そして、悪魔は吼える
第四章です!内容としては起死回生、です。 よろしくおねがいします
雲一つ無い青空を見上げる。狭い路地裏から見える切り取られたような空は、お前の心境なんか知った事か、とでも言うように澄み渡った蒼だった。
それに反して、アスファルトの地面は所々紅く色付けされている。琉衣夜の着ている学生服も同じような朱が、染みついていた。
琉衣夜は出血していない。魔導師との戦闘で出来た傷は、瑠奈の魔導で全て治療されていた。だからこの朱は琉衣夜の色ではない。では、誰のものか。
「う、ぐうう……」
地面から呻き声が聞こえた。虚ろな瞳で下を向くと、見るも無惨なほどに顔を腫らしたゴツい不良が転がっている。一人ではない。この細い路地には五人ほど同じように倒れていた。路地に血の臭いが溜まり、それがさらに苛立ちを増させる。
「くだらねえ」
吐き捨てて、路地から通りにでる。あてがある訳でもなく、行く所があるのでもなく、ただ彷徨う。
魔導の眠りは睡眠時間がきっちり設定されていたらしく、目が覚めると気持ちのいい朝日が昇っていた。傷は跡形もなく消え、廊下で倒れていたはずの身体はベッドに移されていた。
瑠奈の荷物は全て消え、彼女が住んでいたという形跡は殆ど残っていなかった。
ただ一つ、瑠奈が龍音に借りた服を除いては。
フラフラと街を歩く身体に力は入っておらず、瞳は焦点が合っていないように、あちらこちらを見ている。
体中が鉄臭い。全身に返り血を浴びているのだから、当然と言えば当然だが。琉衣夜はさっきの不良以外にも、今日一日で十数人を一人で叩きのめしていた。
普段は面倒がって出来るなら避けるケンカも、今日は避ける気にならない。いつもなら適当にあしらって逃げられる場面でも、憂さ晴らしに全員殴り倒していた。
だが、心は晴れない。
チンピラや不良を何十人殴り倒しても、瑠奈を助ける事は出来ない。それを実感してしまうが故に、学校に行く事も家に戻る事も出来ない。
携帯には、龍音と奏絵先生からの着信とメールが大量に来ているが、その全てを無視していた。
なにかと接すれば、瑠奈がいなくなった事が動かぬ事実として突きつけられるから。
だから、琉衣夜は前と同じように全てから逃げようとしていた。
再び全ての辛い現実から目を背けようとしていた。
だから、気が付かなかった。
後ろから駆け寄る騒音の主に。いつもなら気付いたはずの声に。
「いたいたいた!ようやっと見つけたわよ! ……ってちょっと! 何さらっとスルーしてるのよ、琉衣夜!!」
現実から意識を逃避させていた琉衣夜は最初その声が自分に向けられた物だとは思わなかった。名前を呼ばれてやっと意識が現実に戻り、胡乱な瞳で振り返る。
「龍音、か……?」
いつもなら声を少し聞いただけでわかるのに、名前を呼ばれるまで本気で気が付いていなかった。彼女の声すら、彼の世界には届いていなかった。
龍音は、琉衣夜の格好を見て一瞬驚いた顔になり、すぐに怒ったように変化する。
「何、してんのよ、アンタ。まさかまたケンカ? ちょっ、あんたどんだけ……」
「用はそれだけか」
龍音の言葉を一言で切り捨てる。正直、今はちゃんと話が出来る余裕が彼には無い。些細な事で自制の鎖が外れて、彼女ですら殴り倒しかねない。
普段以上に邪険な態度に龍音は再び驚いたようになり、すぐに心配するような表情になる。
「……何かあったの?」
「いつも言ってるけどな、お前にゃ関係ねえよ」
会話を成り立たせようとしない琉衣夜に、龍音はいくつか問いを投げかける。
「瑠奈はどうしたの?」
「知るか」
「何であの子とアンタは今日学校に来なかったの?」
「さあな」
「……最後にもう一つだけ聞くわ」
息を吸い、言葉を選びながら言う。
「私は三日前、ファミレスを出た後にアンタ達を探してた。そしたら、アンタは戦場みたいになってた大通りの近くの路地に、ボロボロになって倒れてた」
「…………」
「アンタがケンカを呼び寄せるタイプなのは知ってるし、何をしたかは別に興味ない。私が聞きたいのはそこじゃない」
「じゃあ……」
何だよと、続けようとする彼を遮り、龍音は聞く。
「あの日、アンタは負けたの?」
琉衣夜の思考が一瞬途切れる。その問いが浴びせられるとは思っていなかった。
答えられない、いや答えたくない。
正直に答えれば、自分が美咲に敗れた事を認めなければならない。それはイコールして、琉衣夜では瑠奈を救えない現実が彼の前に立ち塞がる事を意味する。
二年前の事で琉衣夜の心は自分を傷付けようとする何かから、逃げようとする癖をつけてしまっている。加えて自分が彼女と交わした約束を守りきれず、圧倒的実力差を見せつけられてしまった事が、彼の中心にある芯を砕いてしまっていた。
立ち上がらなければならない事は、わかっている。だが、そのための力が残されているなら美咲と戦った時、そして瑠奈が連れ去られた時にとっくに使っている。
傷の痛みは、彼を縛る恐怖にはならない。そんな痛みはこれまで何度も体験しているし、乗り越えてきている。
体力はある。だが、気力がそれに伴ってない。心が諦めてしまっている。
何も言わない事を肯定と受け取った龍音は、彼を追いつめるように謳う。
「ふ〜ん。だからそんなに荒れてんだ」
「……るせぇ」
「いや、それだけじゃないわねぇ。それが理由で瑠奈にも見放されたとか?」
「違ぇよ!」
「ははっ、笑えるわね。ケンカに負けた挙げ句、女に捨てられて、それで学校にも来れずにフラフラ彷徨ってるんだ! アハハハハハハ!」
「うるせぇよ!」
頭に血が上り、思わず拳を握った瞬間。
バチンと言う音が辺りに響いた。龍音の顔から、ではなく琉衣夜の顔から。
熱を持った頬が風に吹かれて少しずつ冷やされていく。熱の籠もった拳は、いつしか力が抜け、開いていた。そこでようやっと龍音が、あのいつも鬱陶しいくらいに元気な龍音が、泣きそうな顔になりながら、琉衣夜の頬を張ったのに気付いた。
「何しやがる、テメエ!」
龍音は半泣きの顔で、琉衣夜を睨みながら言う。
「アンタ、カッコ悪いよ。どうしたのよ、そんなのいつものアンタじゃないでしょ!?」
今まで一度も聞いた事がない龍音の涙声に、琉衣夜は少なからず動揺する。だがそんな事はまるで無視して、龍音は続ける。
「何で一度負けたくらいで、また逃げようとしてるのよ!? いつものアンタなら、出来ない事でも出来るまで喰らい付くでしょうが! あの子が、いつもアンタの事どうやって言ってたのか知ってんの!?」
凄まじい迫力を振りまきながら、龍音が迫ってくる。気圧されて後退りするが、トンという音を立てて背にビルの壁が当たる。
震える龍音の手が、琉衣夜の胸ぐらを掴む。
「逃がさないわよ。真正面からちゃんと聞きなさい。……瑠奈はね」
逃げようとしている彼を、言葉通り絶対に逃がさないために。
「『信じてる』って言ったのよ!」
その言葉に、少年の中で時が止まる。
「いつもの学校でも、あんたを連れて戻った時も! 一番傷付いてるだろうに、笑顔まで浮かべて、一緒にいるって言葉を護ってくれるって!」
呼吸をしているのに、酸素が肺まで届かない。寒い訳でもないのに、身体が震え出す。
知らぬ間に握りしめていた拳に、瑠奈を抱きしめた時の温もりが蘇る。
一つの記憶と共に。
ボロボロになって気を失っている時に、一度だけボンヤリと意識が戻ったらしい時があった。数秒か、数分の事かもわからないし、あまりにもボンヤリとしていたために、何を言われたのかは全部をしっかりと覚えている訳じゃない。
だが、一つだけ。
一言だけ思い出した。何故、今思い出したのかはわからない。理由も意味も、今はわからない。
それでも彼女は琉衣夜の頭を撫でながら、こう言った。
「信じている」と。
例え美咲に負けてボロボロになっても。
琉衣夜なら立ち上がって、約束を守ってくれると。
こんな弱虫な彼を。たった一度負けただけで、前に進む事をためらってしまうような彼を。
信じてくれた。
「……は、ァッ……!」
深く息を吸う。突然現実が色を取り戻す。
無力である事への悔しさや、傷付く事への恐怖は身体の震えと共に、嘘のように消え去っていた。
やる事は決まっている。
悩む暇など無かった。考えられる時間も少ない。与えられた課題は山の如く、散らばるリスクは星の如し。
それでも琉衣夜の顔に浮かんだのは、素敵に不敵に大胆ないつもの笑み。
相変わらず震えながら自分の胸ぐらを掴んでいる龍音の指を、手で一本一本優しく外していく。引き戻してくれた事に、深い感謝を表しながら。
「ゴメンな、龍音」
「……ここは謝る場面じゃないでしょ」
そうか? と聞きながら、琉衣夜は最後の一本を外す。これで彼をこの場に留めるものは、何もない。
ポケットから携帯を取り出す。
現在時刻は午後六時半。美咲に負けた後、彼は二回既に午前零時を過ごしている。つまり、
(タイムリミットはあと五時間半……!)
一日あったのだから街を既に出ている可能性もある。だが、琉衣夜はその可能性は低いだろうと踏んでいた。
彼女の中には、『大天使』という得体の知れないナニカがいるのだという。魔導の事をきちんと知らない琉衣夜にはどれほどのモノかはわからないが、聖書の中での大天使の活躍を見れば、現代での核兵器のようなものと考えて良いだろう。
制御装置を付け直す必要がある核兵器を、無闇に持ち運ぶバカはいないのと同じ。おまけにリミットまで後五時間ちょっとしかないのだ。それを考えれば昨日の内に場所を確保して、一カ所で準備をしている可能性の方が高い。
まだ終わりじゃない。終わらせる訳にはいかない。
龍音の顔を見て言う。
「アイツ、まだお前に返してない物があるよな? ……ったく、どこほっつき歩いてんだか」
その胸に秘めるのは、覚悟というには脆すぎるし、決意なんて大層な物でもない。
「行ってくる。今ならまだ間に合うかもしれない。アイツ連れて、返す物持って、今度はこっちから訪ねるから……すこしだけ待っててくれるか?」
でも、約束を守ろうとする事は出来る。そして、立ち上がる事も。
前に積み重なった難題は数知れず。だが、それを考える権利は立ち上がった者だけが持つ物だ。
吹っ切れた表情の琉衣夜を見て、龍音は泣きそうだった顔を弛める。
「よし、それでこそ琉衣夜だよ」
「俺いつもこんなんだっけ? ……まあ、良いか。ありがとうな龍音、助かった」
「まだ感謝する場面じゃないでしょ」
龍音が言い切る前に、琉衣夜は踵を返して走り始めていた。
胸に抱いた思いを果たすために。
「……ったく、人の話は最後まで聞きなさいっての」
走り去っていく琉衣夜の背中を見ながら、意識しない内に少しふくれっ面になっていた。
(ま、元気を取り戻したんなら良しとするか)
声をかける前の琉衣夜は、まるで幽霊のようだった。確かにそこにいるのに、存在していないように存在感に欠けていた。
それほどに、瑠奈との約束とやらは彼にとって大切な物だったのだろう。それを失う事で、現実から再び逃げ出そうとしてしまうくらいには。
そう考えてズキンと胸が痛む。その痛みにおもわず俯いてしまう。
(あ〜あ、千載一遇のチャンスを自分で逃しちゃうなんてなあ……)
本当に、自分でもバカだなと思う。
でも、後悔はしていなかった。この世に生を受けて、初めて異性に対して持った特別な感情。それを向けた相手が幸せである事は、彼女の望みでもあるから。
欲を言うなら、彼の隣に立つのは自分が良い。それに、他の女がそこにいるのは少し癪。でも、それで琉衣夜が笑えるならそれでも良いかな、と思う。
(少し良い子過ぎじゃないかって自分でも思うけど、さ)
顔を上げると、琉衣夜の姿はもうとっくに見えなくなっていた。
当然だろう。大会にこそ出ていないが、彼は全国区で充分に賞を獲得できるだけの身体能力を持っている。運動少女の龍音とはいえ、琉衣夜が本気を出せば追いつく事は出来ない。
彼が走っていった方を見て、龍音はクスリと笑う。
その笑顔は少し悲しそうで、寂しそうで、それでいて嬉しそうで、幸せそうだった。自分も踵を返し、遠ざかっていく大切な人に届かないと知りながらも呟く。
「頑張りなさいよ、バカ……」
「クソッ……! 見つからねえ……。どこにいんだよアイツら……ッ!」
既に探し始めてから四時間が経過している。全力疾走でガタガタになった身体を、電信柱に掴まって支えながら、息を整える。
琉衣夜が知っている、人が滅多に通らない場所は探し尽くした。となると、まさか街の外に出ているのだろうか。だとすると、追跡は不可能だ。後一時間と少しで、街の外を全て探しきれる訳がない。
(落ち着け、とにかく落ち着け……!)
近くにあった自販機でコーヒーを買って、一気に飲み干す。のどの渇きと息切れがそれで収まり、少しだけ思考に余裕が生まれる。
(あと見てない所はどこだ……? 人が集まらない場所、って検索ワードが大雑把すぎんだよ、チクショウ!)
内側から沸いてくる、余裕を食い潰していく不安を無理やり押し殺す。残りはあと一時間。制限時間はわかっているのに、行くべき場所がわからないのはかなり不安を煽る。
「クソ、クソクソクソクソクソ! このままエンドとか冗談じゃねえぞ!」
何を言っているのか、自分でもよくわからないまま口走り、携帯のマップでもう一度怪しい所を検索してみようとした時。
世界が変質した。
「は? 何だ今の?」
空を見上げて顔をしかめる。一瞬だが、女の子の悲鳴が聞こえたような気がした。それに呼応するように、心臓が明らかにいつもよりも強く脈打つ。
「な、んだ? 何なんだよ、これっ!?」
胸に手をやると、服の上から軽く触れたくらいでわかるほどに、強く鼓動が打っているのがわかる。
「って、まてまて待て! ヤバいよこれヤバいだろ! 魔導か? もしかして近くにアイツらがいるとか……」
辺りを見回そうとすると、声が聞こえた。
一つはよく知った女の声。もう一つは気を失っている時に聞いた、抑揚のない機械のような声。
女の声は何を言っているのかを、きちんと聞き取る前に消えてしまった。
だが、もう一つの声は小さく何かを言っている。しかも、最初は外からだと思ったが、実は自分の内側から聞こえている……ような気がする。
「あ〜、もしくは俺ってば、本格的に色々と危ない子に……」
すると、その言葉を否定するようにまた声が響く。いまいち発音が不明瞭で何を言っているのか聞き取りづらいが、こちらの声は聞こえているらしい。
「……え〜と、近くに誰もいない、よな? フム。……よし大丈夫っぽい」
念入りに誰もいない事を確かめ、咳払いをして心の準備を整えてから言う。
「あのさ、何か言いたいのはわかるんだけどさ。発音悪いし、声小さいしで聞こえない。もうちょいハッキリ喋れって」
琉衣夜の言葉に、姿無き声が応える。一応幻聴ではないらしい。
「救援……主……最優先…………汝ノ……主……」
「ってまたそれか……。大体さ、主なんて言われても、俺には主なんていないし、誰の事なのかさっぱりなんだけど」
「汝ハ……ワカッテイル……汝ノ主ハ……汝ノ傍ニイタ……」
「はあ? 余計にわかんねえって」
もう良いよ、と話を強引に終わらせようとする。ただでさえ時間がない時に、実のない話をしている暇はない。
無視して走り出そうとした琉衣夜の内から声が再び響く。ただし、さっきまでの声とは違う。
「た……け……ル……ヤ……助け、て……」
琉衣夜の足が止まる。それは彼が最も聞きたい声だった。
声が届く範囲に、その声の主はいない。なら、どこから?
答えは分かりきっている。
走り出そうとした方とはまるで違う方向を見る。そっちを向いた瞬間、ドクンと強く心臓が脈打つ。まるで急かすように。先導するように。
速く、速く。走れ、走れ。
彼女の元へ!
「ちっ! くそったれ……。嘘だったら承知しねえぞ」
走り出す。
立ち上がる勇気もなく街を彷徨っていた時よりも、あてもなく探し回っていた時よりも、ずっと速く、強く!
そうして通りを駆け、路地を抜け、団地を走った先に辿り着いたのは、
「ここって……確か、作ったは良いものの、商売がまるで上手くいかなくて社長が首吊ったってウワサの工場、だよな? まぁた不吉そうな所に隠れてんな……」
フウと一息吐く。全力疾走したためか、脚が重くなっているのに気付く。
「や〜べ、軽くほぐしとこ」
ストレッチで手早く全身の疲れをほぐす。疲労で多少動きにくくなっていたが、それである程度改善される。
「さぁて、行くとしますか……って、へ?」
すぐ目の前に見える工場だが、一歩踏み出した瞬間に何かが脚にぶつかった。
まさか、と思いながらも目の前の空間に手を突き出すと、不可視の柔らかい壁がある事が確認できた。
十分ほどかけて工場の周りを一周してみると、どこも同じように張ってあるらしく中に入る事が出来ない。
「フム。結界……だよな。アイツらならこれくらいやりそうだし。RPGとかなら簡単に解決方法が見つかりそうだけど、現実でそんな優しい事するヤツはいないだろうな〜」
そう呟いて、少し考えてから少し腰を落として右手に力を籠める。そして、
「だりゃあああああああ!」
渾身のストレートを放つ。体重を乗せ、遠心力を加えたその一撃は、並の男性なら一撃で昏倒させるほどの威力を持つ。
だが。
ドン! という音と共に拳が突き刺さるが、衝撃を吸収するために少し震えた程度で壁は壊れない。
「まあ、そりゃそうだよな……。どうしたものかね……」
「ドウシタ? 何故主ノ……所ヘ行カナイ……」
そう呟くと、謎の声が不思議そうに聞いてきた。
「行けないんだよ。この壁のせいで」
「コノ壁ハ……魔導デ生ミ出サレタ物……魔導デ……解呪デキル」
「かもしれねえけどさ、俺は魔導なんて……」
「汝ハ……主ニ……魔導ノ事ヲ……習ッタダロウ……重要ナ事ハ知ッテイルナ?」
「ああ。使い手のイメージと、魔力の精製だろ。イメージの方は出来なくもないけど、魔力の精製ってのが上手くできないんだよ」
「問題ナイ……私ガ……サポートシヨウ……汝ノ……力モ……使エバ……コノ程度ナラ……容易イ……」
その言葉に琉衣夜は目を細める。このどこから聞こえてくるのかわからない声を信じるのは、少なからず抵抗もあるがこれ以外に方法がないのも事実。
「……信じて良いんだな?」
「精製ニツイテハ……問題ナイ……ダガ……汝ニシカ……デキナイ事ガ……アル……」
「わかってる、イメージの方は任せろ」
魔導は、元々形質を代表とする『天才』達に対抗するために生み出された力。そこには努力は必要でも、才能は必要ない。
この世に無数に存在する魔術的な要素を、方程式や、パズルのようにいくつも組み合わせて洗練し、限られた己の領域においてのみ世界に干渉して一般的な物理法則を超えた現象を起こす、それが琉衣夜が瑠奈に学んだ『魔導』。
『本来あるはずのない要素』を組み合わせ、自らの想念をそれに組み込む事で発動する力。
要素同士が相殺しあわないように組み合わせにも注意する必要があるが、それ以上に重要なのは想像する事だ。
要素同士を組み合わせて力を使えるようにした所で、具体的に何をしたいのかがわからなければ魔導は発動しない。
目を閉じ、力を抜いて自然に立つ。呼吸がだんだん深くなり、意識がどんどんクリアになっていく。
思う。
今失われようとしているあの温もりを。
想う。
傍にいて欲しいあの微笑みを。
願う。
彼女を助けて幸福に導く事が出来るだけの、こんな誰もが傷付いて終わる地獄の輪廻を断ち切るだけの力を。
思いは願いに、そして確固たる意志に変化し。
そして、世界を変える力に変わる。
目を開くと、全身に今まで感じた事のない程の力が満ち溢れている。拳を軽く開いてもう一度強く握りながら、目の前の壁を見る。
そこに彼を食い止める事が出来る障害はない。
「よし、これならいける」
さっきと同じ構えを取り、拳に力を乗せて放つ。同時、彼の中から強大な力が壁に向かって放たれる。壁は一瞬衝撃を吸収しようと身を震わせたが、吸収しきれずにヒビが入り、悲鳴のような音を立てながら、少しだけ砕ける。
進入するにはそれで十二分。
彼はニヤリといつもの笑みを浮かべながら、目の前の工場の壁も殴り壊す。
工場へと歩を進め、中にいるはずの魔導師達に高らかに宣言する。
「お前達の思い通りにゃさせねえよ」
時は少し遡る。司は一息をついていた。
ほぼ一日かけて作った魔導の微調整が終わり、ようやっと起動できたからだ。
魔導は基本的に、術式に組み込まれている要素と、情報量が圧倒的に物を言う。要素が濃く、情報量が多ければ威力は増大していく。反面、情報量が多いほどに制御は難しくなるし、コンピュータのプログラムと同じでたった一行、一文字でも誤字脱字があれば魔導の誤作動、ひいては暴走を起こすという危険性もあるのだが。
彼が今回使ったのは『神殿』と呼ばれる大規模結界術式。その効果は周囲の人払いに加え、外部、または内部からの物理的および魔導的攻撃の吸収。
対『大天使』用に作られた魔導の一つである。
司は懐から煙草を一本取り出して、火をつける。いつの間にか背後に近付いていた美咲がそれを見て、少し呆れたように言う。
「煙草はやめたはずでは?」
「やめたさ、一年間ね。……この日だけは吸わずにいられないんだ」
振り返らずに言う司に、美咲は目を閉じるだけで何も言わない。
六年前から彼の基本的な行動は何も変わらない。これまでも、そしてこれからも。どんなに時が経っても変わらない。
大切な者に、大切だからこそ刃を向け、彼女を狙う全ての敵を排除し、最悪な出会いと、大切な人からの敵意と引き替えに、彼女にとって自分達が出来る最良の終わりにシナリオを進めて。
それを繰り返す。何度も、これまでも、これからも。
最初は運命とやらを呪った。そして、未来をねじ曲げようと力も付けた。
運命を、世界を変えるのが『魔導』のはずで。そして、彼らは『魔導師』なのだから。
しかし、二人に世界を変える事は出来なかった。彼らが操る聖書をモチーフとした魔導は神が絶対の存在で、そして神に作られた天使には、人間は勝つ事は出来ないという厳格なルールが存在する故に。
だから、二人はこの道を選んだ。
褒められるとは思っていないし、思おうともしない。誰かから称賛を受けるためにこの道を選んだのではないのだから。
自分達が大切に思っている友達のため。それだけのために、彼らはこの道を選んだのだから。
「……彼女はどうだい」
「今は魔導で眠っています。ただ、それも今だけでしょう。既に『大天使』の負荷が出始めていますから、今のままで行けばあと二十分ほどでピークに達するかと」
そうか、と答えて、煙を一気に吐き出す。振り向いて美咲を、そしてその奥の部屋にいる彼女を見て、言う。
「始めるぞ。術式の構築は、天界の「三」を僕が、地上の「四」を君が。七重の連鎖魔導で『大天使』を封印する」
天界を表す数『三』は父と子と聖霊を表す三位一体を、地上を表す数『四』は四方とそれを守護する大天使の意味を持ち、その二つの意味を掛け合わせる事によって『世界』という莫大な意味と力を、魔導に持たせる事が出来る。
美咲は司の言葉に頷き、音もなく奥の部屋に移動する。部屋には既に細かい魔導陣が魔術式が、一見すると何の意味もない落書きのように、しかし魔導的観点から見るとその全てが互いに干渉し合って力を増幅するように配置されている。
その中央。ダブルサイズのベッドに大天使を宿す器、深夏瑠奈が眠っている。
司は煙草を外に放り投げ、封印の魔導を完成させるべく『力有る言葉』を唱えようとして。
ふと思い出す。
ここ一月ずっと瑠奈の傍にいた少年を。最初に司と接触した時も、彼の部屋で対峙した時も、瑠奈を護ろうとしていた少年を。司と同じように彼女の傍に立ち、彼女を救おうとした彼を。
「……アイツならどうしたんだろうな」
ポツリと呟く。
「僕らとは、違う道を選べたのかな」
その言葉に美咲も作業の手を止め、三日前に戦った少年の事を思い出す。
全ての真実を伝えられながらも、自分の思いを曲げずに拳一つで立ち向かってきた少年。最期に一瞬だけ発現した黒い力は、今は危険たりえない。何故なら、ここは対『大天使』用に組み上げた結界の中なのだ。あの力が強いと言っても、さすがに『天使』ほどではない。
だが、あの心だけは別だ。美咲に何度も殴り倒され、吹き飛ばされながらも、意識を手放さずに立ち上がった、あの意志は侮れない。
「そうかもしれませんね。彼ならもしかしたら、私たちとは違う未来を提示できたかもしれない。……ですが」
確かに彼の意志があれば、この輪廻を断ち切る可能性もあったかも知れない。
だが、現実は違う。
「彼の力がいささか必要量には届いていないようですね」
彼は二度美咲に敗北し、今この場にすら辿り着く事が出来ていない。
期待は少なからずしていた。もしかしたら、彼ならもう一度立ち上がるかもしれない、と。
だが、現実は甘くも優しくもなかった。ただそれだけのことだ。
「……続けましょう。このまま立ち止まっていても何も起こりません。決めたんでしょう。彼女のために、彼女の敵であり続ける、と」
「……ああ。ずっと前にね」
答え、司は中断していた作業を再開する。
いつもの時間に、いつもの術式を、いつもの理由のために。
都合の良い救いなど無い。そんなものがあればこの子は救われているはずだし、自分達もここまで堕ちる必要もなかったはずだ。そんなものがないと知っているからこそ、彼らは彼ら自身で見つけたただ一つの救いのために直走る。
いつもと変わらなかった。変わらないと諦めていた。
だが。
不確定因子はその常識を、簡単にぶち壊す。
術式の詠唱に集中している時、司は気付いた。『神殿』が注意を発する時の、ピリピリとした痛みが頭の隅で広がる。
(何だ? ……同業者? いや違う、それはないはずだ)
『神殿』の術式にも、『三』と『四』を組み合わせた連鎖魔導を加えて強化してある。
元々が対天使用に作られた上級魔導に、七重もの力を加えているのだ。そこらの並の魔導師では感知すら不可能。感知が出来ても、干渉は殆ど出来ない。
司が美咲に注意を促そうとしたその時、全身が砕けそうな痛みを発した。
「ご……がぁ……ッ!!」
痛みに呻きながらも、意識を集中させて原因を探る。
原因を見つけて、司は比喩抜きで驚きで心臓が止まるかと思った。『神殿』の一部が破壊されている。対天使用に作られた鉄壁なはずの結界が。
驚愕する暇を与えずにもう一度破壊音が響き、騒音の主が高らかに宣言した。
「お前達の思い通りにゃさせねえよ」
そこに立つのは一人の男。
この世界にヒーローや救世主なんていないし、助けを呼んだ所で都合良く助けが来るとも限らない。実際に、救いなどこれまで存在しなかった。
だが、司は。
不敵で獰猛で大胆な、上品さなんて欠片も持っていない、
しかし最強に最高な笑みを浮かべた少年を見つめて。
魔導師に三度も襲撃されて、そのうち一度は何十回も倒れたにも関わらず、圧倒的な実力差があると知っているにも関わらず、立ち上がってきた男を見て。
表にこそ出さないものの、泣きそうになる。それが怒りか、悲しみか、悔しさかはわからないが。
知らぬ間にギシリと奥歯を噛み締めていた。音もなく力を手元に集めていく。
「なっ、司、何を……?」
美咲が聞いた時には、手にした力を剣に換え、少年へと振るっていた。当然のように少年は避けるが、司はそれすらも気にくわない。
何度か二人の身体が交錯し、鮮血が舞い、骨を打つ音が響く。
「何でだよ……ッ!」
剣を振るい、薙ぎ、突き、少年を追いつめようとしながら司は叫ぶ。
「大した力も無いくせに……! 彼女を救う術も無いくせに! 何でお前は諦めないんだ!? 理由も無いのにどうしてそこまで立ち上がる!?」
二人は再び最短距離で激突する。剣は少年の首を狙うが、少年の拳の方が速い。
グシャリと音を立てて拳が司の顔面に突き刺さる。その衝撃と痛みに剣を維持していた力が緩み、圧縮されていた魔力が制限無く解放される。
小規模な爆発が起きた。二人の身体はいとも簡単に吹っ飛び、床や壁に叩き付けられる。
司は一瞬呼吸困難に陥るが、そんな程度で倒れるようなヤワな身体はしていない。少年も叩き付けられた衝撃からか口の端から血が滲んでいるが、それを拭って立ち上がる。
互いに自分の身体は見ておらず、互いの全力を持って何度も激突する。
「何で場違いだって事がわからない! ここはお前の常識なんて通用しない! 救いなんて無い、望みも無い!お前が立ち上がってくる場面じゃないって、何でわからないんだよ!?」
二人の動きが止まり、同じ方向を見る。そこに横たわっているのは一人の少女。
理由も、立ち位置も、方法も違う二人が、どうあっても助けたいと願う少女。
「…… 、 」
少年が小さく呟く。司が見ると、彼はもう一度言う。
「理由なんていらねえだろ」
彼の身体は至る所から出血し、重心も斜めに傾いている。傷の中には深いものもあるし、痛みもそれなりにあるはずだ。
だが、彼の瞳は揺らがない。
「理由がなければ立ち上がっちゃいけないのか?場違いだったら助けたいって思う事すらダメなのか? ……違うだろ」
少しずつ、静かに彼の身体に得体の知れない力が籠められていく。それは司が操る魔導ではなく、純粋に想いの力だった。
「力がなかったら諦めるのか? 自分には助けられないって妥協するのかよ?」
少年は強く、強く右手を握る。何の力も宿っていないただの握り拳なのに、司の身体は自分でも気付かないほど微かに震えていた。
「そうじゃねえだろうが! そんな訳がねえだろうが! 目の前で大切な人が泣いてんだぞ! 助けてくれって叫んでるんだ! それで充分だろ! 他に何もいらないだろ! 大切な人が泣いてる、護りたい人が苦しんでる、それだけで立ち上がっても良いじゃねえか!」
少年は傷付いた身体には目もくれず、ただ目の前の敵だけを見据える。
「お前が、どんな思いでこの道を選んだのかは知らない。これまでどれだけ傷付いてきたのかもわからないし、俺の方がもしかしたら間違えてるかもしれない」
少年が前へ出る。一言毎に彼の身体に籠められた力が増し、速度が上がっていく。自らの迷いを一つ一つ潰していくように−−ッ!
「それでも言わせてもらう!!」
いつの間にか、少年は司の懐深くにまで潜り込んでいた。必死に下がろうとするが、少年の拳の方が数倍速い。
「俺は俺のやり方で突き進む! お前にゴチャゴチャ言われる筋合いはないんだよ!」
渾身の一撃が、司の顔に叩き付けられる。
視界が歪み、身体が空中に投げ出されたのがわかった。ドシャリと音を立て、地面に背から叩き付けられる。
身体が動かない。
頭を揺らされたのと、身体を支えていた芯が今の一撃に砕かれてしまった。
あの少年は自分が傷付く事なんて考慮していない。ただただ、自分が思い描く最高の道を突っ走るだけ。
結局、少年と自分の違いはそこだった。
司は何度も倒れた事で傷付くのを恐れて、立ち上がる事をやめてしまった。自分の力で手に入る妥協で納得してしまっていた。
だが彼は、あの少年は、もう一度立ち上がった。実力差が明らかでも、諦めずに拳を握って。
それはまるで、物語の主人公のように。
首を動かして少年を見る。少年は倒れて動こうとしない司には目もくれず、既に美咲と対峙していた。もうこの位置では背中しか見えないが、司は十分前に自身が発した問の答えを確信した。
二人いた魔導師の一人は倒した。求めている少女は、目の前から十メートルと離れていないベッドで眠っている。
だが、その直線を遮るようにもう一人の魔導師が立つ。
栗原美咲。
琉衣夜が三日前に対峙して敗北した、瑠奈へ辿り着くための最大の壁。
客観的に見れば、琉衣夜が何度立ち上がろうと美咲を倒す事は不可能。最高で千倍まで己の身体能力を引き上げる彼女の前では、あくまでも普通の人間の域を出ない彼ではまともに戦う事すら出来ないだろう。
瞬殺。
導き出される答えはそれだけ。それらをもう一度、深く噛み締めて、それでも琉衣夜は一歩前に出る。美咲はそれに、軽く刀を握る事で応えた。
「退く気はないのですね?」
「決まりきった事聞いてんじゃねえよ」
言いながら、肩の調子を確認するように右腕をグルグルと回す。
「アンタなら、たぶん死ぬ事もねえだろ。悪いが、こっちも時間はないんで……」
一瞬、息を吸い、
「出し惜しみは無しだ!」
ボン! と言う音と共に、琉衣夜の背から『黒』の噴射が顕れる。墨よりも濃厚で、漆黒よりも清純なその悪意の螺旋を見て、美咲は少なからず驚いた。
「意識的に、力を使えるようになったのですか」
「さあてね。俺も初めて使うからな。今も訳わからんヤツに力借りて、ようやっとこれに気付いたトコだし」
琉衣夜自身、この力がどういう物で、どういった物を原動力にしているのか、詳しい事はまるでわからない。
だが、そんな事は今はどうでもいい。
一番重要なのは、今琉衣夜が力を持っている事。そして、それを使えば、美咲にすら勝てるかもしれない事。
「さて、始めさせてもらうぜぇっ!」
宣言すると、それに内からの声が応える。
(アア、使ッテミロ・・・制御ハ・・・コッチデ・・・ヤッテヤル・・・)
ニヤッと微笑み、右の拳に力を、『黒』を集める。対して、美咲は柄を強く握り、何かを二言三言小さく呟いた。
琉衣夜が開けた穴から一陣の風が入り込んだ瞬間、轟音が響き渡った。
藤崎琉衣夜と栗原美咲が、拳と剣が激突する。二人を中心にして放射状に爆風が巻き起こり、建物内に吹き荒れる。
窓ガラスは粉々に砕け散り、工場自体が風の威力に悲鳴を上げた。
互いの身体が後ろに弾かれる。
琉衣夜は僅かに顔をしかめながら、右手を開いたり閉じたりして感覚を確かめる。意図的に的を外された感覚があった。若干上向きに刀をあてて、もし琉衣夜が刀を受けきれなくても殺す事がないようにしたのだろう。
「ふうん、手加減するとは余裕だな。アンタ、舐めてるだろ」
それに美咲は何も答えず、鞘に指を走らせて小さな魔法陣を二つ描く。途端、左右から炎の弾丸と、氷の槍が、琉衣夜に襲いかかる。さらに、それにあわせて美咲は一気に肉薄し、刀を振るう。
それら全ての一つ一つが、殺さないまでも意識を刈り取る程度には力の籠められた一撃。戦闘になれてるとはいえ、三方向からの攻撃にはさすがに対応しきれないだろう。
これで終わり、そう思っていた。
しかし。
「だから、舐めてるってんだよ」
ガキィ! と琉衣夜の右手に刀が止められる。瞬間、槍と弾丸は琉衣夜の身体に触れる事すらかなわず、淡雪のように掻き消える。
視界の端で何かが動くのを捉える。美咲が本能に従って後方へ跳ぶと、次の瞬間黒翼がさっきまで美咲が立っていた場所を正確に抉った。
数メートル後方に下がった美咲は、刀を鞘に収めて構えようとした。と同時、
「甘い。人を見下すのも大概にしろ」
右から、琉衣夜の声が響いた。慌てて見ると、琉衣夜が炎を纏った右手をこちらに向けている。
「くっ……!」
瞬時に刀に力を宿し、火属性の魔法に強い水の魔法を起動して、琉衣夜に振るう。
激突。そして、美咲は見た。
琉衣夜の右手の蒼い炎が、美咲の水の力を宿した一撃を受けても尚、いや更に輝きを増して炸裂するのを。
爆音が辺りに響いく。
美咲はとっさに展開した防御魔法を維持しつつ、煙の壁の外に出る。とにもかくにも視界を確保して、いったん体勢を立て直すつもりだった。だが、
「ゆったり出来ると思うなよ?」
不敵な声が響き渡る。瞬間、暴風と共に黒翼が煙の幕を引き裂いて、琉衣夜と美咲の視界を明瞭にした。
琉衣夜の背の黒翼は、一本が百以上の細かい羽に変わり、それらが不気味に蠢いていくつもの陣を、式を、空中に三次元的に描いていく。
恐らくさっきの魔法も同じように生み出した物なのだろう。
だが、
(何故、魔導の基礎も知らない素人が、私の魔導を解析できた……!?)
さっきの炎と水の魔導の激突の時、琉衣夜の魔導は美咲の魔導をうち消した。
魔導には四大属性の強弱関係が存在する。火は水に、水は土に、土は風に、風は火に弱いという、絶対的な関係が。にもかかわらず、彼の魔導は美咲の魔導に打ち勝った。威力にそれほどの差はなかったのにだ。
二日前に彼と初めて戦った時は、彼は魔導を知識としては知っていてもまるで使えなかった。
そもそも、たった二日で実践使用が出来る段階まで至るほど、魔導は簡単じゃない。天使をその身に宿し、魔導の才能を溢れんばかりに持つ瑠奈でさえ、最初の魔導を使えるようになるまで三日かかった。
なのに、琉衣夜は簡単に術式を完成させ、それを危うげも無く放とうとする。
「おら、行くぞ」
魔力で生み出され、統御された風の刃が振るわれる。足下の地面を隆起させ、火の力を纏わせて防ごうとする。
(くっ……!何で……ッ?)
風の刃は易々と炎土の壁を引き裂いて、美咲へと襲いかかる。刀を振るって打ち消すも、琉衣夜を見てギョッとする。
「ふぅん、四大属性の法則しか使わないのか?」
妖しい光を目に宿し、不敵な余裕のある笑みを浮かべながら、彼はさっきと同じ場所に立っている。
「……何で」
「何で自分の魔導が解析されてるか、か? それとも、何で俺が魔導を使えるか、か? おいおい、そんな所からかよ」
呆れたように首を振りながら、自分の背中−黒い翼を指さす。
「これぐらいはわかってるだろうけど、コイツはこの空間に存在する悪意や敵意の塊。それら一つ一つは小さくて何の害にならなくても、掻き集めて凝縮させればこれだけの力になる。……悪意も敵意も一番根っこの所は変わらない、人に対する『想い』だ。向けられる側によって、プラスになるかマイナスになるかしか違いはねえ」
まあ、コイツは俺の中にいるヤツに聞いた事だけどな、と一言付け足して、その先を続ける。
「これは瑠奈からの受け売りだがな、魔導も形質も、人の『想い』を糧にして発動する。そして、俺の力は人の負の想いを喰らって、自分の力に変換する。なら、そもそもこの場に漂う物がどういった種類の想い(マイナス)かがわからなきゃ、話にならないだろ?」
「まさか、見えているのですか? 私の魔導や、形質が、どういった物で、どういう風に動いているのかが……」
それに、琉衣夜は余裕の笑みを崩さずに、ご名答、とだけ答える。
だとすれば、これほどまでに恐ろしい能力はない。相手の使う力の性質を全て見切れるなら、彼はそれの相手に最も適した力を使えばいい。もしくは、威力や範囲までわかるなら、それを避けられるように動けばいい。
敵の力を見切れる目と、敵の攻撃をかわす力があるなら、その中で最善手を取り続ける事が出来るのだから。
さてと、と言って琉衣夜は構える。その身体から禍々しい力が再び溢れ出す。
「こっちの解説が終わった所で、続きと行こうぜ。前戯はもう良いだろ? 出し惜しみなんてしてんじゃねぇ。んな余裕かましてたら、一瞬で終わらせちゃうぜ?」
確かに、今の彼の力なら『超えし力』を歯牙にもかけずに美咲を無力化して、瑠奈を取り返す事も出来るだろう。手加減などしていたら、彼のいうとおり一瞬で片が付いてしまう。
(出来るなら、使いたくはなかったのですが……)
右手の刀を強く握りしめる。使いたくなかったが、これほど相手に実力があるならば、仕方ない。
「良いでしょう、そこまで自信があるならば……」
手の中の『雷斬』に、魔力を籠める。まるで生き物のように、ドクンと脈打ち始める。元から、身体の一部だったように手に、身体に、馴染んでいく。
「『真撃』、その身でとくと味わってください」
美咲の身体に、力が満ちていく。強大な、しかし琉衣夜のように激しいのではなく、鋭くかつ圧倒的な密度と濃度を持った力が、解き放たれるのを今か今かと待ちわびている。
琉衣夜は笑みを消し、それを迎え撃つための準備を整える。右手を強く、壊れそうなほどに強く握りしめる。右腕に黒い点が一つ顕れ、次から次へと点は数を増やし、点が線になり、一つ一つが繋がりながら右腕、正確には右肘から先を真っ黒に染めていく。
両者、共に何度も激突する事は考えていない。
午前零時までに、琉衣夜は瑠奈を取り戻さなければならないし、美咲は術式を完成させる必要がある。
一撃。
次の一撃に、全ての力を。そして、自らの果たすべき行動を。
耳が痛くなるような静寂が訪れ、両者は同時に駆ける。小細工無しの、互いの全身全霊を籠めた、一撃。
そして、両者の拳と剣が激突しようとしたその瞬間。
世界が悲鳴を上げた。
「なっ!?」
琉衣夜は思わず声を上げてしまった。いや、美咲も驚きを隠せない表情をしている。彼らが見ているのは美咲の背後。ちょうど瑠奈が眠っている、ベッドの辺り。
そこに、凄まじい量の魔力が収束・膨張していく。
「な、天使!? まさか、まだ時間は残っているはず……ッ!」
そんな美咲の言葉を気にする事もせず、どんどん力は集まり、膨らんで、少しずつ何かを形作っていく。
琉衣夜は、自分の背中を見る。そこにあるのは、魔力の結晶、悪意の塊である、黒い翼。自分の中の訳わからないナニカの力を借りて、ようやっと扱える事が出来ている破壊の象徴。
だが。
目の前の光景をもう一度見つめる。彼の中には、美咲と対等に戦う事が出来るような黒の力を持っているのに、
見劣りして見えた。霞んで見えた。
自分の掻き集めた悪意なんて、足元にも及びそうにないほどの力が目の前で渦を巻き、轟音と閃光が、世界を塗りつぶす。
とっさに、力を集約していた右手を目の前に掲げて、目をつぶる。『黒』が白の光を喰らい、侵蝕しようとしていくが、それでも聴覚と視覚が一気に潰され、平衡感覚が潰される。
数秒か、数十秒か。もしくは数分くらいたったかもしれない。とにかく光が収まり、強烈な吐き気に耐えながら、必死に目を開いて前を見る。
目前に顕れたソレを見て、琉衣夜の視覚以外が一時的に機能を止めた。
「瑠……奈……?」
いつの間にか、自分が呟いている事にも気付かなかった。それほどに、目の前の光景に目を奪われていた。
辺りに渦巻いていた魔力は、どこにも見えなくなっていた。瑠奈が、グニャリと力が抜けた体勢でベッドから中に浮き上がる。三メートルくらいまで浮かび上がったかと思うと、両腕を広げ、脚をダラリと下げる。
それはまるで、神の子が十字架に磔にされたような風景だった。
瑠奈の口が、言葉を紡ぐ。
「警、告……警告、警告! 大天使、第三式への進入を確認。防衛魔導展開準備……失敗。大天使の進行を阻止できず」
しかし、その声は機械のように冷たく抑揚に欠けていた。琉衣夜の瞳が解析した情報から見るに、これが瑠奈の身体に組み込まれた対天使の防衛魔導なのだろう。緊急事態になると、自動で緊急防衛状態になるらしい。
しかし、今の警告を聞くに、その術式は天使に対抗できていない。
「しまった……! 司、術式の上書きは!」
「ダメだ、まだ細部まで完成し切れていない! 今のまま無理やりに使えば、過負荷で彼女の体が保たない!」
「じゃあ、どうすれば……ッ!」
司と美咲の悲痛な声が、辺りに響く。だが、それを嘲るかのように、再び瑠奈の周囲に魔力が集中し。
そして、天使が覚醒する。
磔にされた瑠奈の背から、厳かに一対の純白の翼が顕れる。
琉衣夜の、無理やりに形に押し込めた翼とは違う、その造形になるように計算され尽くした形。一点の狂いもなく、一つの汚れもない、『全知全能』を冠する天からの使いの名に相応しい、あるべき形の力。
それから放たれる力も琉衣夜の物とは、根元からして違う。悪意という、極めて人間的な感情を基にして生み出された『黒』は、まるで人間の感情の上下を表すように表面が柔らかく、時に激しく波打っている。
だが、その白から放たれる光に、感情という不要物は見えない。その力に上下はなく、ただ一定の出力を保って、天の奇跡としての任務を果たすために、そこにある。
それはまるで、黒と白、有機と無機、生物と機械のように、全く異なる存在。
理性よりも先に本能が悲鳴を上げて、警告を発する。アレに近寄るな、アレに触れるなんてもってのほかだ、とでも言うように。
身体が震えているのを感じる。あの翼は恐らく、いや確実に顕現し始めた天使の一部でしかない。にも関わらず、先ほど美咲から感じたのとは桁の違う、膨大な密度と純度をもった魔力が、瑠奈の身体から溢れて神殿内を満たしていく。
あんな存在と真正面から交戦すれば、どんな力を持っていても意味を為さないだろう。むしろ人間が戦う、と言う事すらおこがましい相手なのだから。
形有るモノは原子の領域へ、形無きモノは無へ。原形を留める事すら許されずに、その存在を抹消される。見ただけでそれがわかる。『黒』の力で、それがわかってしまう。
何より、彼の中から聞こえる声がそれを強く語っている。
ああ、アレがお前の主だ、あの方こそが、お前の跪くべき方だ。さあ、あの方の元へ行け、そうすれば全ての悩みが失せて消える。従え、契約のままに……。
そう、何度も何度も彼の中から語りかけてくる。
身体の震えがどんどん酷くなっていく。表情が無意識に変化していく。
どんどん。どんどんどんどん。
歓喜の色に染まっていく。
恐怖? そんなものある訳がない。だって、これまでずっと待ち望んでいたのだから!
美咲に負けた時も! 瑠奈が連れ去られた時も! あてもなく町中を彷徨っていた時や、探し求めて走り回っていた時だって!
自分の無力を呪いながら、それでもたった一人の少女を助けたくて、もう一度前に進むと決めたのだから!
大天使がどうとか、世界が滅びかねないとか、そんな小さい事情は今はどうでもいい。それらは全部彼女を助ける事が出来れば、ついでに解決するのだから。
目の前の、呆れるほどに分かりやすく現れた、明確な敵を倒せば、このゴチャゴチャした輪廻を終わらせられるのだから!
好戦的な笑みを浮かべ、ここからどうするかを思考し始める。何があっても、どんな事が起きても対応していけるように、構える。
「警告……天使、第三式を突破……天使の表層への顕現を阻止でき、ず……天、ガガ……使ノ…………」
「黙レ」
瑠奈の、ノイズが混じった機械のような声を遮り、空間に男とも女とも、老人とも若者とも付かない不思議な声が響き渡る。
その声が響いた瞬間、自分の心臓がこれまで以上に強く脈打ち始める。内側からの声が、どんどん強くなっていく。集中が途切れ、展開していた『黒』が制御できずに消失する。
「く、あ……はぁッ……!! な、何だ、これ……?」
その言葉に反応したのか瑠奈が、天使がこちらを向く。
「オオ。ソコニ居タカ、我ガ契約ヲ交ワシタ下僕ヨ。オマエノオ陰デ外ニ出ラレタ」
瑠奈の口は動いていないのにも関わらず、不思議な声が耳元で囁く。天使の声が鼓膜を揺さぶる。その言葉に、内側からの声が歓喜に震えるような呻きを発した。
サア、躊躇ウ事ハナイ。主ノ元ヘ……契約ヲ果タセ。従エ、従エ、従エ……。
その言葉で、頭の中が埋め尽くされていく。意識の外に追いやろうとしても、そう考える事すら塗りつぶされていく。
従エ。
(……黙れ)
主ニ従エ。
(黙れ、黙れよ!)
何ヲ躊躇ウノダ。主ニ従エバ、悩ム事ハ何モ無イ。オマエヲ悩マセルモノナド、何モ無イ。ソシテ、オマエハソレヲ望ンデイル。
(違う!俺は、俺は……)
サア、主ガ望ムママニ。全テヲ忘レ、解放シロ。
思考が暗く、真っ白に塗り潰されていく。考える事が出来なくなり、そして声が最後に告げる。
契約ヲ果タセ。
瞬間、世界が、全てが真っ白に弾けた。
「あ、ああああああああああああはははははははははははははははははは!!!」
口から、狂ったような笑いが零れ堕ちて、止まらなくなる。全身に取り込んだ『黒』が、背から飛び出して、世界を、この空間を侵蝕し始める。
だが、それがどうした?そんな事など、どうでも良いだろう?
世界なんて知った事か。そんな事は全てがどうでもいい。何がどうなろうが、知った事じゃない。
俺が、今やるべき事はただ一つ。
主に従う、ただそれだけだ。
そう結論付けて、自分の主の元へ一歩踏み出そうとした、そのときだった。
(……本当にそれで良いのか?)
そう、どこかで誰かが小さく呟いた。本当にそれで良いのか、お前はそれで納得してしまうのか?
その言葉は、本当に小さいのに、何故か心の端に突き刺さる。
不快だ、そう思ってその言葉を閉め出そうとした。だが、何故か消えない。消えてくれない。
うるさいぞ、俺はもう決めたんだ。俺は主の元へ行くんだ。
(お前はそれで良いのかよ? また、約束を破るのか!?)
約束? 何の事だ。
(覚えてないじゃ、すまさねえぞ。龍音と、あの子と二人と約束してんだろ!)
龍音? あの子? お前は一体何を……。
その時、他の小さな声が聞こえた。微かな、弱々しい、なのに何故か心に残る声。
信じてる、という言葉が。
その言葉が、ガチガチに固められた思考を吹き払う。天使の声がどこか遠くに消え去り、通常の思考が戻ってきた。
(それで? どうしたいんだよ?)
胸の中の誰かが、そう言った。それに、さっきまでとはまるで違う、しかし分かりきった答えを返す。
決まってる。
俺は、俺の道を行くだけだ。
「ははアハハハハハハハハハハアアアアアアアアクソがぁあああああああああああ!!」
絶叫、同時にボンヤリと濁った思考が、急に明瞭になる。頭が軋むように痛み、黒い翼はその背から再び音もなく消えた。
だが、もう天使の声に操られてはいない。身体は彼に自由に動く。
目の前の状況が信じられないのか、天使が若干驚きを含んだ声を響かせる。
「バ、バカナ……タカガ人間ガ……ソレモ我ト契約ヲ交ワシタ下僕ガ、私ノ干渉ヲ拒ムダト……?」
「うるっせえな……。人様の耳元でグチャグチャ言ってんじゃねぇよ」
真正面から睨み付ける。
『黒』を使っていないので、感覚的にしかわからないが、天使の力がさっきよりも更に増大している。
そして、それに伴い瑠奈の身体そのものにも変化が訪れる。人間という枠を超え、天使の器に相応しいように、身体の組成そのものが書き換えられていく。
元々日焼けという言葉を知らないような白い肌は、もはや病的なほどに更に色素が抜けて白くなり、暖かく柔らかい瞳は、ガラスのように鋭く、冷たい光を宿し、血のような真紅を宿した。
瞳と同じ色だった茶髪は、肌と同じように根本から色素が薄れ、流れるような白銀に変じ、翼から放たれた白光を反射して暗い倉庫の中で更に存在を強く示す。
おとぎ話に出てくるような、どこか幻想的なその変化を見て。
琉衣夜は嘘だろ、と呟くのを止められなかった。
目の前の天使を、彼は見た事があった。一度ではない。何度も、何度も。
小さい頃、よく一人で遊んでいたあの公園に現れた、あの人間とは思えないような、美しい少女。あの子にそっくりだった。
そこで、琉衣夜は一つ思い出す。瑠奈は、7つの時に天使の力を封じるための儀式を行った、と言っていた。そして、もしかしたらその前後で多少でも容姿が変わっていたと言う事はあり得ないだろうか?
人の髪や、瞳の色なんて工夫すれば誰でも変える事が出来る。大天使なんて強大なモノを封じ込んだとすれば、そのぐらいの変化は現れるのではないだろうか?
もしも。もしも、だ。あの時の女の子が、瑠奈だとしたら?
そう思い至った時、様々な謎が一気に解けていく。瑠奈が誰に会いに来たのか、彼の内側から聞こえてきたあの声は何だったのか。そして、天使が言う、契約とは何の事だったのか。
「……何だ、そういう事だったのかよ」
思わず笑ってしまった。どうして、今の今まで思いつかなかったのか。いやまあ、常識の範疇にしか居なかった琉衣夜が、そんな所まで考えられるとも思えなかったが、それにしたって間抜けだ。
答えは、すぐ目の前にあったのだから。
そして。
「謝って済む問題じゃねえよなぁ……」
昔会った女の子が瑠奈だとしたら、琉衣夜は彼女との約束を二回も破ってしまった。一度目は、契約をしてすぐに。二度目は、再会してから、瑠奈が連れ去られた時に。
どんな理由があったにせよ、琉衣夜は今この瞬間まで昔の彼女を忘れていたのだから。
「……まずは目の前の問題から、か」
目を閉じ、自分の身体に眠る力に呼びかける。その力に触れた瞬間、全身に粘つくような嫌な感覚が駆けめぐる。
さっきまでは、天使の力の一部が琉衣夜を助けて制御をしてくれていたが、天使からの呼びかけを一方的に切り捨てたのだ。さっきまでのように、ノーリスクで使う事は出来ない。
だが、まずは自分の力を使えなければ、お話にならない。この力を使えなければ、琉衣夜の存在はこの場において何の意味も持たないのだから。
力を意識的に表に発現させ、更にそれを自分の身体に馴染ませていく。憎悪・悲哀・悔恨・憤怒・絶望…………多種様々な想念が彼を内から侵蝕しようとする。
身体から力が抜け、片膝をついてしまう。
彼が発現した能力は、「この場に存在する負の想念を、自分の身体に取り込んで力に変換する」もの。
つまり、琉衣夜の身体は吸収する悪意の影響をもろに受けてしまう。吐きそうになるような、人間のどろどろした悪意・欲望が、自分の中に流れ込んでくる。
全身に、黒い腕がいくつも絡みついてくる。耳元で、亡霊達の呪いの合唱が響き始める。それだけで、普通なら気絶していたかもしれない。
だが、こちらも折れる訳には行かない。
「黙れよ……お前らの恨み言も聞いてやる。悔いがあるなら晴らしてやる。だから、今は黙って俺に従いやがれってんだよぉおおおおお!」
苦痛に苛まれながら。狂いそうになるほどの、呪いの言葉を聞きながら。
それでも琉衣夜は止まらない。
針に糸を通すような精密な制御をこなし、力を安定させていく。制御が安定するに従って、亡霊達の声が薄らぎ、痛みも和らいでいく。
額に脂汗を垂らしながらも、止める雰囲気の見えない琉衣夜に天使は不思議そうに語りかける。
「何故ダ……? 何故オマエハ、ソコマデコノ器ニ拘ル? コイツニソンナ価値ガアルトデモ思ッテイルノカ……?」
「うっせえな……そう言う考えしかできないお前には、たぶん終末が来ても理解できないだろうよ」
ニヤリ、と口元を三日月型に歪めて、二本の脚でしっかりと地面を踏みしめる。
その挙動に、今までの苦痛の跡はまるで見えない。天使はその笑顔を見て、更に不可解そうに首を傾げる。
「……力の補充、終わるぞ」
「ッ!?」
天使が先手を打とうとした瞬間、再び爆発じみた音を轟かせ、琉衣夜の背から『黒』の翼が顕れる。
しかも、そこには先ほどの制御せずに暴走させた時のような荒々しさはなく、かといって天使のように全ての感情の起伏を廃した機能のようなものでもない。
人間としての悪意を知りながら、それら全てを受け容れて自らの力に変換し、制御しきる。
どこまでも冷静で、同時にどこまでも人間的な力の扱い方。
その力の使い方が、端的に琉衣夜という人間を表している。何度も他人に裏切られ、幻滅して一人の世界に閉じ籠もりながらも、助けたいと願う者のためになら、その悪意すら利用する、その在り方を。
「力ヲ完全ニコントロール出来ルヨウニナッタカ……」
「ああ、どうやらそうらしいな。使いこなしている訳じゃないから、完全にかどうかは怪しい所だが」
「……イイダロウ。ソコマデ私ニ抗ウノナラ、力ノ差トイウ物ヲ一度体感サセテヤロウ!」
天使の意識が、力がこちらに照準を定めていくのが、『黒』の瞳で見るまでもなく、肌で感じる。顔は引きつり、脚がみっともなく震えそうになり、形質を制御してとんでもない力を手に入れたというのに、それでも恥も外聞もなく逃げ出したくなる。
「あ〜あ〜。全くとんでもないヤツを拾っちまったもんだ」
目を閉じて呼吸を整え、状況をもう一度整理する。思い浮かぶのは、一人の少女の顔と声。それが目の前に現れた瞬間、彼の天秤はアッサリと片方に傾いた。
「上等じゃねぇか……」
今なら、何だって壊せる。何だって潰せる。そんな気さえした。例えそれが、絶望的な力を持った天使であろうが。
「アイツを助けられるなら、天使だろうが悪魔だろうが、ぶち壊す……!」
翼を50センチほどまで濃縮し、空気を一気に叩くと同時、『黒』を思いっきり噴射して、天使の懐に突っ込もうとする。
音すら軽く置き去りにして、まるでミサイルのように。
だが、天使はその速度でも容易く反応する。背の白翼を動かし、一枚は左からもう一枚は上から、敵を斬り裂き叩き潰すために振るわれる。
受け止める事も出来たが、それをするとその場に留められてしまう。右手を伸ばして、『黒』で左からの翼を削り取りながら、攻撃の方向を無理やり上にずらす。
天使の両翼が衝突し、互いを削り会いながら閃光を放つ。その衝撃で、ほんの僅かな時間だけ天使本体に隙が出来る。その間を突くべく、加速して接近する。
だが、
「甘イゾ」
油が弾けるような音と共に白の殲光が直撃する。それだけで終わらず、更に出力が引き上げられて太さ3メートルに及ぶような光の渦に、彼の身体が呑まれる。
数秒して、光を止めた天使が見たのは黒い繭だった。それが内側からゆっくりと解け、無傷の琉衣夜が姿を現す。
普通のレベルの魔導師が見れば、巻き込まれるだけで死んでしまうような次元での戦闘。しかし、それでも両者は互いにまだ全力を出しきっていない。
「フム、コレデモマダ生キテイルカ。ナカナカ頑丈ダナ」
「おいおい、この程度ならまだ全然許容範囲だぜ? これが天使の全力とか言われたら、俺はあの二人の魔導師を、鼻で笑うさ」
「ソウカ。デハ……」
ゾン! という不気味な音と共に天使の力が見るからに膨れ上がり、
「コレデハドウダ?」
直後、肉が潰れるような音が倉庫に響き渡った。
美咲は、目の前で行われている戦闘を見て、自分が巻き込まれないでまだ生きていることが不思議だった。それほどに、目前の二人はレベルが違った。
かたや、聖書で存在を語られる、全知全能の神に生み出された天の使い。
かたや、悪意を統合して自らの糧となす、悪魔のような力を持った人間。
小規模な結界を張っているにも関わらず、その余波だけで身体が悲鳴を上げているのがわかる。『超えし力』も『真撃』も解放していない今の状態であの余波を受ければ、間違いなくそれだけでミンチになるだろう。
天使の封印のための術式はもう完成していたが、今からでは遅すぎる。美咲達の力では、天使の意識が表に浮上する前に封印するのがようやっと。顕現し、不完全とはいえ力を振るっている天使を封印できるような魔導は、今の手持ちのカードでは再現できない。
つまり、手詰まりだった。それも、完璧に挽回する余地のない、泣きたくなるような袋小路。
目の前の戦闘に加勢する、という手もあるが、恐らく何の助けにもならない。少しずつではあるが確実に、天使の力は時間が経つと共に増大している。漆黒を全身に纏った少年は善戦しているものの、目に見えて圧され始めている。
この状況が崩れ、一気に押し流されるのはもはや時間の問題だった。
隣にいる司も、苦い顔をしながら消えかかった煙草をくわえている。あまりのスケールの違いに、現実感すら沸かない二人は、自らにのしかかる無気力の波に逆らうので手一杯だった。
自分達ですら、数年掛けても届かなかった領域に、あの少年は数日で到達してしまった。そして、その少年でさえこの状況を打破する事が出来ていない。
なら、自分達がやってきた事は何だったのか。所詮は、決して届く事のない絵空事でしかなかったのか?
そんな自問自答が続く。決してゴールの無い負の思考が連鎖して、泥沼のように二人を引きずり込んでいく。
しかし、いや、でも、だが、だって、それでも。
否定だけが連続し、これまで積み上げてきた全てが音を立てて崩壊していった。努力も、希望も、夢も、そんなものは圧倒的な現実の前では何の役にも立たない。
視線が自然と下を向いてしまう。
無駄だった。そんな一言が、頭の中を一色に塗り潰していく。
もう無理だと思った。戦うどころか、前を向く事すら困難に思えた。数年掛けて必死に築き上げたモノが、全て崩れて虚空に消え去ろうとした瞬間。
「魔導師!!」
手は、思いも寄らない所からさしのべられた。
その手はとても眩しく思えた。同時にとても暖かかった。その声に引っ張られて、二人の視線は前を向いた。
全身が軋み、至る所から血があふれ出ていく。形質を酷使しているせいか、意識の混濁が激しく、吐き気が酷い。
とりあえず、まだ生きている。拳を握る事も出来る。力の制御も、今の所はまだ問題ない。
だが、戦局は大きく塗り変わっていた。
「ヨク耐エル。マサカココマデ保ツトハ思ワナカッタゾ」
琉衣夜と天使の殺し合いは、これまで数分間続いていた。たかが数分と思うかもしれないがコンマ一秒のレベルでは、数分は体感的に数十分と同義になる。
「ダガ、ココマデダ。見ロ、我ガ枷ガ外レル。コレデ私ヲ縛ルモノハナイ」
「け、い……こく……てん、し最終式へ、の進入……を確に、ん……対処、不、可……」
天使の言葉を裏付けるかのように、瑠奈の口から途切れ途切れの言葉が零れる。
ビクンビグン!! と二度強く瑠奈の身体が震えた。
そして、世界が鼓動した。強大な存在の顕現を前にして、世界そのものが震えるように。
ガクガクと、瑠奈の身体が始めは小刻みに、だんだん強く震えだし、いきなり糸の切れた人形のような挙動で、力が抜けた。同時、瑠奈の身体を中心にして、空間に文字が、数式が、グラフが、見た事もないような様々な術式が展開され、複雑に絡み合い、更に大きな魔導陣を作り出していく。
「私ヲ縛ル力ハ砕ケタ。『天界』ノ式モ直ニ完成スル。ドウ足掻イテモ、無駄ダ」
その言葉を無視し、空間を、正確には『神殿』内にびっしりと描かれていく巨大な魔導陣を、『黒』の瞳で見る。
「う、ぐっがぁあああああああああ!?」
途端に脳が熱を持ち、強烈な痛みを発する。視界が歪み、思わず力を遮断して、目を手で覆ってしまう。
目を凝らして見ようとした訳ではなく、また解析防止用の迎撃魔導に触れた訳でもない。ちらっと、ほんの少し見ただけで脳が融けそうになるほどの量の情報が流れ込んできた。止めるのがあと一秒遅れたら、脳が本当に壊れていた。
魔導は情報量が威力に直結する、と言ってもあり得ないほどの情報量だった。今ので身体に不具合が起きてないか確認しながら、流れ込んできた情報を基に魔導を分析する。
(メインは聖書に書かれるような要素が基本。目的は攻撃じゃなく、むしろこの『神殿』を強化したのに近い)
そこまではわかった。しかし、この先に行けない。
(細かい要素が読み切れないから、きっちりと術式の効果が読み切れない……!)
量が多すぎて琉衣夜の頭に収まりきらないために、読む事が出来た部分で分析・推測するしかない。そのせいで、大まかな全体像でしか、魔導を読み切れない。
(裏を返せば、それだけの威力を持った防衛魔導?でも…………)
そもそも、何のために?
琉衣夜や、二人の魔導師の力では、そんなレベルの魔導は使えない。それに、防御魔導なんて使わなくとも、天使がその力を本気で振るえば、人間では対処できないはずだ。
にもかかわらず、天使がその魔導を行使する理由は?
わからない。パズルを解くための、絶対に必要なピースが圧倒的に欠落していて、琉衣夜ではこれ以上先に進めない。
(この状況を打破できるのは……ッ!)
琉衣夜よりも魔導に精通しており、更にその視点から天使を調べ上げている人物。つまりは、
「魔導師!!」
二人の魔導師はその琉衣夜の呼びかけに、下を向いていた顔を上げた。その顔に浮かんでいるのは、驚きと躊躇い。諦めたのか、絶望していたのか、その身体には妙に力が入っていない。
何やってるんだよ! と叫びそうになるが、それは後だ。今は、目の前の天使をどうにかしなければならない。そのための手段を選ぶ余裕なんて無いし、それ以外の無駄な事をする暇もない。
「コイツの事を教えろ! 使う魔導、行動の傾向、弱点、思考パターン、何でも良い! お前らが知っている事全部だ!」
その言葉に二人は迷うように互いの顔を見、モゴモゴと何かを呟きあう。そんな挙動にも琉衣夜は腹が立つ。何を迷う事があるのか。
「早くしろよ!何を迷って……!」
苛々しながら言おうとして、気付いた。
天使が魔導を作り上げている。さっき言っていた、『天界』とはまた違う独立した魔導。それに、彼の形質が警告を発している。
そして、その矛先は、琉衣夜ではなく二人の魔導師。
一応、彼らの周りには小規模な結界が張ってあるが、あの程度の結界では天使の攻撃を受け止める事など出来はしない。
魔導が完成・発動し、真っ白な殲滅の閃光が二人に向けて放たれる。そこでようやく二人は気付いたようだが、遅すぎる。逃げる暇など与えず、光は二人を消し飛ばそうと襲いかかる。
「だぁあああああああ!! 畜生ォ!!」
光が二人を護る結界を壊して激突する直前、ギリギリで身体を間にねじ込んで、『黒』を集中させた右手で、どうにか光を食い止める。
ジィイイイイイイイイイイワアアアアアアアア!と音を立てて、殲光と黒の力が喰らい合い、互いを弾き飛ばさんと侵蝕し合う。
だが、もはやその攻防は五分ではない。
少しずつ、ジワリジワリと光が右手に近付いてくる。天使の力が増大したため、押し返す事が出来ない。出力を、身体が壊れそうになる限界まで引き上げているというのに、それでも足りない。
どんどん、重圧が増していく。弾き飛ばされそうになる右手を支え、飛びそうになる意識を必死に留めながら、内側では補充のために悪意を力に変換し続ける。
口の中に、濃密な鉄の味がこみ上げてくる。外からは光の威力、内からは能力の副作用、そしてこれまでの天使との激戦で受けたダメージは、琉衣夜を内臓が正しい位置に納まっているか怪しいほどに痛めつけていた。
「何、で……?」
後ろから、美咲の声が聞こえた。それはまるで、迷子になって泣きながら母親を捜し続けた子供のように、とても弱々しかった。
「私たちは敵、ですよ。あなたを何度も斬ったし、瑠奈をあなたから奪った。……なのに、何であなたは、その敵を守っているんですか……?」
「そ、そんな所から、かよ……」
笑っている状況じゃないのに、吹き出しそうになった。口からは籠もった音しか出ず、きちんと聞こえているかわからない。でも、この問いにはきちんと答えるべきだと思った。
そもそも、力を貸してくれと言っているのは彼なのだ。ならば、きちんと質問には答えなければなるまい。
形質の制御がおろそかにならないように全力を注ぎながらも、動きづらい口を精一杯開いて音を紡ぐ。
「俺にとっての最優先事項は、瑠奈を助ける事、なんだ……。んでもって、アイツを助けるには、俺一人の力じゃ、絶対に足りない……。知識も、力も、持ってるヤツを、死なせる訳には……いかないんだよ……」
「で、ですが……」
「ガタガタ言うんじゃねえよ……! 良いか、一つだけ聞く。理屈も、理論もいらないから、正直に答えやがれ……」
吐き気を抑え、腹一杯に息を吸い、光から目を離さずに、彼は吼える。
「お前らは、瑠奈を、助けたくないのか!?」
魔導師の動きが止まった。後ろを見る事が出来ない琉衣夜はそれにも気付かず、自分のための戦いを続ける。
結局、琉衣夜の戦う理由はこの局面になっても、変わっていない。
今、天使の中で消えそうになりながらも、助けを求めている少女と、もう一度日常の中で笑いたい。
そのためならどんな難関にも立ち向かえる。誰が無理だと言っても立ち上がる。
「ノーだ、って言うなら、それで構わない! でもな……イエスだって言うなら、お前らは何してるんだよ!? 立場も、立ち位置も、実力も、善悪も、理由も、俺達が今ここで、殺し合わなきゃ行けない理由にはならないだろ! アイツを助けたい、それが目標なのに、お前らは何で立ち止まってるんだよ……?」
ブチ、ブチブチと不気味な裂傷が、何本も琉衣夜の右手に走る。光の余波がどんどん強くなって、生身の身体が耐えられなくなっているのだ。
それでも、琉衣夜は諦めない。その程度では、止まる理由にはならない。
「助けたいんだろ、アイツを! もう一度笑って欲しいんだろ!? こんなくだらない終わり方じゃなくって、まるで物語のように! 涙が出るくらいに、最ッ強で最ッ高なハッピーエンドにしたいんだろ!? 違うか?」
魔導師は、世界を変える力を持つ者は、確固たる意志と共に突き進む少年の背を見て、何を思ったのだろうか。
想いを力に変える者達は、もう一度己の胸に問う。
力を手に入れて叶えたかった、自分の望みは何だったのか。自分の思い描く、理想の道は何なのか。
そして、琉衣夜は更に言葉を重ねる。「人の想いを、自らの力に変える」能力者は、自らの力で道を切り開くべく、今できる最善をやり通す。
「だったらこんなトコでグチャグチャ悩んでる暇はないだろ!? 敵だったとか、何度も斬ったとかそんな小さい事もどうでもいい! 悔しくないのかよ? これまでずっと自分達が護り続けてきたヒロインが、ぽっと出のヤツに横からかっさらわれるんだぞ!」
口から、紅い液体が漏れ出す。光はあと数ミリもない所まで来ている。
「立てよ、もう一度立ち上がれよ! これまでと違う状況なら、まるで違う結末を迎えられるかもしれないなら、その可能性に賭けてみろよ!」
右腕全体から鮮血がほとばしり、抑えきれないほどにガタガタと震え始めた。それでも、心から求める物に手を伸ばすようにしながら、言葉を締めくくる。
「ハッピーエンドはもうすぐそこなんだ! 手を伸ばせば、届くかもしれないんだ! いい加減幕引き(エンディング)にしようぜ!」
震えが全身に響く。力を抜けば、膝から落ちる。能力の処理も限界に近い。
(ああクソ……!ここで、こんな所で終わりかよ……?)
後ろで動く気配はない。二人はもう諦めてしまっていたのだろうか。彼の声は届かなかったのだろうか。二人の力を借りる事が出来なければ、ここで終わりだ。
瑠奈を、助ける事は、不可能。
冗談じゃねえぞ、と小さく呟く。それでは、結局何も変わっていない。こんな所でこのまま終わる訳にはいかない。
(どうする、どうすればいい……?)
絶体絶命の状況をひっくり返すべく頭を回転させるが、無情にも殲光は迫り、
答えは予想外の所からやってきた。
「『超えし力』!!」
それは、聞き覚えのある単語だった。それは、前に戦った魔導師の能力ではなかったか。
ガキィイイイイイイイン! という金属音と共に、右手に伝わる衝撃が緩和される。目だけを動かして隣を見ると、そこにいるのは刀を光に叩き付けた魔導師。
「美……咲……!!」
「角度を上へ! 弾きます!」
「オ、ウッ!」
返事と同時、『黒』の防御面を上に曲げる。その面をなぞって、光が上に逸れて『神殿』に激突し、掻き消える。
全身から力が抜け、思わず崩れ落ちそうになる琉衣夜に美咲が肩を貸して支え、司が小さくいくつかの単語を呟くと、淡い緑の光が琉衣夜を包み、傷を癒していった。呼吸も幾分か楽になる。
サンキュ、と言って美咲から離れようとした時、琉衣夜は見た。天使の翼の片方が巨大化し、こちらへ振り下ろされるのを。
彼女はそれに気付いていない。そして、彼の『黒』も補充が終わっておらず、万全とは言えない。
「くそっ……!」
呻き、無駄とわかりながらも力を右手に集めて受けようとした。が、それより早く、司が声を張り上げる。
「『神殿』!」
言葉と同時、琉衣夜の目の前に空間の歪みが生じ、天使の翼を一瞬だが受け止める。その隙をついて、琉衣夜と美咲は後ろへ退く。
「大丈夫か?」
「ああ。……何か随分と雰囲気が変わったな」
司の身体には、琉衣夜と相対した時よりも遙かに強大な魔力が満ち溢れ、美咲や琉衣夜に匹敵するほどの力が感じてとれた。
「天使封印の術式を応用して、対天使用の援護術式に切り替えたのさ。出力が大きすぎるから、僕が壊れないようにある程度調整はしているがね」
そして、と前置きして、司は天使を睨む。
「天使の力は強大だが、この術式を応用すれば少しの間、こういう事も出来る」
右手を上げると、天使の周りに黒に近い色合いの紅い剣が無数に現れる。天使は鬱陶しげに翼を振るったが、剣は折れたり、砕けたりする事はなく翼に突き刺さり、溶けて混じり合っていく。
「グ、グギガガ…オノレ、小細工ヲ……ッ!」
「はっ、黙れよ、元凶が……ッ!」
右手を振り下ろすと、翼に紛れ込んだ朱が鈍く輝き、天使の苦しそうな呻きが響き渡った。空間に広がる巨大な魔導陣も、展開される速度が一気に落ちる。
「魔力を分散させる呪いをたっぷりとぶち込んだ。これで少しの間は時間が稼げるだろう。……それほど長くはないだろうけどね」
琉衣夜の顔を見て、司は口元に皮肉な笑みを浮かべながら、念を押すように睨みを利かせて言ってくる。
「いいか、誤解するなよ。天使を倒して、あの子を助けるまでは共闘してやるが、その後は敵だ。僕はお前の味方じゃない。わかったな?」
「はいはい、わかってますよ。んで? この術式がなんなのかはわかるのかよ」
それに、唇の端をニヤリとつり上げながら、琉衣夜も返す。バカにするなよ、とでも言うようにフンと鼻を鳴らして、司は言う。
「この魔導、『天界』は天使達が本来住んでいる天上の世界を、この場に擬似的に生み出すためのものさ」
「何でンなモン使う必要があるんだよ。大体、アイツの火力なら俺達三人まとめて消し飛ばせるだろ」
「専門家の話は最後まで聞く事をおすすめするよ。……天使の力は確かに強大だが、あの力は本来人間が住む世界で使うようには生み出されていないのさ。なにせ、住んでる領域が違うからな。だが、天使は文字通り天の使い。人間の界に干渉する事もよくある」
「実際に、天使はソドムとゴモラを焼き払い、聖者の旅に正体を隠して同行する、など度々人間の界、地上に干渉しています。そのために、天使は地上で行動する事が出来るように、自分の力を変換する術式を持っているのですよ」
相槌を打ちながら、今得た情報を元に思考を巡らせる。
いま、この『神殿』の中に展開されているこの『天界』が完成すれば、天使は聖書に描かれているような、絶大な力を振るえるようになるらしい。
しかし、そこで一つの疑問が生じる。
「でも、アイツは今の状態でも普通に戦えてるよな。今の話だと、地上では力を使えないんだろ。なのに、何でアイツはあんな力を使えてるんだよ」
今の司の話を聞くと、天使は通常地上では力を使えないという風に聞こえる。しかし、天使は強大な力で琉衣夜を圧倒していた。アレが天使の力でないなら、あの力はどこから捻り出されたモノなのか。
「それは……そうだな、こう言えばわかるか。交流で動く機器に、直流を無理やり繋げたらどうなると思う? 電気はあるから動くかもしれないが、負荷で壊れるだろう? それと同じだ。アレは、天使にとっても上策ではないが、自衛のためなら止む無しってヤツだ」
「ってことは、だ……」
さらに考えを深めながら、空間の文字やグラフを指さす。
「コレに干渉して誤作動を起こせば、アイツにとっても相当痛いはずだよな?」
「簡単に言ってくれるがな、何を考えてるんだ」
疑わしげな目で見てくる司に、琉衣夜は口元の笑みを、意地悪そうにニイッと深くする。それに美咲と司は顔を見合わせるが、構わず琉衣夜は言う。
「いくつか埋めなきゃいけない穴はあるし、そもそも策として成立してるのかって話しもあるけどな。どうする、聞くか?」
「……一応聞いてみようか」
そう来なくちゃ、と琉衣夜は頭の中で立てていた作戦を話し始める。書物と、瑠奈の話から得たほんの僅かな知識と、きちんとした仕組みなんて全くわからない、いつ暴走するかもわからない不安定な能力をフルに使って、最凶最悪最低のシナリオからほんの少しでも未来を好転させるために考えた、ボロボロの拙い作戦を。
司の表情が、疑わしげなモノからもはや呆れて何も言えない、というように変わり、美咲はこれ以上ないほど眉間に深いしわを作って、どうしたモノかとうんうん唸っている。
「……とまあこんな感じだけど、どうよ?」
そう聞くと、二人はウンザリしたように顔を合わせて、一つとても深いため息を同時に吐いた。司は呆れた顔のまま、こちらを向く。
「一つ聞くけどさ、それはそもそも策と言えるのか?」
「言えねぇな。何せこれは、そもそも俺の素人考えで膨らませた、妄想に近いレベルの考えだからな!」
開き直りに近い勢いで堂々と言い切る琉衣夜に、更に濃密になったウンザリ&聞いて損したムードが襲いかかった。それに琉衣夜は苦笑した。
相手の反応に、ではなく自分が話した作戦の完成度の低さに、だ。
自分で考えておいて何だが、それほどに彼の立てた作戦は穴だらけだった。相手に通用するかもわからない。そもそも、琉衣夜は魔導というイレギュラーな法則が適用される戦闘に慣れていないおまけに、三人の力を上手く組み合わせても天使の数%程度とようやっと互角。
状況がシビアすぎる上に、敵の魔導が完成しきるまで、という制限時間のオマケまで付いてきているのだ。それをひっくり返すとなると、当然夢物語と言うのすらおこがましいレベルの難易度になってしまう。
「まあ、別に俺の無謀に付き合ってもらわなきゃいけない義理も、義務もないけどな。一人でどうにかするさ」
今から作戦会議をする余裕なんて無いし、二人を説得している時間もない。人手は三人でも足りないが、無いモノに気を取られてる余裕もないのだ。琉衣夜としても、今回の作戦にはかなり不満が残るしもう少し煮詰めて良いモノに出来ないものか、と考えたりもしたが、無いモノをねだっても仕方がない。
二人に背を向けて、一人でも作戦を実行すべく全身に『黒』を纏う。あっという間に力は補充され、行動を始めようとした。
瞬間、後頭部にぽかん、という間抜けな衝撃が伝わった。ダメージはないが、マゾではない琉衣夜にとって気持ちの良いモノではないので、顔をしかめながらもう一度振り向く。
「お前一人で行かせられるか、ド素人。お前が死ぬのは勝手だがな、そのせいで瑠奈が泣くような事になったら、こっちが困るんだよ」
心底嫌そうな顔で告げる司。ギリギリ、と奥歯を噛み締めるような音が、琉衣夜の耳にまで届いた。司の表情に苦笑して、美咲の方を見る。
「良いのか? 成功する保証なんて全くないぞ」
「良いも何もないでしょう? これまでの私達の方法が通用しないとなれば、あなたの言った作戦しかないんですから。少なくとも、私達はこの場で何も作戦を思いつきませんでした。なら……」
困ったような顔で半笑いしながら、美咲は右手に持っていた刀を左手に持ち替え、天使を注視しながら、続ける。
「……今の私たちに出来る事は、あなたの言う穴だらけの作戦を知識と経験で埋めて、少しでも成功率を引き上げる事ぐらいでしょうか。それで、埋めなければならない穴というのは何でしょうか?」
天使から目を逸らさない司も、こちらの話はきちんと聞いてくれているようだ。本当に悪いな、と言って、頭の中にくすぶっていた疑問を口に出していく。
魔導について、天使の力について。
二人は天使から気を外さずに、琉衣夜の疑問に一つ一つ丁寧に解を出していく。その答えから派生した質問にも、少し考えてから明確な答えを出す。
十分前まで敵だった人間に、自分達の知識を惜しみなく共有するのは、そんな小さな事情なんてどうでもいい、と切り捨てられるほど大きい何かがあるから。
司がどう思っているのかはわからないし、美咲が何を考えているのかもわからない。この二人にとっても、琉衣夜が何を想い、どう動こうとしているか、なんて完璧にはわかっていないのだろう。
それでも、三人は一つの共通した未来のために、全力で突き進む。一つの、たった一人の笑顔を手に入れるために。
そのためなら、立ち位置の違いや個人的なプライドなんて関係ない。
「……ここまで、だな。タイムリミットだ」
司の言葉で、琉衣夜は改めて、天使の方を見やる。天使の翼に混じり込んでいた赤黒い呪いは、大半がもう薄れて消えかかっている。今こうして見ている瞬間にも、朱の筋が一本、また一本と消えていく。
「最終確認するぜ。お前ら二人がオフェンス、俺が切り札の仕込みだが……どのくらい時間を稼げる?」
「天使相手では、本気で向かわないと時間稼ぎすらままならない訳だが……そうだな、一分は確約しよう。ただし、その後は期待するなよ。『神殿』と、天使封印の応用術式にも、限界がある」
「オッケ、死なないようにしてくれよ」
「善処しよう」
「あなたの方も気を付けて」
三人は顔を見合わせ一度頷く。作戦は整った。後は個々の役割を果たすだけだ。
天使へと向き直り、琉衣夜は笑みを浮かべる。それは、瑠奈に見せた柔らかい微笑ではなく、かといって追いつめられたような笑いでもない。
「こっからは一方通行じゃねぇ……」
それに合う表現をするならば、邪笑。地へと堕ちた者が、天にいる者を引きずりおろそうとする時に浮かべるような、凄絶な笑み。
「人の大事なモンに手出したんだ、テメェにも命賭けてもらわねぇと、ワリに合わないよなぁ!!」
咆哮に呼応して、彼の全身を再び『黒』が覆い目には見えない、しかし肌で感じられるような暴力的な何かが渦を巻いて、彼に吸収されていく。
対し、その言葉を否定するように天使の翼が一際強く輝いた。僅かに残っていた紅の呪いを全て吹き飛ばし、翼が一気に5メートル程まで広がる。
同時、琉衣夜の背から音もなく悪意を無理やりに固めて生み出された一対の翼が、禍々しい黒の光を放ちながら展開される。
互いの戦闘準備は整い、そして双方に退く理由は存在しない。両足に力を籠め、爆音と共に琉衣夜が前に出る。その音を合図に魔導師が、天使が動く。
そして。
このくだらない物語に幕を引くための、最後の戦いが始まった。




