……戻りましたか。では、この辺りにしておくべきでしょうね」
いつの間にやら、日付も変わっている。
手元の資料はすでに何度も見直し、検討をし終えたものだ。
しかし、その全ての資料がこう告げている。
すなわち、まだ観測が不足している、と。
「しかしこれ以上の観測は、これまでと同様の実験では難しいでしょうね」
すでに手元の資材は不足しつつある。
強大な力持つ大天使を研究しているのだから仕方ないといえば仕方ないのだが、かと言って資源の不足を気にしながらでは出来ることも限られてくる。
そんな状況では、より精緻な結果は出る訳もないだろう。
とすれば、どのようにするのが良いのか。
「……ふむ、あの少女一人であればどうにでもなりそうですが。しかし、問題は護衛ですねぇ」
ポツリと呟く。
大天使の器が操り得る最大出力はある程度見込みが立った。
しかし、その護衛二人を合わせると能力は途端に未知数になる。
単純に両者の実力を測りかねている、と言うのも理由の一つだ。
なにせ、彼らは実験時の模擬戦闘では本領を発揮していない。
明らかに以前の資料から考えられるスペックを一段二段下回っているのだから、これはまず間違い無いだろう。
「信頼されていない、というのも存外面倒ですねぇ。とはいえ、無益な信頼もまた手に余るものではありますが」
机の上のコーヒーカップへ手を伸ばす。
中身のコーヒーはすでに冷めきってしまっているが、それは問題ない。
最低限の糖分とカフェインを頭へ送ることが出来れば、思考はとめどなく展開できるものだ。
「ですが、あれをどうしたものか。……手持ちの札では足りませんね」
カップの取っ手を親指でなぞりながら、ミランは思考を巡らせる。
単独であれば、ある程度の対応は可能だろう。
しかし、“黒翼”と“東方不敗”などと言う物々しい異名を持つほどの魔導師を気軽に止められるほどの札は、手元にはない。
「いや、待てよ。確か……」
ふと脳裏をよぎる可能性。
それを確かめるべく、ミランは机の上に山のように積まれた書類から一つを引き抜く。
あっさりと引き抜いたが故に書類の山が危険な揺れかたをするが、ミランはもはや気にすらかけていない。
手に取った書類が望んでいたものであることを確認すると、そのまま内容を再度読みかえす。
数分ほどでまとめられたレポートを読み返し、彼はその薄い唇に笑みを宿した。
「これなら、問題ないでしょう。少し準備は必要になりますが……この程度、この好機を逃すくらいなら」
段取りはついた。
早速研究員総出で準備へ取り掛かるべきだろう。
今の時間は寝ているかもしれないが、当直だけでも呼び出して始めさせればいい。
そう、思ったところで。
ザザァ!! という音を立てて、机の上にあった書類の山が崩落した。
数千枚にも及ぶであろう書類がテーブルの下へと雪崩を打って落ちていく。
流石に、真ん中から引き抜いたのはまずかったかもしれない。
「……まあ、後で他の者にやらせれば良いでしょう」
そう結論付け、ミランは自室を出る。
カツン、カツンと音を立てながら、研究者は己の欲を満たすべく動き始めた。




