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第四章 ”黒翼”-4


「ねぇ、琉衣夜。何食べる?」

「ん? あぁ、何にしようかな」


 ぼーっと窓の外を眺めていたら、柔らかい声に呼びかけられた。

 顔を前に戻せば、瑠奈がにっこりと微笑みながらメニューをこちらへ差し出している。気の抜けた返事をしながら受け取ると、瑠奈はほんの少し心配するような表情に変わった。


「大丈夫? だいぶぼんやりしているみたいだけど」

「そうだな。……少し、気が緩んでるのかもしれない」


 メニューに目を落としながら、そう答える。

 何が良いだろうか。最近はあまりこういった物を食べていないから、疎くなっている気がする。

 少し頭を悩ませて、琉衣夜はハニートーストとコーヒーを頼むことにした。

 別に食べたいと思った訳ではない。いつか龍音が話していたことを思い出して、せっかくだからと考えただけだ。


 注文を終えて視線を戻せば、瑠奈が驚きと喜びの入り混じった妙な表情を浮かべていることに気づいた。


「どうかしたか」

「いや……琉衣夜、甘い物食べるの久しぶりだなって」

「そうか? ……そうか、そうだな」


 言われてから気付く。

 そういえば、この一ヶ月と少しの間甘味はまるで食べていなかった気がする。別に甘いものが嫌いだという訳ではないのだが。

 自分でもわからずに首を傾げていると、それに瑠奈は優しく微笑んだ。


「まあ、良いんじゃない。久しぶりに気が抜ける時間なんだから」

「どうだかな」


 そうだと良いんだが。

 そう呟いて、琉衣夜は再び窓の外へと目をやる。


 空は既に夜へと移り変わっていた。

 夏に入り始めているとはいえ、午後七時を回ればそんなものだろうか。

 思えば、この時間に瑠奈と二人で出かけること自体が久々のような気がする。


「なぁ、瑠奈」

「なぁに?」

「この後、何か予定あるか?」

「今日は何もないよ」

「そっか。じゃあ、どっか行きたい所とかあるか?」


 その言葉に、瑠奈の目が丸くなった。琉衣夜が何を言ったのかがわからない、とでも言うように。

 そんな彼女の表情は少し間が抜けていて、琉衣夜はほんの少し微笑んだ。


「なんだよ、俺とは出かけたくないってか」

「いや、そうじゃないけど……久しぶりだなぁって」

「そうか? 出かけるのなんて、そう珍しくもないだろ」

「じゃなくてさ」


 クスリ、と瑠奈はいたずらっぽく微笑む。これから言うことでこちらがどう反応するのか、試すみたいに。


「琉衣夜が誘ってくれるの、久しぶりだなって」

「……そうだったか」

「そうだよ〜。いつも大事な時は何も言わないでどこか行っちゃうんだから」

「悪かったな」


 ぷくー、と頬を膨らませながらそう言う少女に、琉衣夜はぽそりと答える。

 確かに、最近は瑠奈と一緒に遊びに行くなんてのは全くなかった気がする。そんな事よりも、もっと大事なことがあると考えていたから。

 そうしなければ、瑠奈の隣にいる事は出来ないと思っていたから。


「……ごめん、そんな顔をさせたかったんじゃないの」

「いや、俺の方こそこの二ヶ月くらい自分の事しか考えてなかったから」


 ごめんな、と囁くと瑠奈は今度こそ困った表情に変わる。

 彼女が寂しく思ってこそいても、怒っていない事は知っている。けれど、その態度が余計に彼の罪悪感を加速させていた。

 そのまま俯いて、何も言う事が出来なくなってしまう。

 それを見てか、瑠奈が深く息を吐く音が聞こえた。ついで、席を立つ音が耳に届く。

 トイレだろうか。そう考えた次の瞬間、ぺちんと頭を叩かれた。


 顔を上げれば、すぐそこに愛しい少女の顔があった。


「な、なんだよ」

「たまにはこっちの方がいいかな、って。ほら、少し詰めてよ」

「詰めるって……」


 言い返そうと口を開いたが、反論する前に先に瑠奈がひょいひょいと奥に行くよう手を振る。

 上手い言葉が見つからず、琉衣夜は少し頰を膨らませながら少し奥の方へ詰めて座った。すると、瑠奈は空いた空間に体を滑り込ませて「えへへー」とニンマリ微笑む。

 その笑顔があまりにも眩しくて、琉衣夜はそっと視線を逸らした。


「やっぱり近い方が見やすいね」

「そりゃあな……あんまり見んなよ」

「琉衣夜、まつ毛綺麗だよね〜。憧れちゃう」

「あんま見んなよ!?」


 恥ずかしくて、大声で答えながら少女の方を向く。

 すると、瑠奈は愛おしげに口元を緩めながらこちらの顔をじっと見つめていた。

 それに自分の顔が熱を持つのを感じる。


「やっと、こっち見てくれた」


 その言葉で、自分の心臓がひときわ強く跳ねたのがはっきりとわかった。

 思えば、こうして少女の顔をきちんと見るのはいつぶりだろう。最近は顔を合わせることすら減っていたし、寝不足のせいで常に思考が鈍っていたように思う。

 そういった一切の制限がない状態で見つめる瑠奈は、何というか……。


「どーしたの?」


 こちらの心境を見透かしているかのように、その笑顔がいたずらっぽいものに変わる。手の上で転がされているような気がして、ほんの少しだけ……ムカついた。

 だから、その鼻をキュッとつまんでやる。


「ふむっ!?」

「ははっ、いい顔じゃねえか」


 顔をしかめて逃げようとする瑠奈に、唇の端を歪めてそう笑う。

 「むがむがっ!?」と女の子にあるまじき声を上げていたが、気にもしないで琉衣夜は手を離してググッと伸びをする。

 瑠奈は「むー……」と少しの間膨れ面になっていたが、琉衣夜の表情から力が抜けているのを見て小さな笑みを浮かべた。


「……どうかしたか?」

「んーん、やっぱりこの方が良かったかもしれないなって」

「良かった、か」


 ぽそり、と琉衣夜は呟く。

 瑠奈は首を傾げてこちらを見てきていたが、すぐに二人の注文したスイーツがそれぞれ運ばれたのでそちらに彼女の視線が向いた。

 コロコロと変わる少女の表情に微笑を浮かべながら、琉衣夜も自分の飲み物に手を伸ばす。

 穏やかな雰囲気。緩やかに過ぎていく時間。

 そして、彼の隣で朗らかに微笑む少女。


 少し前の自分には、考えもつかない時間だった。

 こんなにも落ち着いたひと時に浸る事ができるとは、思いもよらなかった。


(この方が良かった、か。……本当に、これで良かったのか?)


 そう、彼の心が語りかけてくる。

 その問いかけに即答できない事が、今の琉衣夜にとってはほんの少しだけ心がささくれ立つのを感じた。



 時は、少し遡る。


「戦わない方が良いって……どういうことだよ」


 司に投げかけられた言葉へ、震える唇を動かして問いかける。

 それに司は答えない。無言のまま窓を開き、ポケットから取り出したタバコに火をつけた。


「答えろよ!」

「……そうして焦ってるってことは、君も理解しているんじゃないのか」


 紫煙を吐き出しながら、横目で言いやる司。

 それに、琉衣夜はぎりと奥歯を噛みしめる。


 もう一度深々と煙を吸い、ため息とともに吐き出してから司は口を開く。


「メカニズムは簡単だ。君の中で二つの力がせめぎ合ってる。一つはもちろんその黒い力。そして、もう一つは」

「……俺自身の、魔力か」


 かすかな声で、琉衣夜は司の言葉を遮る。

 考えてみれば単純な話だ。魔力の精製には、何の障害も起きなかった。

 だが、“黒”を全力で行使しようとした際に覚えた感覚は、“黒”とそれ以外の何かが衝突したものだ。

 そして、琉衣夜の体の内にあって“黒”と対立しかねない力といえば、琉衣夜自身の魔力以外にありえない。


「俺が限界を超えて力を引き出そうとしたから……そうだろ」

「ふむ。まあそれも一因ではあると思うが、主因は別のものだな」

「……別のもの?」


 琉衣夜は首を傾げる。

 それに司は直接に答えず、窓の外へタバコの煙を吐き出しながら瑠奈の方へと視線を向けた。


「では質問だ。彼の内にあって、彼のものではない。彼の内に入ってくるものを反射的に撃退しうる存在。何だと思う?」

「……破れぬ、誓い」

「……あ」


 瑠奈の苦々しげな一言に、自分の口から間抜けな声が漏れるのを聞いた。すっかり自分の中からその可能性が抜けていたのだ。

 そう、今の琉衣夜の中にはもう一つの力が混ぜ込まれている。

 瑠奈との間につながれた、魔力の経路。それを通して互いに流れ込む魔力は、琉衣夜のものと同質のものに調整されるとはいえ完全に一致しているわけではない。

 おまけに、繋がった理由は瑠奈を護るため。

 そんな所に使い手の琉衣夜でさえ食い散らかそうとするほど貪欲な“黒”が大量に流れ込めば、どうなるか。


「“黒”と破れぬ誓いが、干渉してるってことか」

「……だろうね。攻撃的な力である“黒”と防御的な力の破れぬ誓い。確かに、食い合わなくとも納得はできる」

「ちょっと待って。じゃあ、琉衣夜は……」


 瑠奈が紡ごうとした言葉を、琉衣夜は手を上げて遮る。

 それは、彼にとって死刑宣告にも等しい。なにせ彼の戦力の大半は“黒”に依っているのだから。

 だが、現実と向き合わなければ置いていかれるだけだ。

 震えそうになる声を必死に張りながら、琉衣夜は自らの唇で言葉を発する。


「……“黒”は使えない。瑠奈と、誓いで結ばれているかぎり」

「使えないわけではないだろうが、まあほとんど同じ意味だね。君の魔導能力を考えれば、両腕を捥がれたに等しいだろう」


 他人事だからと、淡々と言ってくれるものだ。

 こっちは血を吐く思いで述べたというのに。


 ぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、琉衣夜は司に恨めしげな視線を向ける。

 そうした所で司は涼しげな表情で視線を受け流すだけなのだが。


「まあ、長生きしたいなら形質は使えないものと思った方が良いだろうね」

「……くそったれ」

「待って、そもそも私との間につながっている経路を無くしてしまえば……」

『それはありえない』


 瑠奈の提案に、琉衣夜と司が同時に否定する。

 そう、それだけはあり得ない。

 破れぬ誓いを交わしたのは、瑠奈の力を安定させるためだ。それを琉衣夜のために解除してしまっては、元も子もない。

 それに、この二人にとっての最優先事項は瑠奈の安全だ。それを最優先に思考するが故に、琉衣夜と司にとってその提案はあり得るわけがなかった。


 だが、と司は紫煙を吐き出しながら言葉を続ける。


「しかし、“罪咎の巣”に置ける君の役割が変動したのも事実だ。これまでの君は瑠奈の護衛役と制御役を兼ねていたが、今の君に護衛を続けろというのは酷だな」

「……面と向かって言われるのは、腹が立つけどな」

「事実だろう。受け入れろ」


 涼しい顔でこちらの言葉を受け流す司に、琉衣夜は隠すつもりもなく盛大に舌打ちをする。

 彼が言っていることは事実だが、他の誰でもない司に言われるとどうしてもすんなり受け入れる事ができない。


「まあ、今は療養しておけ。“東方不敗”との傷もまだ癒えてないだろう」

「……この位なら、すぐに治る」

「良いから、大人しくしておけ。最近暴れ回り過ぎていた面もあるし、こっちで情報は統制しておく」


 じゃあな、と言い残して司は玄関へと向かっていく。

 瑠奈は何かを言いたそうにしていたが、琉衣夜が小さくため息をつくだけで何も言い返さなかった為か唇を尖らせるに留まった。

 がちゃん、と玄関の扉が閉まる音がやたらと響く。瑠奈が鍵を閉めに行き、戻ってきてから口を開いた。


「琉衣夜、その……」

「良い。何も言うな」

「でも、私は……」


 言い続けようとする瑠奈の言葉を遮り、琉衣夜は口を動かす。


「お前との経路は壊さない。この誓いを消すつもりもない。……聞きたいことはそれだけか?」


 自分でも意図せず語調が強くなってしまう。びくり、と瑠奈がその声に体を震わせるのがわかった。


「……ううん。何も、ないよ」

「……悪い、少し一人にさせてくれ」

「わかった。何かあったら、呼んでね?」

「ありがとう」


 視線を掛布団に落としながら答えると、瑠奈は静かに扉を閉めた。

 扉の近くから気配が消えるのを確認してから、琉衣夜は拳を握りしめる。


「……くそが」


 ビキリ、と掌から嫌な音が響く。けれど、それさえも些細に感じるほどに琉衣夜の心情は煮えたぎっていた。

 自分の内で核になっていた力が失われた。それだけでこれほどまでに感情が不安定になるとは思いもしなかった。

 黒が使えなくなるという事は、これまで自分が築き上げてきたスタイルを全て捨てなければならないという事だ。

 それは、彼の数ヶ月が全て無為に帰したことを意味していて。


「ちくしょう……っ!」


 自分にしか聞こえない声で、彼は自らに起きた不運を呪う。

 瑠奈を救うには、“破れぬ誓い”がいる。

 瑠奈を守るには“黒”が必要だ。

 しかし、その二つは自分の中で争い合い決して相入れる事はない。

 “黒”を失った自分に何が出来るのか。

 最低限戦う事は出来るだろう。瑠奈から教わった魔導は完璧に身に付けており、“黒”を前提にしたものではあるがある程度の戦闘に耐えるものではある。

 だが、結局はその程度だ。

 ゴーレムの少女と相対する事はできないし、“東方不敗”に立ち向かう事も出来ない。美咲と戦っても勝利の目はないだろうし、司に対しても魔導のみでは敗れ得る。

 “黒”があったからこそ、彼は“罪咎の巣”の面々と対等たり得たのだ。それが失われた事が、どれほど手痛いことか。


「ちっくしょう…………っ!」


 ギリギリと奥歯を噛みしめる。

 ぷつり、と手の中で妙な音が鳴った。見れば、思った以上に強く握りしめてしまったのか、爪が掌に食い込んでしまったらしい。

 それを見た途端、フッと全身の力が抜ける。


「どうすりゃ、いいんだ」


 突然失われることになった、自らの力。

 取り戻そうとすれば少女を救う楔は失われてしまい、かと言って失われたままにしておけば少女を護る力は永遠に手に入らない。


「どうすれば……」


 力なく囁いた言葉に、応える者はいない。

 開けられたままの窓から吹き込む風は、心なしか冷たかった。



 それから一週間ほどが経ち、今に至る。

 瑠奈は以前に比べると少し明るくなった。離れている時間が少なくなったからだろうか。

 琉衣夜自身は非常に落ち着いている。睡眠時間が確保できており、かつ瑠奈と二人で作る料理は栄養も考慮されたものだ。これで不健康になるわけがない。

 ……少なくとも、体調面では。


(本当に、これで良かったのか。この生活をこのまま続けていていいのか……?)


 ふとした瞬間に、彼の思考はそんな疑問で埋め尽くされる。

 きっと、瑠奈はこの生活を肯定するだろう。こんな穏やかな時間を投げ捨てて、琉衣夜は戦いに明け暮れていたのだから、彼女の立場からすればその思考は至極当然のものだ。

 けれど、他ならぬ自分自身はどうなのか。


(……良い訳がない。こんな時間を俺は望んていた訳じゃない。でも……)


 でも、手段がない。

 結局、彼の思考はそこで止まってしまうのだ。


 彼が偶然身に宿していた形質(オブティム)“黒”は、既に今後使用しない方が良いという結論が出てしまっている。

 かといって、魔導のみでは彼が持てる出力など高が知れている。所詮その程度の戦力では、彼女を守ることはおろか足手まといにしかならないだろう。


 無論、瑠奈はそれで良いと既に明言している。

 むしろ、自分が破れぬ近いにまで引き込んだのだから、と心苦しそうな表情を見せる始末だ。

 そして彼女はきっとその言葉を守るだけの力を持っている。

 よっぽどの戦力を持っている敵でなければ、瑠奈が保有する“大天使”の力を突破することはできない。それこそ、国家が揺らぐレベルの戦力が必要になると、彼は予想をつけていた。

 そんな力持つ者を自力だけで守りたいと叫んで意地を張っていたこれまでの方がおかしかったのだ。ただ、それを笑い者にされない程度の力を偶然にも持つことができていただけで。

 そんなメッキが剥がれてしまえば、このザマだ。


 手を伸ばしたコーヒーに口をつける。

 途端、思ったよりも濃い苦味に琉衣夜はほんの少し顔をしかめていた。


「苦い?」

「ん、思ったよりは。けど、このくらいの方がちょうど良いかもな」

「それ、甘そうだもんね」


 くすくすと、瑠奈は琉衣夜の前に置かれたハニートーストを指差しながら笑う。その屈託無い微笑みに、琉衣夜もつられて小さな笑みを浮かべた。

 瑠奈は自分の注文したショートケーキに手をつけている。

 一口ごとに堪能しているのだろうか、フォークで真っ白なケーキを口に運ぶたびに、その表情がほんわりと緩んでいた。

 その顔を見るだけで、こんな時間もいいんじゃないか、なんて感情がじんわりと滲み出して。

 そんな思いを抱く自分に、吐き出したくなるほどの苛立ちが込み上げてくる。

 感情を押し殺すように口へ放り込んだハニートーストは、むせるような甘味だった。


「……やっぱこのぐらい苦くてちょうど良かったわ」

「そんなに甘い?」

「試すか?」


 スイッとハニートーストの皿を瑠奈の前へ動かし、一口食べるよう促す。

 少女はほんの少し考えるようなそぶりを見せたが、こくりとうなずいて一口頬張る。


「ん〜……琉衣夜には甘いかもね」


 うーん、と首を傾げながらそう一言つぶやく。

 瑠奈は割と甘党だ。彼には食べづらいものであっても、彼女にとっては許容範囲なのだろう。


「はい、お返し。良かったら一口どうぞ」

「あー……まあ、もらうわ」


 同じぐらい甘いのなら、と断ろうとしたが、試さずに断るのは悪いかもしれない。

 そう考えて、琉衣夜は何の気なしに試食で一口放り込む。

 上品な甘さというのだろうか。ひたすら甘味が強いハニートーストよりも控えめな甘さで、琉衣夜としてはこちらの方がお気に召す味だった。


「いい感じのケーキだな。……どうかしたか」

「い、いや……別に……?」


 感想を言おうと少女を見やると、彼女は通路の方を向いてなにやらプルプル震えていた。

 何かおかしいことでもあったのだろうか。心なしか、耳の辺りが赤くなっているような気もする。


「お、おい。本当に大丈夫か」

「大丈夫、大丈夫……少し思い出し笑いしただけだから」


 気になって顔を覗き込もうとするが、「こっち見ないで」と手でブロックされる。

 なんだこいつ、と思いながら、琉衣夜は元の態勢へするりと戻った。

 深呼吸をしてようやく落ち着いたらしい瑠奈は、ほんのりと赤い頰のままこちらへ向き直る。


「気に入ったんだったら、交換する?」

「お、マジで? その方がありがたいな」

「え〜……じゃあ、交換しよっか」


 自分から提案してきたくせに一瞬葛藤したらしい。が、結局少女は首を縦に振った。

 皿を交換し、先ほどまで少女が食べていたショートケーキを口へ運ぶ。

 どうしてか瑠奈はその一挙手一投足を見守っていた。


「間接キスくらいじゃ、気にしないか……」

「ん? 何か言ったか」

「ううん、な〜んにも」


 はふぅ、と大きい溜息を吐いて、瑠奈もハニートーストに再び手を出し始めた。

 何をそこまで考えているのはわからなかったが、一口食べて再び緩んだ表情になったところを見ると、本当に大した問題でもなかったらしい。


 なんだかんだと駄弁りながら、時間は過ぎていく。

 いつの間にか三十分ほどが経ち、二人の前の皿は空っぽになっていた。


「……んじゃ、そろそろ出るか」

「うん。次、どこ行こっか」

「どこがいいかな……」


 店の外に出て、ぐぐっと伸びをしながら聞いてくる瑠奈。

 それに琉衣夜は顎に手をやりながら一瞬思考を巡らせる。まあでもどうせ行くなら色々ある方が良いだろうと考えて繁華街の方へ指を動かした。

 瑠奈が頷くのを見て、琉衣夜はそちらへと歩き始める。

 ゆったりとした足取りで、二人は夜の街を歩いていく。ちらりと横に目をやれば、こちらを見上げていたらしき瑠奈と視線が交差した。


「……どうかした?」

「ん、琉衣夜と一緒だなって」

「そっか」


 嬉しそうにえへ、と微笑んだ少女に、琉衣夜はそれ以上言葉を返すことが出来ないまま視線を前へと戻す。

 思考はまた、今のままでい良いんじゃないかと囁く声に満たされていた。


(うるさい……)


 どうしたら良いのか。

 どうするべきなのか。


 そんなことを考えながら歩いていたからだろうか。

 琉衣夜は、気付くのがほんの一瞬だけ遅れた。


「琉衣夜……っ!」


 一歩後ろから聞こえてきた緊迫感を孕む声に、ハッと琉衣夜は現実に集中を戻す。

 途端、彼らの周囲で濃密な魔力が展開された。


「……こいつは」

「“人払い”だね。それも、随分と手の込んだ」


 術式に目を向ける琉衣夜だが、彼が看破する前に一歩歩みを進めた瑠奈が答えを口にした。

 それを称えるようにパチパチと拍手が響く。


「この程度は気が付くんじゃな。……御付きは随分と緩んでいたようじゃが」


 朗々とした声で語りかけてくるのは、彼らと同じ制服に身を包んだ少女。

 しかし、この二人はその外面が偽物であることを既に看破している。


「“東方不敗”……っ」

「元気かの、“黒翼”。安心せい、今日の狙いはおんしではない」


 軽い口調でそう言い放つ“東方不敗”。しかし、その視線には言外の力が込められていた。

 すなわち、“邪魔をするなら容赦はしない”と。


「……羽虫が琉衣夜に随分な目を向けるのね」

「……ほぉ?」


 それを遮るように、瑠奈が一歩前に出る。

 その口調にはわかりやすい怒気が含まれていた。それに、“東方不敗”は薄い笑みを広げる。


「何の用かしら。あなたに関わっていられるほど、私たちも暇じゃないんだけど」

「なに、簡単じゃ。この前の続きをやらせてもらおうと思っての」

「……随分と、やる気十分なのね」

「当然じゃろ。おんしのような強者にこそ、用があるのじゃから」


 その目は、瑠奈にのみ注がれている。その闘志は彼女だけを見据えている。

 それを当然のように瑠奈は受け止めていた。そんな二人を背後で見つめているだけという事実が、琉衣夜の心をギリギリと締め上げる。


 ギリ、と奥歯を噛み締めて琉衣夜は一歩前に出た。

 途端、“東方不敗”の目がこちらを向く。その視線は先ほど瑠奈に注がれていたものとは全く別種のものだ。

 そこから発されているのは、侮蔑の色。

 自分に一切届かない者に向けられた、邪魔をするなと告げる目線。


「ダメだよ、琉衣夜。無理をしないで」


 静かな言葉と共に、琉衣夜の前に細い腕があげられる。

 驚きの表情で少女を見やる琉衣夜に対し、瑠奈はこちらを向きもしない。


「今の琉衣夜じゃ、絶対に勝てない。だから、下がってて」

「……そうじゃ。この前の領域が限界だと言うのなら、この戦いはおんしには荷が重すぎるだろうよ」


 投げかけられる二つの言葉に、琉衣夜の精神がギチギチと締め上げられる。

 二人の言葉には、彼を傷つけると言った意図はない。ただただ、事実を告げているだけに過ぎない。

 その事実こそが、琉衣夜をさらに追い詰めていく。

 ふん、と“東方不敗”は視線を瑠奈へ戻す。


「場所は用意しておる。以前其奴と刃を交えたところじゃ。“人払い”も既に用意しているゆえ、おんしが気を使う必要もなかろ」

「良いけど……どうして?」

「先ほど言うたであろう。……私にとってはそれ以上の目的はない」

「……面倒ね」

「ついてこんのであれば、それもそれで良い。その時はこちらから襲うしかないのう」


 ちっ、と舌打ちをこぼす瑠奈。

 それに対し妖艶な笑みを浮かべて、“東方不敗”は背を向けた。


「先に行っておる。……あまり待たせるでないぞ?」


 とん、と地を蹴る音と共に、その背中が再び夜闇に消える。それを合図に“人払い”が解除されたのか、街は元の喧騒を取り戻し始めた。

 だが、琉衣夜は体の力を抜くことができないままだった。

 それを見た瑠奈は何を思ったのか、小さな微笑みを浮かべる。


「大丈夫だよ、琉衣夜。琉衣夜は先に帰ってて」


 告げられたのは、死神の鎌にも等しい一言だった。

 目を見開き、琉衣夜は彼女を見据える。それに瑠奈はあっけらかんと笑って見せた。


「だいじょーぶ、あのくらいの敵なら負けるわけがないから」


 ……その敵に、自分は手も足も出なかった。


「ま、この前の結界を見るに相手も別に大ごとにしたいわけじゃないと思うし」


 少女の言葉が、耳に入らない。

 音としては認識ができるのに、理解ができない。


「だから、ね。心配しないで、琉衣夜は先に帰ってて。すぐに帰るから」


 違う、聞きたいのはそんな言葉じゃない。

 俺が、俺が欲しいのは……。


「じゃ、また後でね」

「あ……」


 にっこりと、小さく手を振って瑠奈は一歩踏み出した。

 手を伸ばせば、きっと届いたであろう距離。

 けれど、琉衣夜は言葉にならない音を吐き出しただけに止まってしまう。


 次の瞬間、少女の背中が視界から消失した。

 きっと、彼女も戦場へ向かったのだろう。

 そして、瑠奈が全力で戦うと決めたのなら、もはや心配することなど何もない。あの少女は大天使としての力を解放し、危うげなく勝利するのだろう。


 あの時と同じように。

 琉衣夜と美咲がゴーレム使いの前に倒れ、どうしようもなかったあの時のように。


「くそっ、ちっくしょうっ!!」


 それ以上に言葉を発することができず、込み上げた激情を拳と共に電柱へと叩き付ける。

 鈍い音が響き、自分の拳がぎちぎちと痛む。突然の凶行に、周囲の視線がこちらを向くのを肌で感じた。


 けれど、そんなこと全てがどうでもよかった。


 また、またか。

 また、あの時と同じように、あの少女に全てを委ねるのか。

 自分の力が無い事を呪いながら……?


「ちっくしょう……っ!」


 感情は、それを否定していた。

 走り出せ、今すぐに。あの少女の背中を追いかけろ。

 そう、心は叫び続ける。


 けれど、冷静な思考は現状を肯定していた。

 今のお前が戦場に出た所で、何ができる。ただの足手まといにしかならないじゃないか。

 そう、理性は囁いていた。


「……ちくしょう」


 そして、それが理解できないほど彼はバカじゃない。

 自分がマイナスにしかならないと分かった上で、なお我欲を張り続けられるほど、琉衣夜は子供になれない。

 走り出したい。でも、それをしてはいけない。

 板挟みの感情は、やがて現実を受け入れて冷め始める。今の自分にはどうしようもないのだから。

 出来る事は、この感情を受け入れてただあの少女の帰りを待つだけ。


 そう、それしかないのだ。

 ……少なくとも、彼一人ではそれ以上に踏み込む事は出来なかっただろう。


「……琉衣夜?」


 背後から、聞き慣れた声が聞こえる。

 振り向けば、制服姿の龍音がそこにいた。とっくに家に帰っていてもおかしくないのに。


「瑠奈から連絡があったの。どうしても一人でやらないといけない用事があるから、琉衣夜を頼むって」


 見れば、その額には汗が浮かんでいた。

 もしかして走ってきたのだろうか、こちらに発する声は息切れを起こしていた。


「……どう、したの?」

「……それ、は」


 普段なら、「なんでもない」と突っぱねていただろう。

 けれど、今の彼にそれだけの強さはなかった。差し伸べられた手に、弱々しい声ですがりつくしか出来ない。


「……また、あいつが一人で行こうとしてるんだ」


 ぽつり、と琉衣夜は零す。

 吐き出された言葉はあまりにも弱々しくて、ただそれだけで龍音に琉衣夜が衰弱しきっている事を理解させた。


「この数ヶ月、努力しても無駄だった。あいつは一人で行っちまう。そりゃそうだよな、あいつにはそれが出来るんだから。知ってるさ、そんな事は。……でも、でもよ」


 ぼろぼろと、しゃくりあげるように少年は己が内心を吐露する。

 その声音はあまりにも細々としていて、まるで泣くのを必死にこらえている少年のようだった。

 それを見て、龍音は言葉を発することが出来ない。

 目の前の少年は、そんなことでは癒せないほどに傷ついていて。

 言葉なんかでは、自分の感情を言い表せないとすぐに理解ができて。


 だからこそ、龍音は少年に向けて行動で答えた。

 ぎゅっとその全身を抱きしめる。カタカタと震える少年を、その体温で温めるように。傷付いた小鳥を、母親が優しく包み込むように。

 両手をしっかりとその背中に伸ばし、自分よりも頭一つ大きい少年を思いっきり抱きしめた。


「……何だよ」

「……落ち着いた?」

「少し、だけ」

「じゃあ、まだダメ」


 両腕の力が、さらに強くなる。

 胸元から感じる暖かさに、琉衣夜は自分の呼吸が深く長くなっていくのを感じていた。それと比例して、少しずつ感情の揺れが収まっていく。


「ねえ、琉衣夜」

「……なに」

「琉衣夜はさ、どうしたいの」


 ぽつりと囁かれる、問い。

 ぎゅうっと胸元に頭も押し付けられているため、少女の顔は見えない。けれど、その声からはこちらをいたわる思いが伝わってきて。

 どうしてか、その前ではいつものように突っぱねることもできなくて。

 だから、琉衣夜は自分の感情を正直に口に出す。


「あいつと、一緒にいたい」


 結局、それ以上の願いなんてないのだと、口に出して気付く。

 それが出来なくなるかもしれないから、必死に努力をした。

 努力しても届かないから、もっともっとと手を伸ばした。

 そして、努力が実らなかったから、今こうして誰かに頼っている。


「……そっか」


 そんな感情が、龍音にはどれほど伝わっていたのか。

 龍音とて、琉衣夜の全部を理解しているわけじゃない。他人に比べれば彼を分かっているかもしれないが、きっと瑠奈に比べれば分かっていないのだろう。


 でも、こういう時にどうするべきか、龍音は本能で理解していた。


「んじゃ、行っておいで」

「……え」


 ぽん、と腹をはたき、龍音はそう小さな微笑を浮かべた。

 告げられた言葉を理解できない琉衣夜は、ほんの一瞬間抜けな表情で固まってしまう。


「行きなさいよ、瑠奈の所に。どこにいるか、わかってるんでしょ」

「わかるけど、でも……」


 それはできない。そう、理性が叫ぶ。

 結局、今彼が彼女の元へ向かった所で邪魔にしかならない。そう、理解しているがゆえに。

 けれど、それを龍音は鼻で笑い飛ばした。


「いつかと一緒ね」

「いつかって、いつだよ」

「あの子が来てすぐの頃。アンタがどうしようもなくて、むしゃくしゃしてた時も同じ事を言った気がするわ」

「それは、でも……」


 あの時とは状況が違う。そう言い返そうとして、しかし龍音の発する言葉の方が圧倒的に早かった。

 ……あるいは、言ってもらうのを待っていたのだろうか。


「瑠奈は、いつでもアンタのことを『信じてる』って言ってるわよ。どんな時でも、何があっても、きっと一緒にいてくれるって」

「……ずりぃよ、あいつ」


 きっと、そう龍音に伝えた瑠奈は微笑んでいたのだろう。いつもと同じような緩んだ微笑みでそう龍音に告げたんだろう。

 こっちがどんな気持ちで追いかけているかなんて、全部は理解していないくせに。

 そんなに信じきられてしまったら、男として出来ることなんて一つしかないじゃないか。

 琉衣夜の心が切り替わる。それと同時に、龍音はもう一度お腹のあたりをぽんぽんと叩いて離れていった。


「おい、龍音……」

「私も帰るわ。用事は終わったみたいだし。……でしょ?」

「……ありがとうな」

「……まだ、感謝をいうには早いでしょ」


 ひらひらと手を振って、龍音はそのまま家路を歩んでいった。

 その背中に、もう一度彼は感謝の意をつぶやく。届かないと知りながら、そうしないではいられなかった。


 その背中が遠く遠く離れてから深く息を吸い、全てを一気に吐き出す。

 心は、決まっていた。

 意識を集中させ、琉衣夜は自分の内側へと語りかける。呼び出すのはただ一つ、彼女との間に繋がれた“破れぬ誓い”だ。

 この術式は、琉衣夜と瑠奈を魔力の経路でつないでいる。つまり、その経路を辿る事が出来れば、瑠奈がいる場所がわかるはずだ。

 果たして、あっさりと魔力の経路が少女のいる場所を告げる。彼が向かうべき場所を、嬉々として伝えてくれる。


「さて、行こうか」


 静かに呟き、彼もまた一歩踏み出した。

 やるべき事は、もう定まったのだから。


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