第1章 手を伸ばす者-3
少し時間が経過した、とある土曜日のこと。
結論から言うと、瑠奈のパスポートは特に問題なく発行された。
……発行された、と言っていいのかはわからないが。
「……偽装じゃねえだろうな」
「失敬な。ちゃんとした本物ですよ。まあ、色々と手は回しましたが」
「本当に大丈夫なんだろうな……」
心外な、と言う表情で紅茶を口に運ぶ美咲へ疑いの眼を向ける琉衣夜。
隣に座っている瑠奈はと言うと、スイーツにぱくつきながら表情を緩ませていた。
その脇に置いている小さなカバンには、先ほど受け取ったパスポートが入っている。
念の為確認をしたが、コピーガード等もきっちり入っているあたりどうやら本物ではあるらしい。
……別に琉衣夜が本職と言うわけではないので、見た感じそれっぽいという以上の評価はできないのだが。
「チケットは先ほど共有した通りです。あなた達も無事に取得できたようで何よりです」
「そりゃ、こっちは普通の一般人だからな。きちんと手続き通りにやればもらえるさ」
「一般人、ですか」
納得いかないような表情をされるが、そんな反応は逆にこちらの方が納得いかない。
最近少し魔導に手を出しているだけで、こちらは根っからの一般人だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
美咲は何かを言いたそうな表情をしていたが、しかし何も言わずに手元の紅茶を再度一口啜るに留まった。
「そういえば、あちらの方は問題ないのですか」
「あちらって、静のことか。別に問題ねえよ、今日も戻ったら一緒にトレーニングだ」
「随分と励んでいるみたいですね。以前とは見違えました」
「そうか?」
自分もコーヒーに手を伸ばしながら、琉衣夜は首をかしげる。
が、その体格の変化は目で見てわかるほどに明らかだった。
もともとしっかりとした体格ではあるのだが、以前にも増して芯から強くなっている。
日々の訓練の成果だろうが、運動部でもここまで出来上がった体躯はなかなお目にかかれないだろう。
以前一緒にゴーレム使いと戦った時から会っていないが、その頃に比べてもしっかりとした戦うための体つきになってきていた。
「それに、雰囲気も落ち着きましたね。以前は随分と焦りを見せていましたから」
「そんなに変わるもんかね。自分ではよくわからないけどな」
「いや、だいぶ変わってるよ。太くなったわけじゃないから、ぱっとは気づかないかもしれないけど」
美咲の言葉にうーんと唸る琉衣夜だが、隣に座っている瑠奈も彼女の言葉に同意していた。
そんなもんかな、と首をひねりながら納得するも、本人としてはいまだに実感がわかない。
「まあ、それはさておき用事も済みましたので、私はこれで。良い旅になることを祈っていますよ」
「ああ。何も起きないことを祈るばかりだけどな」
「こちらも同じです。もしまた何かあれば、いつでも連絡を」
「そうするよ、ありがとう」
ふっ、と最後に一つ微笑んで美咲は席を立つ。
ひょい、と机の上の領収書をとって彼女はそのまま出口の方へ消えていった。
後にはスイーツと二人だけが残されていた。
「これで結局受けることになったわけだけど、どう思う?」
「んー……」
残っていたスイーツに手を伸ばしながら瑠奈は思考を巡らせる。
とはいえ、“罪咎の巣”からの指示と言われればやらない訳にはいかない。この生活を守り続けるためには、それが嫌な指令であったとしても拒否する権利は彼女にはなかった。
そして、瑠奈がその姿勢を崩さないのであれば、琉衣夜もまた同じである。
「一応警戒はしておいた方が良いけど、それ以上はどうしようもないかな。拒否したらしたで面倒だろうし」
「だよなぁ。また司だの美咲だのに追い回されるのは勘弁してほしいところだ」
「あの二人くらいなら、琉衣夜もどうにかできるんじゃない?」
「一対一なら大丈夫だろうけど、二対一は多分無理」
近距離特化の美咲と、中〜遠距離で力を発揮する司のコンビは、いかに“黒”を自由に操る琉衣夜といえど相手取るのは骨が折れる。
無論、瑠奈が本気を出せば勝てるだろうが、その場合“罪咎の巣”と本格的に敵対関係に陥ってしまう。
そうなれば、この機に乗ぜよとばかりにわらわらと敵が群がってくるのは想像するに難くない。
無論、勝てないわけがない。
勝てはするだろうが、その先にあるのは戦闘と逃亡に明け暮れる日々だ。
そんなものは互いに望むものではない。
故に、飼い慣らされることを許容する。
強大な力を持つとはいえ、意外と世の中は世知辛いのだ。
「“罪咎の巣”が珍しくバカンスをプレゼントしてくれたと思うしかないね」
「そうだな。そういえば、どこに行かないといけないかって聞いてある?」
「んーん、まだ。琉衣夜と一緒に見ようと思って」
「んじゃまあ、見てみるか」
それちょうだい、と手を出すと瑠奈はパスポートの入った袋をこちらへ差し出した。
覗いてみると、中にはパスポートの他にチケットの控えらしきものが入っている。
と言うか、今時わざわざ紙で出力するあたり、美咲の機械音痴っぷりが見えるのがなんともいえない。オンラインじゃダメだったのだろうか。
一枚取り出して行き先に目を通す。
横から瑠奈も「見せて見せて」と顔を近づけてきた。
「……イタリア?」
「……らしいな。行った事ある?」
「なーい。琉衣夜は?」
「ない。国外に出るのが初めて」
「じゃあ、色々と準備しないとねー」
「そうだな。俺達もそろそろ行くか?」
「だね。ごちそうさまでした」
律儀に手を合わせてから立ち上がる彼女に微笑を浮かべながら、琉衣夜も立ち上がる。
まだ陽が落ちるまでは時間がある。
二人で出歩いていても、うるさく言われる心配はまあないだろう。
「んじゃ、行こうか」
「しゅっぱーつ」
やんわりと声をかけると、瑠奈は楽しげな声で応えてくる。
旅立ちまではあと二週間ほど。
そこはかとなく感じられる嫌な雰囲気はひとまず置いて、彼らは珍しい海外旅行を楽しむべく、準備を始めるのだった。




