第3章 立ち塞がる者-4
「……本当に随分と食ったな」
その夜のこと。
水上都市を色々と周り、散々食べ歩いた上で彼らは町のはずれに来ていた。
食事をしてから随分と時間が経っているにも関わらず、お腹がいまだに重たい。
健啖家の静が限界を訴えるほど大量に食べたのだ。
ある程度抑えたとはいえ、胃の容量的に彼女より少ない琉衣夜がぐったりとしているのも無理はなかった。
「よぉ、静。飲むか?」
「置いておいとくれ。……流石に今は飲めん」
「了解」
膨らみきったお腹に注ぐべくミネラルウォーターを買ってきたのだが、煉瓦塀の上に座った静は未だに苦しげな声を出していた。
……まあ、あれだけ食べれば当然だろう。
「おかえり、琉衣夜。ここ、空けるね」
「ありがとう。よ、っと……」
瑠奈が少し脇によけて空いた空間に登り、二人の間に座る。
瑠奈にもミネラルウォーターを渡すと、少女はひんやりとした手触りにかすかな微笑みを見せながら「ありがと」とささやいた。
反対側にぐんにゃりとした姿勢で座った静を見やる。
だが、相変わらず調子は戻らないらしい。すぐ近くにミネラルウォーターのボトルを置くに留める。
「しかしこっちは随分と待たされるんだな。もうそろそろ日が変わりそうだ」
「まあでも、空も綺麗だから良いんじゃない? “黒翼”さまさまね」
「二人担ぐのは色々と大変だからやりたくないんだけどな……」
別に力量的に問題はないのだが、主に女性のあれこれを触ってしまわないか気を使うのが非常によろしくない。
瑠奈も静もそれなり以上に鍛えているとは言え、柔らかい女性らしさをもっている。
流石にダイレクトに触れて平静を保ち続けられるほど、琉衣夜は男を捨てられていなかった。
「別にもっと色々と触ってよかったのに」
「触るか、ボケ。静に触ってみろ、三人揃って墜落だぞ」
「……別に静のこと言ってないんだけどね」
「ん? 何か言ったか」
「べっつにー」
つん、と唇を尖らせる瑠奈。
何か気に触ることでもあったのかと首を傾げたが、その反対側でぐぐっと伸びをする気配が動いた。
「むぅ……ようやく動けるわ」
「お、多少は楽になったか」
「まだ満腹じゃがの。……すまんな、水もらうぞ」
「好きにしろ」
「いただきます」
たおやかな所作でボトルの蓋を開き、静は口をつける。
こく、こく、とその喉が冷水を飲む一挙手一投足が、まるで手に取るように見える。
普段の豪快な所作からは想像もできない女性らしい挙動に、琉衣夜の心臓がほんのわずかに強く跳ねた。
(…………何だ、今の)
心臓は、特に答えない。
変調を見せたのは一瞬のことで、今はもう普段の挙動に戻っている。
だが、故にこそ琉衣夜は今自分の体が見せた反応を理解することができずにいた。
(……何で、俺の体は、今)
静の動きに反応したのだろう。
そんなことをぼんやりと彼は考える。
幸い暗がりの中にいるからか、静はこちらの視線に気づいたそぶりはなかった。
どころか、思案に耽る琉衣夜に首を傾げて質問をしてくる。
「なんぞおかしいか?」
「……いや、何でもない」
「ふむ、では……」
「ねぇ、琉衣夜。そろそろ始まるみたいよ」
更に質問を続けようとした静を遮るように、瑠奈が夜空の一点を指差す。
瞬間、どーんという空を裂く音と共に、大輪の花が開いた。
「おお……初っ端から随分と派手だな」
「ね。最初から大玉みたい」
次から次へと上がりゆく大花に、少年少女の目が奪われた。
鼓膜を揺るがす音と共に空を彩る色とりどりの花々は、瞬時に花開いて散っていく。
されど空を満たす輝きは失せることなく次々に咲いていき、その光景は少し遠くから見ている彼らの思考さえも塗りつぶすほどの光を見せていた。
「綺麗……」
「うむ、これほどの煙火を見るのは初めてじゃ」
「だな。うちの近くでも花火はやるけど……ここまでのは見たことがない」
空を見上げてほけーと口を開けている瑠奈。
しかし他の二人も目の前の光景を前に、それをからかうことはできなかった。
夏を彩る夜の花。
異国の風も相まって、彼らを圧倒するには十分だったと言えるのだろう。
(こんな景色を見ることができるなんて、思ってもなかったな)
琉衣夜はそんなことをふと思う。
一人で生活をしていた時、花火を見にいくなんてことはほとんどなかった。
最後に花火を見たのは、両親が生きている時だろうか。
ベランダからちらりと見ることはできたものの、それに対してほとんど興味を持ったことはなかった。
それが、今はどうだろうか。
去年の夏から今に至るまで、急速に彼の環境は変わりつつある。
学校と買い物以外に出かけることなんてなかったのが、海外まで来るようになり。
そして、この場には彼ただ一人ではなく二人の少女がいる。
去年の自分が、他の誰かと一緒に海外まで来るなんて想像できただろうか。
そんなことを、また上がりゆく花火を見ながら思う。
するり、と何かが琉衣夜の右手に触れたのはそんな時だった。
(うお……っ!?)
滑らかな感触にびくりと体が跳ねたが、ほんの一瞬後にその正体は理解できた。
突然震えた琉衣夜へ、静は怪訝な顔を向ける。
「どうした?」
「いや、何か通った気がしたんだが……気のせいだな」
何もいない後ろを振り返るふりをして、静へ「すまん」と謝る。
静は「そうか」と微笑し、再び花火へと視線を戻す。
だが、右手の感触は未だ消えていない。
その温もりの元が瑠奈であることは、明確だった。
(……何だよ)
視線を向けることなく、添えられた彼女の左手をトントンと指で叩く。
すると、少女の手は逡巡するようにわずかな間止まったが、意を決したのかしゅるりとその指が琉衣夜の指に絡められた。
そんなくすぐったい感触に、琉衣夜はムズムズとした何かを感じるものの、振り払うほどのことでもない。
何よりも、彼女の右手から感じられる柔らかな温もりが、彼は嫌いではなかった。
(これで満足してくれるなら、まあいいか)
視界の端では、瑠奈がニコニコと微笑んでいるのが見える。
昨日は随分と不機嫌だったが、ある程度はこれで満足してくれたようだ。
それなら、別にこのぐらいの触れ合いは問題ない。
(静には見えないようにした方がいい気がするけどな……)
流石に三人いる所で二人がいちゃついていたら、残った一人はいたたまれないだろう。
琉衣夜としてもそんな場にいるのは御免被る。
自分がされて嫌なことは自分もしてはいけない、全くもって至言である。
幸い瑠奈もその辺りは気にしているのか、彼らの手は琉衣夜の体で隠れて見えない位置にある。
花火が終わるくらいまでなら、大丈夫だろう。
そんなことを、思っていた。
しかし、静は唇の端でにまっと笑うと、彼女も気配なく動き始めた。
(……お?)
ちょん、とボトルを握っている琉衣夜の左手に静の手が触れた。
かすかにひんやりとした指先が手の甲をするりと抜け、琉衣夜の意識がそちらへ向く。
「すまぬ、当たってしもた」
「まあ、別に構わねえよ」
さらりと謝って、静は右手で握ったミネラルウォーターを再度口に含む。
だが、その手が再度ボトルを置こうと下された時、その手の甲が琉衣夜の左手の甲にぴったりとくっつけられた。
瑠奈の手よりも少し体温が高いのか、じんわりとした熱がその手から伝わってくる。
ぽたり、と彼女が握ったボトルから滴り落ちた水滴が、静の手を伝って二人の手の隙間へと滑り込む。
初めは感じられた水滴との温度差がじんわりと失われていき、動かないままいる二人の境界線がだんだんと溶け合っていく。
それにつれて、ぞくぞくとした感覚が左手から胸の辺りへと登ってくる。
(な、何だよこの状況……っ!)
別に彼はやましいことをしている訳ではない。
彼自身が何らかの行動を起こした訳でもなく、別にこのままでいないといけない訳でもない。
なのに、どうしてだろうか。
両手に触れている感触が、伝わってくる温もりが、どうしてか罪悪感を募らせる。
(かといって、振り払うのもなんか違うし……ああ、もう面倒くせえ)
どうしたら良いか結論を導き出せず、内心で悪態をつく。
もういっそ開き直るかと琉衣夜は二人の手を気にすることなく、ただ目の前で広げられる夜空のショーへ集中することにする。
下手に何かしらの動きを見せるよりは、その方が何も起こらない気がしたからだ。
幸いなことに、二人ともそれ以上は何か動きを見せることもなく、数十分ほどの時間を経て花火は終わりを告げた。
最後にひときわ大きな花が夜空に咲き誇り、空を叩く爆発音の余韻と共に鈴風が吹き抜けていく。
ふと気づけば、琉衣夜の右手はいつの間にか自由になっていた。
それに気付いてから、彼は少し大きめの挙動でぐぐっと伸びをする。
「さあて、今日の催し事も終わったみたいだし、そろそろ帰ろうか」
「そうね。日付も変わっちゃったし」
「これから帰ってシャワーだろ。一時は回りそうだな」
「ふむ、これは“黒翼”殿に目一杯飛ばしてもらうしかなさそうじゃな?」
「勘弁してくれ、見つからないようにするのも色々大変なんだぞ……」
最近の技術革新はめざましく、一定以上の高さを高速で飛んでいると各方面から捕捉されかねない。
極端な話、カメラで写真一枚取られただけで色々と面倒になる可能性さえある。
無論迷彩魔導をかましたり温度を欺瞞したり工夫は凝らしているものの、そもそも“黒”と常時展開型の魔導は相性が悪い。
その辺りをすべて考慮しながら最高速を叩き出すのは、はっきり言って面倒なのだ。
その対価として得られるのが睡眠時間十分程度なら、正直割りに合わない。
「むう、仕方ないのう。こっちとしても運んでもらう身じゃ。贅沢は言うまいて」
「おら、さっさと帰るぞ。明日もどうせ八時には起きなきゃいけないんだ」
「はーい、それじゃあ琉衣夜よろしくね」
そう言って、瑠奈は琉衣夜へ体をぴったりとくっつける。
それに対抗するように静もその反対側で彼の体に腕を回した。
面倒くさそうな気配に微かなため息を吐きながら、しかし彼は何も言わずに翼を展開する。
触らぬ神に祟りなし。
先人の言葉に従い、彼は黙って夜闇へ駆け出すのだった。




