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もう一つの契約

第5章です!天使との決戦、そして決着です! よろしくお願いします。

 ミサイルの如き速度で、琉衣夜が一気に前に出る。

 当然突撃してくる者と考えた天使は、それを迎撃するための術式を一気に三つ作り出す。

 天使の中でも、一番危険度が高いと認定されているのは、琉衣夜。そもそもからして、行動の底が読めない。扱う能力も特異だが、どういう行動を取るかを読めないというのは、恐ろしい。

 おまけに、彼は先ほど力業で天使との契約を一方的に破壊してしまっている。特別な魔導を使った訳ではなく、完璧に精神力のみでそれを成し遂げてしまった。

 そもそも、契約とは血肉の奥深くにまで刻み込まれる、絶対的な主従の誓いである。魂にまで刻印されたその契約はきちんとした手順を踏まなければ消去できないし、契約を交わしたならば、基本的に主の命には逆らえないのだ。

 にもかかわらず。

 琉衣夜は大天使の契約に基づく命令を無視して、さらには契約そのものをぶち壊してしまった。それが異能と合わされば、絶対的な力を誇る大天使といえど、無視する事は出来ない。

 ならば、何よりも先に叩く。突撃してきた所を迎撃し、多方向からの多段攻撃で反撃する暇も与えずに消し飛ばす。

 ……はずだった。

 だが、琉衣夜は予想に反して、天使に向かっては来なかった。天使から向かって右の方向に進み、地面に手を当てて何やらブツブツ唱えている。

 困惑するも、琉衣夜を潰してしまえばその術式も完成しないと判断し、琉衣夜を殺そうと既に発動寸前だった魔導の式を調整し、正確に狙い放つ。

「させませんッ!」

 魔導が発動する直前、美咲が天使の懐に潜り込み、刀の一振りで魔導式をことごとく破壊する。返す刀で天使にも斬りかかるが、白の片翼がそれを拒んだ。天使は標的を変えて魔導を作成・展開して発動し、さらに物理的に叩き潰すべくもう一方の翼を振り下ろす。

 上方から高層ビルを縦に割る威力の翼が、前方と斜め後方の左右から殲滅の光が、同じタイミングで放たれる。それだけで、小さな要塞の一つ二つはアッサリ破壊できる程度の力は、籠められていた。

「命ずる、放たれた力は己が身を削る!」

 遮るは司。その声に従うように、今まさに炸裂しようとした魔導の光が向きを変えて、天使本体へと向かう。翼の方向を変更して光に対処したが、その間に美咲は後ろに退いている。

「司!」

 一声かけ、美咲が形質と魔導で増幅した身体能力を駆使して、一気に天使の元へと駆ける。

「ナッ!?」

 しかし、美咲は目前まで迫っておきながら、刀を抜かずに逆に一歩下がる。突撃を予想していた天使が、テンポを崩された所で衝撃は襲ってきた。

「その名は雷鳴、形は剣、その役は断罪!」

 轟音と共に、司が生み出した雷撃の剣が器である瑠奈を傷付けぬように、正確に霊体である天使だけを貫く。魔導によって生み出された電流が、天使の内の魔力の流れを阻害し、一秒ほど動きが止まる。

 そして、常人の軽く千倍以上の神経伝達と身体能力を持つ美咲にとって、その一秒は絶好の機会となる。『超えし力』と『真撃』によって極限にまで高められた斬撃が、一秒の間に五度天使の身体を斬り、裂く。

 天使は無理やりにでも翼を動かして美咲を引き裂こうとするが、司が放った爆発に邪魔をされ、その間に二人は翼の射程圏外に出てしまう。

 横目で見ながら、琉衣夜はその状況から残り時間を大雑把に予測する。

(今の所は、まだ順調、か。余裕はないな。ゆっくりしてる暇はなさそうだ)

 琉衣夜はそう分析した。今の所はまだ司と美咲が優勢に立っているが、それは天使が自分の強大な力を過信して、攻撃を大雑把にしている間にしか通用しない。

 天使が本気でこちらを潰そうと意識を傾ければ、力押しだけでも通用してしまう。今はまだ全力を出せる状況でこそ無いものの、少し方法を変えて一人一人をじっくり追いつめるようにされたりすると、こちらは次第にジリ貧になる。

 大体の所からして、天使は人間がどう小細工した所で封印するのがやっとという真性の化け物だ。その中でトップ四に入る怪物と対峙してまだ呼吸を出来ている事が、奇跡。

 この優勢は、どんなに粘っても長く持たない。

(だから、それが崩れる前に仕込みを終わらせないと、っと!)

 考え事に気を取られて、ポイントを通り過ぎる所だった。地面に手を当てて、目を閉じ集中する。すると、彼の力に、地の底にある二つの力が反応してくる。

 一つは彼が操る、この星に染み込んだ悪意。もう一つは、一般に地脈と呼ばれる大地の中に存在する力。

 その二つを、悪意を身体に取り込んで力に変換するのを応用して組み合わせ、その場に一つの特殊な力場を生み出していく。

 元々は安定してる地脈に、無理矢理に別の力を混ぜ込んで自分の思い通りに動かすのだから、安定させるのに少し時間がかかる。一瞬でも制御を誤れば、集中された力は一気に安定を失い、暴走する事になるだろう。

 それを防ぐために細心の注意を払っていた琉衣夜は、周囲の変化に気付くのが遅れた。ゾクリ、と背中が凍るような殺意に反応して振り向くと、天使がこちらを狙って魔導を放とうとしているのが見える。

 今ここを動く事は出来ない。かといって、防御のために力を割く事も出来ない。天使の攻撃を防ごうと考えれば、『黒』の殆どをそちらに振り分ける事になる。そのせいで制御が狂えば、同じ事だ。

 どう動いても、状況を変えられない。しかし、どうにかしなければ、死ぬ。当然力場が安定するまで待ってくれる訳もなく天使の力が放たれ、琉衣夜へと迫る。

 思わず目を閉じた瞬間、ギィイイイイン! という音が目の前から響いた。恐る恐る目を開くと、そこに立っているのは美咲。

 光が激突する直前、彼の前に立ちはだかって光を受け止めたのだ。

「な、何で……」

「り、理由を言う、必要が、有りますか……?」

 悪い、と呟いてもう一度目を閉じる。今の自分に出来るのは、美咲の心配ではなく自分の仕事を早く終わらせる事だけ。

 額に汗を流しながら、どうにか力場を安定させて立ち上がる。

「サンキュ、美咲! もう大丈夫だ!」

 琉衣夜はそう言って、最後のポイントへと走り出す。少しだけ振り向くと、美咲はさっき彼と光を弾いたのと同じ要領で攻撃をずらした所だった。

 前を向き、最後のポイントでも他の所と同じように力場を作り始める。天使がそれを妨害しようと、魔導を展開し、翼を伸ばすが、魔導は司が阻害し、翼は美咲が斬り伏せる。

 そして。

 最後の力場が完成した。それまで張り詰めていた琉衣夜の顔が、フッと和らぐ。

 しかし、そこに天使の翼が振り下ろされる。『黒』で身体を強化して、どうにか避ける。反撃とばかりに天使に魔導を撃つが、体勢が崩れていたせいか全く見当違いの方向に飛び、『天界』の式をほんの一瞬歪めた程度に終わってしまう。

 慌てて、最後に作った力場の方を見ると、まだそれは壊れていなかった。どうやらほんの少し掠った程度で済んだらしい。

 フウッと腹の底から息を吐いて、ゆったりと立ち上がる。同時、天使の身体から生み出されていた膨大な魔導式が止まり、神々しい光を放ち始めていた。

 天使は不審そうに聞いてくる。

「ドウシタ。ヨウヤク、無駄ダトイウ事ガワカッタノカ」

「どうだろうな。まあ、こっちから出来る事はなくなっちまったみたいだ」

 『天界』の魔導式がさらに輝きを増していく。どう見ても、発動寸前だという事が見て取れた。

「コレデ終ワリカ、呆気ナイナ。モウスグ『天界』モ完成スル。ソウスレバ……」

「俺達を殺せるって?」

「イヤ、ソレデ終ワラナイ。私ハ、自分ノ本来ノ姿ヘト戻ルノダ。コノ器ニ縛ラレル事モ無クナル。イイカゲンニ悪アガキハ止メルノダナ」

「……そうだな」

 少し困ったような顔で、琉衣夜は力無く首を横に振る。司と美咲を見ると、二人とも同じような表情をしていた。

「俺達の策は出尽くした。何かするにしても、『天界』の式が完成した今からじゃ、絶対に間に合わない」

 どこか焦点の合っていないような瞳で彼は天使を、いや瑠奈を見つめる。

「これが俺達の最後の挑戦コールだったんだが、まさかこんな結末になるとはな……」

 なあそうだろ、と自重するような笑みを浮かべながら、琉衣夜は天使に言う。

「まさか、ここまで上手くいくとは思わなかったよ」

 言葉と同時、『天界』の輝きが最高潮に達し、

 次の瞬間、ある一点から術式全てが真っ黒に染められていった。天使が疑問の声を発しようとするが、その時その身体から、ドゴン!! という轟音が響いた。

「ギ、ギギギガガガガガガガ……イ、一体何ギギググ、ガ……?」

 言葉を発すると同時に、天使は反射的に目の前の敵に向けて翼を放っていた。たった一撃で海を割り、地を砕き、『黒』の全力を持ってしても止められなかった必殺の一撃。

 しかし、それを琉衣夜は右手だけで受け止めた。しかもそこで止まらない。『黒』は、右手が触れた部分から一気に翼を侵蝕し、天使の本体まで手を伸ばそうとする。

「ギ、ガガガ!? バ、バカナ!」

 一度翼を切り離し、『黒』の進入を防ぐ。翼はあくまでも天使の魔力で生み出している、擬似的な物質でしかない。例え何百回壊されても、本体たる天使が無事ならば問題なく作り直せる。

 ……ハズなのに。

 いくら魔力を固めても、どんなに力を集めても、集めた端から分散して虚空に消えてしまい、羽の一本さえも生み出す事が出来ない。何度試してみても、同じ事だった。

「どんなにやっても、無駄だぞ。そういう風に仕込んであるからな」

 琉衣夜はマジシャンが手品の種明かしをするように、パチンと指を鳴らしながら、一言ずつ呟く。

「玄武」

 言葉と同時、天使の後方、北側の力場から黒の光の柱が、

「白虎」

 天使の左側、西の力場から白の光の柱が、

「朱雀」

 天使の前方、琉衣夜の背後にある南側の力場から赤の光の柱が、

「蒼龍」

 そして、天使の右側、東の方角にある最後の力場から青の光の柱が立ち上る。

 黒・白・赤・青の光が、『神殿』と『天界』と混じり合い、一つの強大な魔導となっていく。ある種では『天界』と同じ、しかし決定的に違うのはこれが天使のために生み出されたものではないという事。

「クッ!?」

「遅ぇよ、バーカ。これで詰み(チェックメイト)だ。四神ヲ以テ此ノ場ヲ我ガ色ニ染メン(このフィールドをオレのチカラでシハイする)!」

 詠唱と共に、完全に琉衣夜の魔導が発動し、空間中に彼の力が満ちていく。

「何故ダ……『天界』ハ完全ニ発動シタハズダ! 発動スレバ、人間ナドニハ何モ出来ナイハズナノニ……!」

「発動すれば、の話だろそりゃ。つまり、発動するまではまだ俺達の力はアンタに届く。おまけに、アンタは自分のチカラを過信してるのか知らないが、俺達の妨害を防ぐ努力をまるでしていなかった。お陰でこっちの作業もやりやすかったよ」

 琉衣夜が見た『天界』の式は、量こそ膨大ではあるものの、術式を妨害されたり、利用されたりするのを防ぐ防壁がまるで無かった。あれだけ膨大な式なら、妨害された時の暴走の規模もとんでもない事になる。

 琉衣夜が行った事は、至極単純。天使が編み出している、『天界』のプログラムに、琉衣夜の思い通りになるように式を書き足しただけ。

 「天使の力を、こちらの世界のフォーマットに書き換える」魔導から、「天使の力をこちらの世界のフォーマットに書き換えた後、琉衣夜にその力を安全に譲渡する」魔導に。

 『神殿』が展開されている以上、この空間の主は司で、天使はそこに上書きで『天界』を構築していた。そこを利用して、『神殿』経由で『天界』を乗っ取った、という訳である。

 つまり。

 天使が絶対的に有利であった条件が失われた。

 焦るように術式に介入しようとする天使だが、そこを抜かる琉衣夜ではない。防壁は徹底的に施しているので、あと数分は弄れない。

 そして、それだけあれば充分だ。無駄だよ、と天使に釘を差しながら、笑う。

「さあ、挑戦コールだ。これで最後にしよう」

 パントマイムのように、右手で見えない何かをつかみ取る。ゾゾゾゾゾザザザザ! と、見えない形に『黒』が流れ込み、現実にその形を知らしめる。

 生み出されたのは一本の槍。握り手から、穂先まで、一点の曇りもない漆黒で構成された破壊の塊。

 黒槍を右手で軽く何度か振って調子を確かめながら、トントン、と二度地面を軽く踏む。すると、天使の背後に真っ黒な十字架が現れて天使を磔にし、小さな黒い棘が天使の頭上の輪に何本も突き刺さる。

 槍。十字架。棘を持つ冠。

 そこから連想される、聖書における重要な要素といえば、

「ッ! 『神の子』ノ処刑カ……!」

 茨の冠を被った『神の子』は十字架に掛けられ、槍持つもの(ロンギヌス)によって貫かれた。

 ただの人間に、天使や『神の子』を殺す事は出来ないだろう。だが、その話からもわかる通り、神話は時としてそれが世界に必要ならばその序列を変更させる。

 そして『神の子』を殺す事が出来るなら、下位個体である天使もおそらくは。

 ならば、同じ状況を作ればいい。

 この界においての現在の主は琉衣夜。細かい部分は省いているが、処刑の準備は整い、槍持つ者も存在する。さらには、天使は今琉衣夜の作り出した魔導によって、通常の力を発揮する事が出来ていない。

 すなわち今この瞬間、この場においてのみ、<人間は天使に勝てない>というルールは消失する。

 咆哮と共に、琉衣夜が天使の元へと爆走する。一直線に、天使の元へ。軽く後ろに退いた黒槍を、勢いよく前に突き出す。

 天使が必死に生み出した防御のための魔導を易々と貫いて、この場の全てを貫く一撃となって『黒』の槍が放たれる。宿主である瑠奈は絶対に傷付けず、霊体である天使だけを狙って、突き刺さる。

 瞬間、一気に『黒』が力を失った天使の身体を駆け巡る。あっという間に天使の僅かに残った魔力を蝕み、全身を内側から砕こうとする。

 天使は何か行動を起こそうとしたようだが、もう遅い。もはやその身体は、自らの魔力と『黒』の激突の余波すら、受けきれないようだった。

 ビキ、ビキビキと天使の身体にヒビが入っていき、

「ギガ、ギギグガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 爆発、ついで光の柱が、『神殿』すら打ち砕いて立ち上り、遙か上空で巨大な十字架を形作る。光は十数秒間凄まじい勢いで上っていたが、唐突に掻き消えた。

 この、原因不明な光の十字架は一瞬一度、さらに深夜であったにもかかわらず、轟音と衝撃を伴ったために、目撃者多数。結局原因不明のまま、都市伝説として長い間語り継がれる事になる。



 ポタリ、ポタリと顔に冷たい水が滴り落ちてきた。

 体が半端でなくだるい。あまりの重さに、琉衣夜は真剣に自分の神経伝達がおかしくなっているのではないかと、ぼやけた思考で考えた。

 少し経ってから、琉衣夜は自分の身体が暖かい何かに抱きしめられているのに気が付いた。重たい瞼をゆっくりと開くと、そこにいるのは一人の少女。

 真紅の瞳に白銀の髪、なんてファンタジーな容姿ではなく、茶髪に茶色の瞳にいつもの柔らかい微笑み。少女の方も、彼が目を覚ました事に気が付いたようだ。

「あ、琉衣夜。起こしちゃった?」

「瑠奈、だよな。身体は、何ともないか?」

「うん。少ししんどいけどそれだけ。他は何ともなさそうだよ」

 そう言って微笑む彼女は天使なんかではなく、いつもの瑠奈だった。それに琉衣夜の顔が、自然と緩む。

「じゃあ、上手くいったのか。良かった、マジで良かった……」

「良くないよ、もう〜。無茶ばっかりするんだから……」

 彼女は頭を優しく撫でながら、とても嬉しそうに微笑む。その笑顔を見ただけで、頑張った甲斐があったと思う。

「ん。ま、また約束破る訳にもいかないしな。何というか、男の意地で」

「はあ、バカなんだから……でも、約束護ってくれてありがと。本当に嬉しいよ」

 ん〜、と少し呻くような声で答える。単純に身体が痛むというのもあったが、それ以上に今の言葉にまともに返事が出来なかった。自分の顔が、雨に濡れているのに熱くなっているのを感じた。

「アレ、琉衣夜顔赤いよ? どうかした?」

「……何でもねえよ、ちょっと寒いだけだ」

 ようやっと、少しだけ自分の意志で身体が動くようになった。二本の脚で地面を踏んで立つが、全身をくまなく覆う疲労と少しだけよりかかってきた瑠奈の体重で、心なしか足下が覚束ない。

 見上げれば、彼らがいる所だけ天井に大穴が開いていた。さっきの爆発の影響だろうか、いやきっとそうだろう。そう言えば、さっきなんか大爆発があったような気がする。槍を天使に突き刺した辺りから、記憶が一気に飛んでいた。

 改めて意識すると、一気に寒く感じてブルリと身体を震わせた。それほどの量ではないが、長い間当たっていたら天使の影響を受けていた瑠奈も、天使との戦いで体力が削られている自分も風邪を引いてしまうかもしれない。

「そんなに寒い?」

「ああ、ちょっとな。ってか、何で俺らはわざわざ雨に打たれてんだよ。瑠奈、あっち行こう……」

「ヤだ」

「え、え? あの、もっぺん言うよ? あっちに……」

「ヤだ! 絶対動かない!」

「何でだよ、ガキかお前は! いやホントに動こうぜ。このままだったら身体冷やして、風邪引いちゃうぞ」

「んじゃ、わたしがあっためてあげる」

「いや、そういう問題じゃ……」

「ぬくぬくごろごろ〜」

「……はあ、もう良いや」

 若干諦めを醸し出した琉衣夜の事など気にせず、瑠奈は抱きつく力を強めて胸元に子猫のようにグリグリと頭を押し付けている。本当に動く気はなさそうだ。

 やれやれ、とかぶりを振って辺りを見回す。司と美咲は、いつの間にかいなくなっていた。一応『黒』で探知をかけても反応はない。あの二人なら、何かしらの防衛策を取ってるかもしれないが、とりあえず目に見える範囲にはいない。

「瑠奈、あの二人なんか言ってたか?」

「『改めていずれ会いに来る』とだけ言ってたよ」

「そんだけかよ……」

 まだ礼も言ってないが……まああの二人の事だから、礼を言っても特に大した反応はしてこないと思うが、それでも一度は言っておきたかった。

 そのうち会いに来るならその時で良いか、とそちらについての思考は放り投げ、瑠奈の背中に手を回して抱き返す。瑠奈は少し驚いたような顔をしていたが、すぐにそれは嬉しそうに変わった。少しずつ彼女の体温が伝わってきて、本当に暖かくなっていく。

 そのまま数分が過ぎた。

 琉衣夜はおもむろに口を開いた。一つだけ、どうしても確認したい事があった。

「なあ、瑠奈。あの契約はどうなったんだ?」

 それに瑠奈は顔を上げる。その顔は何かを覚悟したかのような、表情だった。

「どうなった、って?」

「俺、天使を真っ向から倒したろ。その時に、アイツからの干渉も無視してるんだ。これってつまり、天使と瑠奈と、俺とで交わした契約はもう破棄されてるって事で良いのか?」

「うん、そうだよ」

 瑠奈は悲しげに微笑みながら、抱きついていた力を緩める。その身体が少し震えているように思ったのは、気のせいだろうか。

「だから……。だから、琉衣夜はもう私と離れても……」

「ああ、そうじゃねえよ」

 だがその言葉は最後まで言わせない。彼が言いたいのは、そんな事じゃない。ある意味、もっと酷いかもしれない。

「それじゃあ、もう一度俺と契約してくれないか? 昔の俺じゃなくて、今の俺と。天使抜きで、瑠奈ともう一度契約して欲しいんだ」

 その言葉が、瑠奈は一瞬理解できなかった。単語の意味はわかるのに、それがきちんと頭の中で整理できない。変換されて、理解するのに数秒はかかっていた。

 そして、理解してもそれは瑠奈の中で認める事が出来なかった。

「それは、本気で言ってるの……?」

「ああ」

「何で……?どうしてそんな事言うのよ……」

「瑠奈と傍にいたいから」

「嘘」

「嘘じゃない。こんなくだらない嘘なんて、俺は吐かない」

「約束したから? 約束したから、それを守るために……?」

「違う」

「で、でも……」

「でもじゃねぇよ。ああもう……」

 頭を激しく振りながら離れようとする瑠奈を、琉衣夜は掴んで抱き寄せる。これまでよりも強く、抱き留める。

「契約の事も、この前の約束も、関係ないんだ。本当に一緒にいたい。瑠奈と一緒にいると、楽しいんだ。今度こそ、絶対に何が起きても守りたいんだ。だから契約してくれないか、って言ってんの。それとも、」

 少し気弱な顔で瑠奈の顔を覗き込む。彼女はまだ目の前の状況を信じられない、という表情をしていた。

「瑠奈の方がお断り、とか?」

「そ、そんな事無いよっ!!……でも」

 全力で首を横に振る。そんな事がある訳がない。だって、元々一緒にいたがったのは彼女の方なのだ。

 でも契約までして、巻き込んで。挙げ句、自分の力で傷付けてしまって。

 そんな事があったのだから、傍にいられる訳がないと思っていた。自分が一緒にいたい、と思っていても、彼の方がお断りだ、と言うと思っていた。

 なのに。

 目の前の彼は、瑠奈の言葉に良かった、と屈託のない笑みまで浮かべていて。

 視界がにじみ出すのがわかる。彼が少し慌てたようにどうした、と聞いてきたが、それに何も応えずに、ただ彼の事を強く抱きしめる。

「……ずるいよ、琉衣夜」

「いきなり俺の前から消えた瑠奈に言われたくないぜ」

「私、せっかく諦めたのに。傷付けないように、精一杯頑張ったのに……。結局来ちゃうんじゃない……」

「仕方ないだろ、それは。なにせ、助けを求められたからな」

「うっ………」

 それを言われると、こちらは何も言えない。むしろ、どうして聞こえていたのか。あの時彼女はもう殆ど天使に呑み込まれていて、誰にも聞こえないと思ったからあれを言ったというのに。

 目の前の男は、それすらもきちんと聞いて駆けつけてくれた。

 顔を上げると、そこにいるのは大胆に不敵な表情を浮かべた彼。

「俺を呼んだろ? だから助けに来たんだ」

 その言葉に心がもうダメだ、と呟いた。本当にもうダメだ、抑えきれない。

 彼が自分の声を聞いて、助けに来てくれただけでも充分に幸福なのに。それだけで、もうこの両手には抱え切れそうもない幸せだと思うのに。

 目の前に現れた現実は、そんな所では止まらない。

 琉衣夜は言う。いつもとは違う柔らかい笑みを湛えながら。

「一緒にいよう。今度こそ、絶対だ」

「んうっ、うぅ……」

 しゃくりあげてしまう。音がきちんと言葉にならない。ちゃんと答えたいのに、のどが変な動きをしてちゃんと喋れない。

 それでも、瑠奈はしっかりと頷いた。彼の目を見ながら、力強く。

 それを見て、琉衣夜は急におどけた調子になる。

「あ〜あ〜、またこんなにボロボロ泣いて。そんなに泣かなくても良いだろうに」

「うう、仕方ないじゃない」

「はいはい。泣くのはそこまで。ってかこれって、もしかして俺のせい?」

「そうだよ? だから、ちゃんと責任とってね」

「え〜、それ重いなぁ。女の子に責任取って、とか言われるのって相当だよね」

 え〜、と瑠奈が唇を尖らせる。が、一瞬顔を見合わせると、すぐに吹き出した。雨に濡れていく工場の中で、笑いが響く。

 いつしか、雨は小降りになってきていた。

「それじゃ、始めますか?」

 瑠奈が頷くのを見てから、琉衣夜はしっかりと瑠奈を支えて目を閉じる。

 小学生の時も相当緊張していたが、今のドキドキの方があの時よりもずっと大きいと思う。こうして目を閉じているだけで、自分の心臓の音が派手に鳴り響いているのがわかるくらいだ。

 目の前の空気が意を決したようにフワリと動き、数年ぶりに二人の唇が重なり合った。柔らかい唇から暖かい何かが伝わって、再び彼の中に染み渡っていく。

 瑠奈が離れていく。目を開くと、瑠奈の顔はあの時以上に真っ赤で、ぞっとするほどに綺麗だった。

(こ、これにキスするのか、俺)

 なんだかんだ言いながらも、琉衣夜も健全な高校生である。小さく息を呑む。

「ほら、琉衣夜の番だよ?」

「はいはい、わかってますよっと」

 軽口を叩き、瑠奈の頬を両手で優しく包む。少し顔を近づけると、耳や首まで真っ赤にしてぎゅっとかわいらしく目を瞑った。瑠奈の薄桃色の、柔らかい唇がそこにある。

 躊躇いはなかった。

「いくぞ?」

 小さく呟き、再び二人の唇が重なる。

 そのとき、雨上がりの雲間から、一筋の星が零れ落ちた。


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