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天使は涙を浮かべ

第三章です!ついに主人公の能力が少しだけ出てきます!

 琉衣夜の全身の傷は三日も経つと、完全に治っていた。元々深い傷でもなかったのだが治るまで瑠奈が私のせいだと言って、明らかに過保護な看病をしてくるので学校でこれ以上色々と妙な噂が流れて欲しくない琉衣夜にとって、ある種爆弾を抱えているような三日間だった。

 腕や脚を動かす。引きつるような痛みも、かさぶた特有の痒みも感じない。

 よし、と頷くと、寝間着からTシャツズボンに着替える。日曜なので買い物ついでに街を散策することになった。

 ちなみに琉衣夜が誘った訳ではない。瑠奈が木曜日にこう言いだしたのだ。

「ね、ねえ琉衣夜。日曜日、どこか連れて行ってくれない?」

「ん? 図書館とか以外でってコトか?」

「そう」

「そうだなあ……。何か希望は?」

「えっ!?」

「いや、そういう所に行きたいんだよってことなんだけど」

「え、えっと……る、琉衣夜と一緒だったらど、どこでもいいよ……?」

「へ、なんて? ってか何でお前は顔赤くしてんの?」

「な、何でもないッ! 何にも言ってないし、ちょっと暑いだけっ!!」

「そ、そうか……。まあ、何か考えとくわ。つってもあんま期待はすんなよ」

「うん、ありがとっ!」

 とまあこんな会話が交わされていたのだ。

「ル〜イヤ〜。準備できたよ〜」

「おう、今行く」

 浴室で着替え終わった琉衣夜がリビングに戻ると、出会った時の服でも制服でもなく、白のブラウスとスカートを来た瑠奈が待っていた。

「どうかな?」

 少し恥ずかしそうに頬を染めながら、聞いてくる。

「かわいい、と思うぞ。どうしたんだよその服」

「エヘヘ、龍音ちゃんに借りたの」

 かわいいと言われたのでよほど嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべている。だが、その言葉に琉衣夜は全身に鳥肌が立つのを感じた。

「お、まえ、龍音ってもしかして玉置? 玉置龍音か?」

「え? そうだけど」

「マジか……。ちなみに何て言って借りた?」

「琉衣夜とお出かけするんだけど、服貸してくれない? って」

「殺される! 絶対次に会った時に襲われるパターンじゃないか!」

 琉衣夜は本気で頭を抱えた。恐らく瑠奈には笑顔で貸したのだろうが、その笑顔の裏には阿修羅が隠れている。この前、瑠奈が彼の家に泊まっているのがバれた時も、一番しつこかったのは彼女だった。

 急に明日から学校に行きたくなくなった琉衣夜であった。

「え、え〜とマズかった、かな……?」

 瑠奈が不安そうに聞いてくる。それを見て、琉衣夜は意識を切り替える。

 折角の休日なのだ。そうだ、今からどうやって楽しむかを考えろ。明日の事なんて考えんな!

「よ〜し、今日は遊びまくるぞ! オ〜!」

「え!? ど、どうしたの琉衣夜?」

 ある種の悟りを開いた(人によってヤケクソとも言うかもしれない)琉衣夜のテンションに、瑠奈は顔が引きつるのを感じた。



 結局、二人は日が暮れるまで遊び倒した。

 ゲーセンで、格ゲーやレーシングゲームで勝負した。本屋では、瑠奈が以外にもホラーやサスペンス系が苦手だとわかった。

 ファミレスで休憩していると、偶然瑠奈にあってその場で一戦やらかした。そのせいで補導されそうになったので、全力で逃げた。

「だあ〜……疲れた」

 大通りから少し離れた公園のベンチで、二人はグッタリしていた。

「ホント。疲れたね〜」

 瑠奈も呟く。小さく龍音のヤツふざけやがって、と言うと、瑠奈は苦笑しながらこちらを見る。

「でも、すごい楽しかったよ。ありがと、琉衣夜」

 オウ、とだけ答える。ダラ〜ッと力を抜いて手足を伸ばす。

 そんな状態の琉衣夜を見て瑠奈はクスリと微笑み、立ち上がって公園を歩き出す。薄目を開いて、それをコッソリ見つめる。

 夕日の中でフワリと歩く瑠奈は紅の光の中でも、いや光の中でこそ存在感を放つ。白い服は光を反射して輝き、茶色の髪は光を受けて煌めいていた。

(あの夢の女の子を成長させたら、あんな感じなのかね)

 唐突に思い出す。三日前に見た夢。

 あまりにもファンタジー過ぎて赤面してしまいそうな夢だったが、それと同じくらいに目の前の光景は幻想的だった。

 瑠奈がこちらの視線に気付いたのか、こっちを向き微笑む。

(綺麗だな……)

 琉衣夜も笑みを返そうとして、やめる。

 三日前に言った事に嘘はない。だが、それも彼女の『友達』が見つかるまでだ。

 歳は同じくらいと言っていたので、ウチの学校で合っていたら千五百分の一。

 この一週間で高校二年生は調べ終わったらしいので、千分の一。時間がかかったとしても一ヶ月で見つかるだろう。

 自分の役目はそこまで。

 だから、だろうか。必要以上に近寄るなと理性が語る。これ以上近付いて無駄に傷付く必要はない、と。

 女々しいと自分でも思う。が、一度傷付いたせいか琉衣夜の心は危険を感じるとそれを回避する癖が付いてしまっていた。

「どうしたの? 顔そんなにしかめて」

「何でもねえよ」

 顔を背け、ベンチから何ともないような仕草で立ち上がる。

「帰ろうぜ」

「え〜、もうちょっと遊んで帰ろうよ」

「好きにしろよ。俺は帰る」

 そういって一人で帰り始める。後ろから待って、と言いながら、付いてくる足音が聞こえる。

「急にどうしたの?」

 琉衣夜の斜め後ろまで小走りで追いついた瑠奈は、不思議そうに聞く。

「何でもねえよ」

「何か気に障ったなら謝るけど。何でそんな不機嫌そうなの?」

「気に障ってなんかねえし、不機嫌でもねえよ」

「じゃあそういうフリして私を困らせてる? 琉衣夜、そういうトコは嫌いかも」

「……元々好きでもないくせに、そういう台詞吐くのはやめとけ」

 その言葉に瑠奈の顔が歪む。だが位置的関係から琉衣夜には見えていない。

 いきなり訪れた沈黙に不穏な空気を感じた琉衣夜が振り返る。と、そこにはかなり傷付いたような表情の瑠奈が目の端に涙を浮かべて立っていた。

「…………」

「え、え〜と瑠奈? 瑠奈さん?」

 頬が意識もしていないのにヒクヒクと引きつるのを感じる。何でだろう、とても嫌な予感がする。アレ、何だろう。俺、今もしかして地雷踏んだ?

「琉衣夜」

 感情が籠もっていない、平坦な声で呼ばれる。とりあえずハイ、と答えた。

「だいっ嫌いっ!!」

 琉衣夜を思い切り突き飛ばして、瑠奈は一人でさっさと帰っていってしまった。無防備な所を全力で押された琉衣夜は、アスファルトの上で尻餅を付いていた。

「痛ぇ……」

 ボヤきながらも、今のは全面的に弁護の余地無しで俺が悪かったなと反省する。

 ちょっとしたくだらない考えで、今日一日の楽しい雰囲気をぶち壊すだけじゃなく、ずっと楽しみにしていた彼女を傷付けてしまった。

 それに、最初から友達を見つけるか、寮の準備が整うまでの暫定的な処置として一緒に住んでいるに過ぎないのだ。

 その状況に当てはめると、彼の思考はただの独り善がり以外の何物でもない。

(帰ってから謝ろう。今回は俺が悪い)

 そう思いながら信号を渡ろうと

「ん?」

 何かおかしい。携帯をとりだして時間を確認すると現在午後七時ジャストだった。片側三車線もある大通りに出ているのに。

 誰もいない。

 道路には車が一台も走ってないし、いつも狭いと思いながら通る歩道にも子供一人居ない。

 それは違和感を通り越して、異常として本能が警告を告げる。

 しかも、この感覚には覚えがある。自分だけが一人取り残されたような、この感覚を操るのは……

「『人払い』の術式を組んでいるだけですよ」

 背後からかかる女の声。

 琉衣夜はそれに敏感に反応し、即座に振り返る。

「人の意識に干渉して、この場から注意を逸らす魔導。司に聞いていたでしょう?まあ、大半の人間は店の中にいるでしょう」

 そこに立っているのは一人の女。少し派手目なTシャツにジーンズという普通の服装だが、槍のように鋭い視線と氷のように冷ややかな存在感を放つ左手の日本刀がその普通をぶち壊していた。

 琉衣夜の直感がこの女はヤバイと叫ぶ。理性・本能・経験、それらがありとあらゆる事態を想定させながら全身に危険信号を伝達する。瑠奈にこの三日間教えてもらっていた、魔導に関する知識がこんなにすぐに役に立つとは思いもしなかった。

「テメエは、」

「栗原美咲、と申します。以後、お見知り置きを」

 よく言うぜ、と琉衣夜は内心舌を打つ。まるで世間話でもするように気軽に話しかけてくるが、言葉の調子と田舎の農道にでもいるような静寂が余計に緊張を高ぶらせる。

「お前も瑠奈を狙う魔導師の一人、ってワケか」

「……?」

 美咲は一瞬だけ眉をひそめた。

「ああ、彼女から聞いたのですね」

 その言葉を聞いた瞬間、琉衣夜は身構える。いつも通りのケンカ慣れした構えだが、よく見ると身体が震えていた。何せ、目の前にいるのは魔導なんて得体の知れない力を操る未知数の敵。

 既に一度司を倒してはいるが、アレは琉衣夜が普通の高校生よりは場慣れしていた事と、司が彼を侮っていた事が重なって生まれた偶然の勝利。そもそも強いと言っても基本はただの高校生。

 怖くない訳がない。

 そんな琉衣夜をつまらなそうに見つめ、美咲は言う。

「率直に言いますが、あなたでは私に触れる事すら出来ないでしょう。何の目的があって、あの子があなたを巻き込んだのかは知りませんが……」

 シン、と世界が音を無くす。

「先に言います。チカラを解放する前に彼女を回収したいのですが」

 静寂さえも威圧へと転じ、美咲は問う。身体の震えがさらに強くなり、もう逃げ出したいという気持ちが、心の隅に湧き上がる。

「……イヤだ、っつったら?」

 だが、退かない。退く理由も、意味も彼には存在しない。するはずがない。

 その琉衣夜を、もう一度つまらなそうに一瞥し、美咲は言う。

「ならば、チカラを使って、彼女を回収するまで」

 静寂を切り裂いて、ビュゴオ!! という音と共に暴風が吹き荒れた。

 反射的に、風が吹いてきた方を見てしまった。背後、琉衣夜の住むマンションの方角に、何かに操られたようなその暴風は集まっていた。

 琉衣夜はそれを知っている。その風を操る魔導師の名も。

「瑠奈……ッ!」

 故に一瞬だけ、確かな隙が生まれた。だから気付くのが遅れた。目の前の魔導師が動いた事に。

「な……ッ!」

 気付けば美咲は目の前まで接近していた。

 気が逸れていたのは二秒にも満たない。なのに、この女は十数メートルはあった間合いを一気に詰めてきた。

 とっさに拳を放つ。だが、

「遅い」

 鈍い音と共に美咲の膝が腹に突き刺さる。琉衣夜が自分の身体が宙に浮くのを感じたと同時、側頭部を鞘で殴り飛ばされる。空中で一回転して、受け身を取る事も出来ずに地面に叩き付けられる。

「やめてください。戦場で敵から目を離せば、示されるのは死のみです」

 痛む身体に力を込めて無理矢理に立ち上がる。頭を殴られたせいか視界が少しふらつくが、動く事は出来る。

「再度問います」

 美咲の声は淀みない。この程度の動きで驚くなと言うように。

「チカラを解放する前に、彼女を回収したいのですが」

「う、るせえ……よ!」

 地を蹴り、全力で駆ける。二人の間は三メートルと開いていない。一秒もかからず飛び込める。

 ……はずだった。

「何度でも問います」

 瞬! と美咲の身体がブレたように消え、ドン! と腹に今度は左の拳が叩き込まれる。さらにいつの間に持ち替えたのか、右手で日本刀を鞘ごと薙いでくる。再び後ろに吹っ飛ばされるが、今度は受け身を取るだけの余裕があった。

「……今のは」

 払った時の感触が想像とは違う事に、美咲は不審そうに眉をひそめる。今の一撃が腹に入ったなら、肋骨の二・三本が折れていてもおかしくはないが……。

 その疑問はすぐに払拭された。

「ああ、なるほど。今の一撃は腕で防いだのですね」

 刀が腹に直撃する寸前に、腹の前で腕を交差させて防御したのだ。あのとっさに良くできたと、琉衣夜本人が一番驚いている。

 だがそんな事が出来ても、美咲に拳一つ入れる事が出来ない。

「クソッ、魔導ってなそこまで何でもアリなのかよ」

 女性とは、いや普通の人間とは思えないほどの速度。普通の女性の身体で出来る訳がない。明らかに魔導で補強している、と琉衣夜はアタリをつけていた。

「何を勘違いをしているのですか」

 美咲は刀を左に持ち直しながら言う。

「私は魔導なんて使っていません。これは魔導ではなく形質オプティムですよ」

「オプティム……ッ!嘘だろ……」

 琉衣夜は瑠奈が言っていた事を思い出す。

「いい、琉衣夜? 私たち魔導師が使う異能の力は大きく二つに分かれるの。一つは『魔導』。もう一つは……」

 『形質』

 魔導は才能によって多少の差こそあれど、努力によってある程度までは習得できる。だが形質は努力ではなく確率で発現するモノらしい。

 いわゆる天からの才という意味での、天才だ。

 見た目は両方同じだが、形質を持つ魔導師は危険度が上がる。何故なら……

「ここが一番大事。形質と魔導は併用する事が出来るの」

 形質は、足は速い、目が良いなどといった個人の性能の一つで、少し意識するだけで発動する事が出来る。足が速い人間は少し力を入れれば早く走れるように、目が良い人間は目を凝らせば遠くをアッサリと見れるように。

 形質は魔導と違って発動に至るまでのプロセスを殆ど必要としない。故に魔導の障害になりえない。

「私の形質は身体能力・神経伝達などの倍加。今までは倍に設定していましたが、最大で千倍にまで引き上げる事が出来ます。『超えしメガ』、なんて呼ぶ人もいるらしいですね」

 琉衣夜は自分の身体から力が抜けるのを感じた。倍になる、それだけであれだけの差があったのに、さらにその五百倍まで引き上げる事が出来ると言われて、勝てると思うヤツはいないだろう。

「加えて」

 チラリ、と美咲は自分の刀を見やる。

「私の刀、『雷斬』はお飾りではありません。例え体技で私を凌いだ所で、その先には『真撃』が待っています」

 身体の震えが自分の意志では止められないほどに強くなってくる。

「何より、私は元々の『超えし力』すら殆ど使っていません」

 何となくはわかっていた。

 コイツは司とは違う。基礎の基礎、土台の土台から琉衣夜とは作りが違う。

 恐らく、いやどこにも勝てる要素なんてない。世界最高のスパコンにシミュレートさせても、琉衣夜の勝利確率は0だろう。

「そもそも何故あなたはそうまでして彼女を庇うのですか」

「……はっ、くだらねえな。ぶっ飛んだ力を持ってるから、アイツは人間じゃなくて化物だってか?」

「いいえ。力があるから、なんて理由で私たちは彼女を追いません」

 美咲の表情が消える。

「彼女は根本から、人間じゃありませんよ」

 幻聴だと思った。だが、いつまで経ってもその言葉は耳から離れなかった。

 そして言葉の意味がわかっても、琉衣夜の意識は否定から思考を始めた。

「何寝ぼけた事を言ってるんだか。どこからどう見てもアイツは人間だろうが」

「彼女にはそういう記憶しかないでしょうから。普通以上の力を持った魔導師、たったそれだけの人間に、組織が力を振るうと思いますか?」

 確かに、言っている事の筋は通っている。普通の魔導師よりも持っている力が強いとは言え、果たしてそれを回収するだけのために司や美咲といった強い力を持つ魔導師を抱える組織がリスクを取ってまで回収しに来るだろうか。

「何言ってんだっつの。大体テメエが言ってる事の根拠は何だよ!」

 あくまでも否定的な態度を取る琉衣夜に、美咲は無表情のまま言う。

「私と司が所属しているのは……罪咎の巣」

「なっ……?」

「瑠奈は、私たちの友人なのですよ」



「どういうことだ?」

「……瑠奈本人は普通の人間です。ですが、瑠奈の中にはあるモノが宿っているんですよ。間違って触れれば、国の一つ二つがアッサリと消えるレベルのモノが」

「何だよ、それ」

「私たち魔導師が『天使』と呼ぶモノです。天使は知っていますか?」

「……ゲームとか漫画でなら」

「恐らくそのイメージとは大分かけ離れていると思いますが。『天使』と呼ばれる神話級の力を持つ因子、その中でも特に強力な『大天使』と呼ばれる四種の内の一つ『神のウリエル』を宿した者。それが瑠奈です」

 美咲は疲れたような声で続ける。

「私と司があの子にあったのは六年前。最初はただの監視を兼ねた護衛だったんですが・・・」

 美咲は一瞬笑みを零した。二度と戻らない過去を思い返すように。

 だが、それはすぐに疲れ切ったように歪む。

「ですが彼女の、大天使の力は一つ二つの魔導の封印では押さえ込めない。今は七つの魔導を併用する事で対天使の魔導式を作っていますが、式そのものを一年ごとに上書きしなければならないんですよ」

「ちょ、ちょっと待てよ。一年ごとに魔導で調整する必要があるなら、何でアイツはお前達から逃げてんだよ。お前らも敵として追いかける必要はないだろ。何でそんな面倒な方法してんだ」

 そう、そこが理解できない。彼女たちのやり方は単にお互いを傷付けるだけのように見える。事実、瑠奈は二人を敵としか見ていない。

「神話級の『大天使バケモノ』を彼女は力尽くで押し殺しています。……その衝撃を受けてしまうのは、宿主の瑠奈です。対大天使の魔導の影響で、瑠奈は記憶を消されてしまうんですよ」

 呼吸が死んだ。全身の激痛が一気に退いた気さえした。まるで身体から心が離れたように。

 信じたくない、認めたくない。琉衣夜の脳は、それが誤りである事を証明しようとフル回転する。

「う、嘘だ。俺は、アイツがお前達と何度も戦ってるって聞いたぞ。それってつまり……」

「そう思わされているだけですよ。……魔導で封印を施す事で消えてしまう記憶の代わりに、その記憶を刷り込みましたから」

 どうやって、と聞く必要はないだろう。

 この二人は、国中で最も魔導に長けた者が集まる組織に所属している。それを使えば、そんな事まで出来てしまうのだろう。

「だったら、その魔導で瑠奈の記憶を取り戻せば……」

「不可能です。彼女の内面に手を出そうとすると、それを察知して天使が目覚めかねないんですよ。正直、記憶の刷り込みが限界ですね」

 予想は付いていた。もし、それが出来ているなら彼女たちはこんな方法を選ばないだろう。

「あの子のあの性格にとって、別れはただ辛いものでしかない。なら、私たちが元々友達だったという記憶さえなければ、その辛さはなくなるでしょう」

 だから、敵になった。

 どこまでも残酷な幸福であいを与えて地獄のような最後バッドエンドにするよりも。

 どこまでも冷酷な敵になる事で、瑠奈の痛み(さいご)を少しでも軽くする事を選んだ。

「……いつまで、なんだ」

 否定ではなく質問をしてしまう。心のどこかで認めてしまったのかもしれない。

「保って二日。魔導の上書きはきっかり一年周期で行わなければなりませんから。今から三回目の午前零時。それと同時に私たちは上書きを行います」

 琉衣夜は無意識のうちに強く奥歯を噛み締めていた。恐らく、彼女の語った言葉は全て本当だ。

 でなければこんな話はせずとも彼を殺して瑠奈の元へいくのが一番速い。そうしないのは美咲の優しさか、それとも邪魔される可能性を一%でもなくしたいのか。

 どちらにしても同じ事だ。

 瑠奈の制限時間リミットが二日間だという事は何も変わらない。

「もうわかったでしょう」

 美咲の目には涙すらない。そこにあるのは、そんなモノは捨ててでも、自分たちの出来る事をやり通す者の目。

「私たちは瑠奈に害を為すつもりはありません。いえ、むしろ私たちでなければ彼女を救う事は出来ない」

 琉衣夜は下を向いてしまう。悔しいが、その通りだ。

 自分に『大天使』なんてものをどうにかする力はない。あるのはケンカで鍛えた身体と、本と瑠奈から得た知識。だが、その両方共が瑠奈を救うには決定的に足りない。

 自分では、彼女を助ける事は出来ない。

「それにあなたが彼女をどんなにボロボロになりながら護っても、三日後には全てゼロに還ります。そうなれば、あなたの事も覚えていませんよ」

 美咲の声はむしろ琉衣夜を憐れむように優しい。だが、その言葉が琉衣夜の中で引っかかる。

「そんな彼女を助けた所で、あなたには何の益もありませんよ」

 引っかかりは違和感に変わり、その言葉を理解すると共に弾けた。

「……っけんな」

「? 聞こえませんが」

美咲が聞いた瞬間、琉衣夜は顔を上げて吼える。

「ふざけんな、っつってんだよ! このクソやローが!」

 いきなりの暴言に、美咲が顔をしかめるのも気にせず続ける。

「保って二日? 全ての記憶が消える? 俺の事も覚えていない?だから何だってんだよ!」

 ボロボロで今にも力が抜けて崩れ落ちそうな脚に、無理やり活を入れて走り、拳を振るう。もちろん簡単に避けられてしまうが、琉衣夜は止まらずさらに一歩前に出る。

「助けても何の益もない!? 元々アイツにそんなん要求してねえし、そもそもその程度なら、アイツと関わってねえっつうの!」

 全身が燃えるような激痛を発する。琉衣夜はそれを少し顔をしかめるだけで無視し、無謀としか言えない突撃を繰り返す。

 美咲は驚きを通り越して呆れとも、困惑とも言える表情を浮かべながらその全てをかわす。

「生憎とそんなくだらないどうでもいい理由で一緒にいるんだったら、とっくに見捨ててるのかもしれねえけどな。生憎と、アイツが化け物だろうが天使だろうが悪魔だろうが、記憶喪失だろうが関係ない!」

 頭を狙った鞘がとっさに振り上げた左腕と激突し、ゴギン! という凄まじい音が響く。

 だが、琉衣夜はもう顔すらしかめずに、美咲の懐に潜り込む。

 それに、美咲の顔が驚愕に染まった。

「アイツの都合なんて知るか。俺が一緒にいたいから、傍にいる。それだけだっつの!」

 言葉と共に拳を放つ。

 美咲は回避しようとしたが、一歩遅い。美咲の顎に直撃し、衝撃で大きく仰け反る。

 だが、それだけだった。

 ダメージは無いに等しく、むしろ殴った琉衣夜の腕がミシミシと軋むように痛んで、鮮血が滲みだしていた。

「退くつもりは?」

 これが最後通告だというように確認してくる美咲。

 聞かれるまでも無くやる事など決まっている。無言で拳を握り、構える。

 そして、一方通行ワンサイドゲームが始まった。

 拳が、蹴りが、日本刀が風を切り裂いて襲いかかってくる。琉衣夜に出来るのは、出来る限りで避ける事、衝撃を少しでも殺す事。そして、どんなにやられても立ち上がる事だけだった。

 それは、とても小さな反抗だった。

 普通なら立ち上がれないような、気絶してもおかしくない一撃を食らっても、立ち上がるだけで全身が砕けそうな痛みを発するようになっても、

 立ち上がる。

 十回倒れても、二十回吹き飛ばされても、這い上がる。

 恐ろしく異様な光景だった。

 圧倒的に優位であるはずの美咲が、息を呑むほどに。

 まるで、動く死体リビングデッドのように頭を、身体をふらつかせながら、立ち上がってくるその様は、正気のものとは思えないような光景だった。

 それでも、限界が訪れた。

 いや限界など、とうの昔に越えていた。最後通告のあと、一回目に殴り飛ばされた時点で、意識がトんでいても何らおかしくなかった。

 美咲は、むしろその一撃で終わらせるために、殺さないまでも普通ならば立ち上がれないような威力で放っていた。それでも、意識を絶対に手放さず、動くだけで寿命が削られそうな体で立ち上がっていく。

 だがそれもお終いだった。

 心は立ちたいと叫んでいるのに、身体の方はどんなに力を込めても、芋虫のように指先をモゾリと動かすのが限界だった。

「もう、いいでしょう……?」

 傷付いているのは琉衣夜なのに、自分が傷付けられているような苦しげな声で美咲が言うのが微かに聞こえた。

「罪咎の巣の中でも五指に入るほどの魔導師相手に、素人がそこまで粘ったのですから。瑠奈もあなたを責めたりは……」

 それはそうだろう。

 そもそも瑠奈はもしも琉衣夜が一瞬も戦わずに降参したとしても、責めたりはしないだろう。

 でも、問題はそこじゃない。

 そんな事は、些末な事だ。琉衣夜にとって、それは考えるべきものではない。そもそも、責められる、責められないの話で琉衣夜はここに立っているのではないのだから。

 ここで琉衣夜が倒れれば瑠奈はすぐに回収されてしまう。瑠奈が罪咎の巣の中でどういう扱いを受けているのかは知らないが、少なくともあの日常はもう二度と戻らない。

 瑠奈のあの笑顔も、あの温もりも、全てが消えてしまう。

 そして、恐らくもう二度と取り戻す事は出来ない。

 それが絶対に嫌だった。考えるだけでも吐き気がしそうなほどにイヤだった。

 信じたくなかった。認めたくなかった。諦めたくなかった。

 そして何よりも。

 失いたくない。

 どんなにボロボロになったとしても構わない。どんなに傷付いたってどうでもいい。

 どんな事があっても、どんな事をしてでも、あの日々を護りたい。

 しかし、現実はそれほど甘くはない。自分の隣に彼女はおらず、目の前の敵を倒す事も出来ず。

 三日前の約束さえ貫ききれない。

 目の端に涙が滲む。唇を、血が出るほどに強く噛んでも止まらないくらいに。

 ザッザッと音を立てて、美咲が近付いてくる。それを知覚する事が出来ても、反応する事が出来ない。軽く蹴られて、仰向けにされる。

 美咲が、鞘に収められたままの刀を槍のように構えているのが見えた。

「……これで終わりにしましょう」

(クソが……ッ!こんなトコでリタイアなんて冗談じゃ……)

 力が欲しい。

 そんな想いが思考を埋め尽くす。

 美咲を倒すための力が。瑠奈を護るための力が。そんな都合の良い力が欲しい。

 だが、思った所で、現実は変わらない。

(チクショウ……情けねぇ……)

 美咲の身体に力が籠もり、ビュンと言う風斬り音を聞いた瞬間、

 意識が真っ白に弾けた。



 ガギン!! という衝撃が手に伝わり、手からすっぽ抜けた刀が、何回か回転して美咲の背後に落ちる。

 だが、美咲は刀を取りに行かなかった。いや、行けなかった。目の前で倒れている少年から、目を離す事が出来なかった。

 美咲が殴ろうとした部位、少年の額の部分に黒い何かが現れていた。一見すると、戦闘中に付いた汚れの一つに見えなくもないが、それこそが美咲の刀を弾いた原因だった。

 その黒い物がグネグネとスライムのように蠢き、少し大きさを増した瞬間。

 膨れ上がる殺気を感じ、美咲は本能的に全力で後方に跳んだ。

(……何だ、アレは!?)

 死ななかったのは、奇跡と言って良い。美咲が自分の身体を見やると、腹の辺りに十センチほどの傷が出来て、血がTシャツに滲みだしていた。

 一気に出力を上げたために不安定だったが、『越えし力』で限界まで身体能力と身体硬度を引き上げたのにコレだ。コンマ五秒飛び退くのが遅れていたら、確実に上下に両断されていた。

 刀を拾い、いつでも抜刀できるように構えながら前を見る。

 気絶しているはずの琉衣夜が、重力など関係ないような滑らかな、しかし不気味な動きで起き上がる。全身に力は入っておらず、両手はダラリと下げられ、顔も伏せたまま。

「まだ続けますか」

 背筋に感じる、嫌な雰囲気を警戒しながら問おうとした刹那。

 場を覆う空気が急変した。

「!?」

 困惑すると同時に巨大な、かつ膨大な黒い魔力が琉衣夜を中心に渦を巻く。時に凝縮し、時に拡散しながら、どんどん、次から次へと彼の身体に吸収されていく。

 魔力を吸収しきった琉衣夜が、耳が痛くなるような静寂と共に顔を上げる。音も無く琉衣夜の背から顕れるのは三対の小さな翼。

 全身を襲う悪寒が、強さを増していくのを感じる。

 ボンヤリと空虚な瞳でこちらを見つめていた琉衣夜が、突然天に咆哮する。背の翼がボン!! と爆発じみた音と魔力の暴風を撒き散らしながら、十メートル近くまで一気に巨大化する。

「く……ッ!」

 風を右手で防ぎ、視界を確保しながら美咲は琉衣夜の翼を観察する。

 それは翼と言うよりも、魔力の噴射と言う方が近い。それを他の言葉で表現しろ、と言われたら美咲は迷わずこう答える。

 何者にも犯されていない、何物にも汚されていない、『あくい』。墨よりも濃厚で、漆黒よりも清純な悪意くろ

 絶望・憤怒・悲哀・傲慢・嫉妬・怠惰…………ありとあらゆるどす黒い感情を秘めた魔力が、彼の背から翼という形を持って顕現している。

「マ、モル……」

 琉衣夜の口から小さな、しかし到底彼のものとは思えないような声が発された。

「護る、主、最優先、発動、力、殲滅、敵、同義、全て」

 一言一言が区切られた、機械にプログラムされたような音声が響き渡る。

 それはまるで、神によって作られた天の使いのように。

 琉衣夜の目が美咲を捉えた。すると、彼の口がニイッと裂けるように笑みの形を作り、

「ア、アアアアアアアアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」

 狂笑。同時に琉衣夜の六枚の翼の内四枚が、美咲を狙って放たれる。

 動きそのものは単調。だが速度が音速を超えている時点で、それは立派な兵器になる。

 美咲は全身に力を込めて身を屈め、四枚が近付いた瞬間。

 ヒュウン! と言う拍子抜けする音と共に四枚の翼全てが叩き斬られた。

 響いた音はただ一度。しかし、音など遙かに凌駕した剣閃は、四度正確に振るわれ、圧縮された『黒』を引き裂く。

 ギョロリと琉衣夜の瞳が、美咲を観察する。あっという間に根本から修復された翼が今度は前後左右から襲いかかる。

 だが、

「舐めているのですか」

 斬! と黒翼が再び斬り捨てられる。全てを、同時に叩き斬ったと言っても良い速度で。

「そもそも、私の力はこれが底ではありません。これはまだ『超えし力』のレベル。最初の攻撃の方がまだ見られた速度でしたが」

 挑発するように言い捨てる。

 その呼吸はまるで乱れていない。『超えし力』を使うだけではまだ足りないと、言外にその肉体は語っていた。

 多少のイレギュラーがあろうと、その全てをねじ伏せるだけの白兵戦闘能力。

 それこそが彼女が天からの才として受け取り、魔導を持って開花させた本質スタイル故に。

 そんな人間離れはおろか、魔獣ですら視線だけで道を譲るであろう闘気を発する美咲を前にして琉衣夜の身体を借りたナニカはニヤリと笑った。

 目の前にとても魅力的なお菓子を見つけて喜んでいる子供のように純粋な、しかしどこか不気味な笑み。

 ズルズルズルと大地から黒い手が彼に絡みつき、喰らわれ吸収される。そのあくいを元に生み出された翼が細分化され、百以上の黒い槍となって全方位から美咲を襲う。

 これにはさすがに対応しきれないと見て、範囲から抜け出すために必要最低数の槍を引き裂き、離脱する。だが、その先には右肘から先を『黒』で染めたナニカが待ちかまえていた。

 容赦なく振り下ろされる拳を、美咲は刀で迎え撃つ。

 地響きを鳴らしながら両者が激突する。だが、その激突は五分ではなかった。

 拳そのものは受け止めたものの、『黒』本体を受け止められずに美咲は一度後ろへ下がる。今の一撃の威力に美咲は少し、ほんの少しだけ口元を緩める。

 『超えし力』の限界強化速度を超えた。あの余裕らしい笑みを見れば、さらに増幅できるのかもしれない。

「面白い」

 改めて刀を構え、言う。

「その力、我が『真撃』にどこまで付いて来れますかね」

 合図はなかった。

 片方が動いたと同時に、もう一方も動いた。驚異的な速度で前に出ようとする美咲に対して、ナニカは六本の内の二本を直接振り下ろし、残りの四本を細分化させて広範囲に攻撃を仕掛ける。

 前・後・上・左・右、あらゆる方向から、当たれば確実に貫かれる威力を秘めた槍が襲いかかる。

 美咲はその全てに反応し、雷斬を振るう。

 秒間二十回もの黒翼、黒槍を斬り、裂き、断つ。刀が間に合わない分はステップで避けていく。

 だが、戦局はそこで固定された。あまりにも高速の連撃が美咲がナニカに接近する事を許さない。

 無理に距離を詰めようとすれば、そのテンポの狂いから全方位から粉砕される事になる。かといって、今の状況でもそれは変わらない。一瞬誤ったならば、即死に繋がるこの状況は、精神を大幅に削る。

 同時にコンマ一秒以下の激戦は美咲に『真撃』の出力調整の暇も与えず、ジワリジワリと確実に体力を削る。

 数万回目の黒翼の一撃を叩き斬った瞬間、右腕の筋肉が嫌な音を立てて動きが明らかに鈍くなる。

「くっ……! ハァアアアアアッ!」

 身体全体のバネを使って無理やりに上からの翼の圧撃を迎え撃つ。

 だが、身体の限界を無視した過酷な戦闘ハードワークの代償は、美咲が思った以上に全身を蝕んでいた。

 激突の瞬間、右腕は襲ってきた衝撃に耐えきれずに、雷斬は持ち主の手を離れて宙を舞う。美咲の一撃は翼の先端を叩いたため狙いが僅かに逸れるが、翼が引き起こす二次的な魔力の暴風に嬲られ、身体が宙を浮いて十数メートル飛ぶ。そのまま勢いを殺す事も出来ずに何度も無様に転がってようやっと止まる。

 身体が鉛にでもなったかのように重かった。

 たった一撃、それも余波を受けただけでこのザマだ。ダメージが大きく、『超えし力』を発動するための最低限の集中すら出来ない。立ち上がるのがやっとの身体に、得物は数十メートル離れた所に落ちている。

 まともに戦う事さえ、不可能。

 ナニカは勝利を確信したのか、狂った笑い声を響かせながらこちらへゆっくりと近付いてくる。

 漆黒よりも暗く黒い翼を背から生やし、裂けるような濁りきった笑みを湛えたソレはまるで天使のように見えた。

 地上へ落とされ、天上に牙を剥く堕天使のように。

 美咲の目前に立ったナニカは、裂けた笑みをさらに深くしてこちらに手を向ける。見なくてもわかるほどの殺意が、悪意が、『黒』がその手に集まっていく。

(ここまで、ですね……)

 目を閉じ、最後の瞬間を待つ。

「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハーッ……」

 狂笑が、突如途切れた。殺されると思って、一層目を堅く閉じたがいつまで経っても何も起こらない。

 うっすらと目を開くと、ドシャリと目の前で何かが倒れる音がした。

 まるで糸が切れた操り人形を見ているような動きだった。『黒』も、翼も、何もかもを呑み込むような威圧も、全てが何もかもが消失していた。

 そこにいるのは、全身ボロボロの、ただの少年だった。



 暗い、暗い闇。

 陽の光なんてここにはないんじゃないかと思うような暗黒空間。

 いや、ちがう。空間が暗いんじゃない。全ての光を彼の視界から奪っているのは黒い翼だった。

 漆黒よりも暗く、暗黒よりも深い、琉衣夜自身の背から生えた悪意の塊。

 それに琉衣夜は絶叫する。当然だ。自分の背中からいきなり真っ黒な翼が生えてきたのだから。

 だが、音が響かない。『黒』は音すらも喰らって、存在を誇示し続ける。

 叫ぶ事が出来ない。身体を動かす事も出来ない。自分の身体を見て、さらに琉衣夜は驚いた。

 琉衣夜の腕を脚を腹を背中を、ありとあらゆる所に黒い、亡霊のようなモノ達がへばりついているのだ。亡霊達は口々に呻き始めた。

 自分たちの恨み言を。

 世に残した未練を。

 自らを殺した相手への呪いを。

 そして、その憎しみを晴らしてくれ、と琉衣夜の身体にさらに強くしがみついてくる。俺達の力を貸すから、お前は俺達の恨みを晴らしてくれ、と。

 その呪いの合唱だけが頭の中に響き渡り、吐きそうになる。

 そしてその声に答えるように彼の身体が、彼の意志とは無関係に動く。黒の翼が、闇の噴射が、悪意の塊が、彼の思考を無視して渦を巻く。

 その歌に屈しそうになった時、また別の声が聞こえた。

 それはプログラミングされたような、機械みたいな声だった。聞いた事の無いはずなのに、何故か琉衣夜はその声を懐かしいと感じた。

「護る、主、契約、最優先、契約者、力、利用、亡者、悪意、同義……」

 今度はエンドレスでその声が続く。

 契約? なんだそりゃ。

 そう聞こうとするが言葉は音にならず、『黒』に溶けてしまう。

 だんだん声の音量が上がってくる。耳を塞ぎたいが、相変わらず腕は亡霊達に捕まって自由にならない。音はどんどん耳を直接刺激するように鳴り始め、頭が割れそうなほどに痛み始める。

 やめろ、やめてくれ!

 そう叫んだ瞬間、とても聞き覚えのある声が響いた。

「さあ、目覚めろ契約者よ。そして私の元に跪け」

 耳元に後ろから声をかけられる。かろうじて自由な首を動かして、後ろを見た。

 そこにいたのは……



 激痛と傷の発する熱で琉衣夜は目を覚ました。視線の先にあるのはベッドの上の見慣れた天井。展開が急すぎて、生きて帰れたらしい事を素直に喜ぶ事も出来ない。

 上半身を起こす。全身が鈍い痛みを発してはいるものの、致命傷はなかったらしい。美咲の絶妙な手加減の賜物だが、ここは感謝しておくべきなのだろうか。

 と、そこまで確認してから琉衣夜は、腰の辺りにずっしりとした重みが乗っかっている事に気が付いた。自分の身体ではなく、ましてや布団でもない。見れば、見知った茶髪が毛布の上に散らばっている。

 ほっと安堵すると同時、疑念を抱く。

 琉衣夜は美咲に完敗した。あの時点で瑠奈は回収されていてもおかしくない。何故、彼女を回収しなかったのか? まさか、魔導の上書きはもう終わってしまったのか?

 いや、あり得ない。別の思考がそれを否定する。

 もし、既に魔導の上書きを終えているならば、瑠奈を琉衣夜のそばに置いておく必要がない。置いておくにしても、彼の記憶にも手を加えるだろう。琉衣夜の記憶には、今の所何か違和感がある訳ではない。美咲の事も司の事も覚えているし、瑠奈の中に宿るモノの話も覚えている。

 なら、何故?

 そこで思考は中断された。

 モゾリと瑠奈が動いた。いきなりだったので、琉衣夜の身体がビクッと跳ねる。それが決定打になったのか、瑠奈がう〜んと呻きながら身体を起こす。

 視線が交わる。

 寝起きの瞳が、知らない人を見るように琉衣夜の顔をマジマジと見つめる。沈黙と、顔をジーッと見つめられている事に耐えきれなくなった琉衣夜は、自分からアクションを起こす事にした。

「よ、よう……。おはよ……」

「琉衣夜! やっと起きてくれた!」

 が、瑠奈はそれを遮って問答無用で抱きついてきた。

 想像以上に柔らかい女の子の身体に思わずドキッとするがすぐにそんな事は考えられなくなった。

 彼女の身体が震えていた。まるで泣いているみたいに。

「なあ、瑠奈」

「……何?」

「俺どれくらい寝てた?」

「……二日」

「……ってハア!? 二日? マジかよ! ってか、この手当てしてくれたのってお前だよな? いくら何でもやりすぎだろ。こんなにグルグル巻きにされたらロクに動けねえって」

「……私じゃないよ」

 その言葉に、琉衣夜は一瞬ダメージで耳がおかしくなったかと思った。

 瑠奈の声がいつものとは全く違う、感情を殺したような声だったから。

「お、おい瑠奈」

「琉衣夜、大通りの近くに倒れてたって、龍音が言ってた……! 琉衣夜を見つけてここまで運んでくれたのも龍音だった! そのとき私は、家の近くにいた安斎を上手く捲けたって喜んでた! 琉衣夜が戦ってるなんて思いもせずに、馬鹿なヤツだ、って言って笑ってた!」

 瑠奈は少し体を離し、琉衣夜の身体に触れていきながら続ける。

「手当をしたのも龍音だった……。ボロボロになった琉衣夜を見て、私に出来たのは、手当てしてる龍音の隣でオロオロしてるだけだった……!」

 その目は、見たらすぐわかるほどに充血し、潤んでいた。だが、その瞳から雫が零れる事はない。必死に顔を歪めてそれを留めている。

 様々な感情が入り交じったその言葉の刃は、決して琉衣夜に向けられていない。しかし、その自身を切り刻むような声色に、琉衣夜は気圧されて声すら出せなくなっていた。

 瑠奈の言葉が止まる。恐る恐る顔を覗き込むと、瑠奈は少し息を吸い決定的な言葉を紡ぐ。

「私は琉衣夜を護れなかった……」

 肩を震わせ、唇を噛んで、涙が零れるのを抑えている。そうでもしなければ、涙を止められないのだろう。

 そして、そうまでして、彼女は自分の為の涙は見せようとしない。

 自分が原因で起こった事に対して、自分を慰めるための、ましてや他人の同情を引くモノなんて見せる訳にはいかない、と。

 琉衣夜は、瑠奈の刃の威圧が消えても、何一つ言う事が出来なかった。

 言えるはずがない。

 気にすんな、お前のせいじゃない、とか。

 護れなかったって、そりゃ逆だろ、とか。

 言える言葉は幾らでもある。そんな程度の言葉なら、いくらでも思いつく。だが、自分にさえ決して涙は見せないと誓っている人間に、そんな安っぽい慰めなんてかけられるはずがない。

 だから、思考を切り替える。

 終わった事や出来ない事ではなく、これからどうするかを考える。

 二日間ぶっ続けで寝ていたとはいえ、身体は依然として動かない。無理やりなら動かせない事もないだろうが、最高の力はおろか、いつものケンカの時の力さえ出せるかどうか怪しい。

 そもそも、二日間という言葉には何か意味があったはず。

 何だっけ、と頭を捻る。今の今まで寝ていたせいか、思考がきちんと巡らない。

(美咲と戦ったのは二日前。……何だ? 何が引っかかって……)

 必死に頭をフル回転させて、唐突にそれを思い出した。

 制限時間リミット!瞬間、全身に言いようの知れない寒気が走った。

 瑠奈のリミットはあと一日。そしてそれに合わせて二人の魔導師が彼女を奪いに来る。

 『大天使』のことは琉衣夜にはまるでわからない。だから、思考は目の前の壁である、二人の魔導師をどうするべきか、と回転する。

 身体は万全とは言い難い。美咲はおろか司と戦っても、今の状態では勝てないだろう。完全な状態で戦っても負ける相手に、今の状況で挑むのは愚策すぎる。

(となると、逃げるしかないよな……)

 いくつかの逃走経路を考えていると、場の状況を無視していきなり琉衣夜の腹が鳴った。

「…………ごめん」

 琉衣夜はばつの悪い顔になり、自然に謝っていた。

 それに瑠奈は少し驚いたような顔になり、良いよバカ、と良いのか悪いのかわからない一言と共に少し笑った。

「何か食べる? カップラーメンで良ければ作るけど」

「カップラーメンは作るとは言えないぞ……」

 まあ腹が減っては戦は出来ぬって昔から言うしな、と言いながら身体を動かして立ち上がる。

 起きると同時に全身に鈍い痛みが生じるが、普通に動く分には問題なさそうだ。

 え〜、別に良いじゃん作るって言ったって〜、と唇を尖らせる瑠奈につられて琉衣夜も笑おうとした所で、玄関のチャイムが鳴った。

「……郵便か?」

 瑠奈に見てきてくれる? と頼もうとしたが、カチャリという軽い音に遮られる。それは閉めていた鍵が開いた音だった。

 唯一鍵を持っている瑠奈は隣にいる。龍音や奏絵先生に鍵は渡していないし、他の連中にはそもそも家の場所を教えていない。

 じゃあ誰だ?

 そう考えた所で、琉衣夜の身体は玄関に走り出していた。ゾワリと背筋が凍りそうになった。

 まさかと思いたいが、名前を知られているという事は、住所も同時に調べられていてもなんらおかしくない。

 玄関へ続くドアを開けると、招かれざる客は扉を開いて入ってきた所だった。

 そこにいるのは琉衣夜を襲い、瑠奈を回収するためにやってきた、二人の魔導師。

 後ろから琉衣夜を追って、玄関に来ようとする瑠奈を右手で制し、左手を握って真正面から二人と対峙する。

 だが、

「無駄だよ。わかっているだろ? 君一人で僕ら二人とは戦えないし、その子の逃げる時間を稼ぐことも出来ない。諦めた方が得だと思うよ?」

 司の言うとおりだ。琉衣夜の握った左手には汗が滲み、顔は蒼白になっている。立っている事すら精一杯の震える脚。

 それでも、琉衣夜の眼光は衰えない。いや、今まで以上に強い光を宿す。

 背後の大切な者には、指一本触れさせない、とでも言うように。

 その彼の行動に、圧倒的優位な司と美咲の目が細められる。天高くで輝く日輪を直視してしまった、そんな風に。

 激痛に苛まれている琉衣夜は、そんな変化にも気付かないほどに追いつめられていた。目は焦点を合わせる事も出来ずにフラフラと彷徨い、全身は常に軋むような痛みと熱を発し、意識は朦朧としている。

「く、そ……っ! ガ、ァアアアアアアアアア!」

 完全に意識が落ちる前に、一秒でも時間を稼ごうと獣のような咆哮を上げて飛び出す。狙うのは一歩前に出ている司の首元。急加速と、いきなり籠められた力に耐えきれずに、再び傷口が裂けて血が滴り始めた右腕を振るおうとする。

 だが、圧倒的に遅い。

 司の隣から飛び出した美咲に右腕を掴まれて引きずり倒され、身動きがとれなくなった瞬間に首を美咲が掴み、一気に握りつぶそうと……

「待って!!」

 した所で瑠奈が叫ぶ。

 その悲鳴を聞いて、二人の魔導師の顔が一瞬だが、確かに苦しげに歪んだ。

 本当はそんな声を上げさせたい訳じゃないのに、本当ならどんな事があっても傍にいたいのに、護りたい者に敵と呼ばれ、どこまでもそれを演じきらなければならない事に。

 自分達が意図し、予想したとおりの展開であるはずなのに、それでも耐えられないと言うように。

 二人の『人間』の顔が少しだけ歪み、

 ガチン、と次の瞬間に二体の凍える『魔導師』に変貌する。

 琉衣夜しか見ていない瑠奈は、『敵』に明確に告げる。

「私なら、どこにでも行くから……何でもするから……だから、だからこれ以上琉衣夜を傷付けないでください……」

 司という魔導師は、その言葉につまらなさそうな笑みを浮かべる。

「ふん、こんなものか。あれほど化け物と呼ばれ忌み嫌われた存在が、こんなにアッサリと捕まるとはな……まったく、仕込んだ通りに動いてくれて嬉しいよ」

 そこにいるのは、皮肉そうな声で瑠奈を切り裂く魔導師だった。

「いいだろう。ただし、その言葉がもしも嘘偽りだったら、最初に傷付くのはコイツだ。君じゃない、彼だ。それが嫌なら自分で言ったとおりにおとなしくする事だ、良いな?」

 淡々と魔導師は告げ、瑠奈はそれに頷く。

 それを見た美咲の手が琉衣夜の首から離れた。琉衣夜は即座に立ち上がる。

 見れば、瑠奈の顔は気付かない内に、涙と安堵でグチャグチャになっていた。

「ゴメンね、こんなにボロボロにして。こんなにいっぱい傷付けて。でも大丈夫」

 温かい手がTシャツ越しに身体を触れ、最後に両手で頬を包む。優しく、愛おしげに、惜しむように。

「私がいなくなれば……琉衣夜を傷付ける人はもういなくなるから。琉衣夜の日常はこれ以上壊させないから。もう絶対に踏み込ませないから……」

 その顔に浮かんでいるのは、笑顔。あきらめと悲しみを含んだ、消えていく蝋燭が消える瞬間に一瞬だけ輝くような、儚い笑顔。

「ちょっと待てよ。お前何言って……」

「ごめんね」

 その瞬間、堪えきれなくなったように、瑠奈の頬を一筋の涙が零れるのを見た。

 ふざけんなと言って止めようとするが、彼女の方が速く言葉を紡ぐ。

「この者に癒しと休息の眠りを」

 刹那、身体がこれまで以上に重くなる。いや、全身の傷の痛みは薄れて消えていくが、風邪薬を飲んだ時のような、強い眠気が彼を押し潰していく。頭は必死に今の状況を分析しようとするが、思考が眠気で断続的になっていく。

 司がホウ、と驚いたような声を出す。

「簡略術式、それも傷を負っている対象を強制的な魔導の睡眠に陥らせ、傷もその間に回復させる。いいねえ、疲労と傷を同時に回復できる魔導師なんて罪咎の巣にもそういないぞ。いやいや、才能とは恐ろしいものだ」

 そんな言葉には耳も貸さず、瑠奈は眠気に負けて床に崩れ落ちた琉衣夜の頬に唇を一瞬だけ触れさせて、耳元で囁く。

「ありがとう。……さようなら」

 待てよ!

 叫ぼうとするが、口がまるで動かない。

 そして、温もりは名残を残すように遠ざかり、ガチャン! と言う音がやけに耳に響いた。

 それが示す事はただ一つ。瑠奈が、魔導師に連れ去られた。

 その理由はただ一つ。

 護れなかった。約束したのに、それは圧倒的で理不尽な力に粉々に砕かれてしまった。

 自分のくだらない考えで楽しかった一日をぶち壊しにした事さえも謝れなかった。

 自分の力が無いせいで。

 ケンカで負けない力があっても。魔導師を撃退できるだけの知識があっても。

 たった一人の少女に幸福な未来ハッピーエンドを見せるには、地獄のバッドエンドから引き上げるには足りなかった。

 耳が痛くなるような静寂の中、少年は一人静かに護るべき少女がかけた眠りに意識を奪われた。

 そして。

 終わりは遠く、救いは未だ顕れない。

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