第四章 ”黒翼”-2
カコン、と鹿威しの音が響く。その音に導かれるように、少女は目を開いた。
正座のまま静かに座する少女の前には、十数年の時を共に過ごした愛刀が置かれている。静寂と薄暗闇に包まれた部屋の中で、漆黒の鞘に包まれた刀は異様な存在感を示していた。
静かに息をこぼすと、首飾りがチャラリと音を立てる。胸元に下げられた勾玉は、彼女の呼吸に合わせるようにかすかに明滅していた。これも魅入られてから十数年ほどを共に過ごした腐れ縁だ。
ピクリ、と何かの気配を感じて少女は耳をすませる。
まだ音が聞こえる範囲ではない。しかし、警戒を促すように胸元の飾りはほんの少し早めの明滅を繰り返し、愛刀は冷ややかな雰囲気を醸し出す。しかし、それに少女は静かな笑みを浮かべた。
「……そう、気を荒げるでない。お前たちも、あれとは長かろうに」
そうこぼすと、渋々といったように彼女の装備は通常通りの雰囲気に戻る。
と、そこで廊下の方からトントンと規則正しいノックの音が聞こえた。
「良い。入れ、沖田」
「失礼いたします」
振り向きもしないまま、少女は障子の向こう側で立つ人物へ声を掛ける。
すると、言い終わるか終わらないかの内に返答が返ってくると同時に障子が開かれた。
入ってきたのは、壮年を過ぎた頃に見える男性だった。
髪はほとんどが白く染まっており、それだけを見れば歳をとっているようにも思える。
しかし、堂々とした立ち振る舞いと引き締まった体躯。そして何よりその柔らかい表情はとても若々しく、とうに齢五十を過ぎているとは到底わからないだろう。
実際、今でも初めて出会った人には三十代後半程度にしか見られず、若白髪のように思われるのが密かな悩みらしい。
閑話休題。
少女は正座を崩すことなく、また振り返ることもしなかった。男もそれを咎めることなく、少女の背後にあぐらをかく。
他の者が混じる正式な場であればそれぞれの立ち位置に合わせた配慮が必要になるだろうが、今この場に二人しかいないのであれば互いに遠慮する必要はないとでも言うように。
男はこちらに背中を向けたままの少女にかすかな一礼をした後、口を開く。
「申し訳ございません。本来であれば、鍛錬の時間でございましょうに」
その言葉に、少女は笑みを深める。
ただし、それは先ほど浮かべた安堵に満ちたものではなく、とても面白い芸を見せられて思わずこぼしてしまった、そんな微笑だ。
「礼を尽くすのがおんしの流儀とはいえ、やり過ぎては却って失礼というものではないか? 早めに切り上げたことも承知の上で訪れておる癖に」
「……それは」
「よい。私が自分を知る前から私を見てきたおんしのことだ。他の者ならいざ知らず、おんしに限っては不快ではない」
「ありがたいお言葉です。……静様」
「……そう呼んでくれるのはもうおんしだけよ、沖田」
自分の名前を呼ばれ、少女はすぅっと目を細める。自分の名前をこうも抵抗なく呼び上げられるのは彼ぐらいのものだ。
ゆっくりと、自らの前に置かれた愛刀へ指を走らせる。それに喜ぶようなかすかな震えが返ってくるが、それ以上の答えは流石にない。
無機物にそれ以上を求めるのは、流石に酷というものだろう。たとえそれが十数世代を超えて一族に伝わっている、伝説級の神器だとしてもだ。
「して、どうしたのじゃ。おんしのことだ、何の用もなく私の元へ来ることなどあるまい」
「それが……」
そこで、少女は初めて男性の方へと振り返る。
すると、彼が非常に苦々しい笑みを浮かべていることに気づいた。その表情に、静は大体の事情を悟る。
「……来客か」
「ええ。いつもの客間にて待たせておりますが、どうなさいますか」
「構わん。ここに通せ」
「……承知いたしました」
男が軽く礼をして部屋の外へと出て行こうとしたその時。
がっ、とその肩を止める両手が現れた。
「いえいえ、呼んでいただくには及びませんよ。私はもうすでにここにおりますので」
そのねっとりとしたどこか嫌な雰囲気を纏う男の声に、静は小さくため息をついて視線を部屋の方へと戻した。
この男はどうにも苦手だ。
妙な喋り方をする人間はこれまでにもかなりの数出会ったことがあるが、この男は特に奇妙な感覚を覚える。素肌をざらざらと触りたてられるような、背筋を無遠慮に撫で上げられるような、そんな悪寒にも等しい感触に見舞われるのだ。
……この男が提供してくれる情報については、逐一気味が悪くなるレベルで正しいためそれについては特に疑ったりはしていないのだが。どうにも、好きにはなれない男だ。
「おやおや、剣姫は随分とご機嫌斜めなようですねぇ。この前の獲物は、そんなにつまらない相手でしたか?」
「……“黒翼”、じゃったか。思ったよりも楽しめた方ではあるが……じゃが、それ以上ではなかったの」
「素っ気無いですねぇ」
くすくすと、後方から何が楽しいのか笑い声が響き渡る。
この男の意図は、相変わらず掴めない。思えば、初めて出会った時もこのような態度ではなかったか。
このように時期もつかめずにふらりと現れては、彼女に剣を向ける敵を与える。
それが良きにせよ悪しにせよ、敵を求めていた彼女としては乗る以外の選択肢はなかった。
だが、それに対して彼が手に入れている利益というのは、あまりにも読めない。
一度気になって調べさせたことがあるが、男の素性はようとして知れない。素性がわからなければ、目的も分かるはずがなかった。
とはいえ、静としてもそれ以上追求するつもりはない。そこにどんな意図があるのか知ったことではないが、彼女にとって不利益となっていない現状においては、彼の依頼を受けることは特に静にとって悪いものではないからだ。
静は強敵と出会えるチャンスをもらい、それによって男は何らかの利益を得る。その需要供給が保たれる限り、静にとって不都合はない。
「しかし、話題急上昇中の“黒翼”でもその程度で留まってしまうとなれば……これは、とっておきを紹介するしかなさそうですねぇ」
「……とっておき、じゃと?」
「大天使、この言葉に聞き覚えは?」
ぴくり、と静の眉が密かに上がる。
もちろん知っている。というよりも、この世界に身を置いているのであれば、知らないはずもない単語だ。
聖書に名を刻む存在。一つの文明を容易に滅ぼしうる、神話級の厄災。
そして、現実になおその存在を知らしめる究極の戦略兵器。
表向きの世界が必死に構築した戦力バランスを容易に崩壊させ、一手間違えれば世界戦争を引き起こしかねないほどの、超重要戦力。
魔導師として少しでも鍛錬を積んだ者であれば、触れるべきではない存在としてその名は知らされていた。
そして、静にとってその名前はより具体的な人物を思い浮かばせる。
“黒翼”と対峙した際に乱入してきた、茶髪の少女。
全身から燐光を迸らせ、濃密な魔力を持って彼女の前に現れた鋭い眼光の少女。
静の脳裏には、彼女の姿がよぎっていた。
「……無論、知っておるが」
「あなたが先日対峙した“黒翼”ですが、あの辺り一帯の守護を任せられているのにも理由があるようでしてね。知人曰く、大天使の器があの辺に住んでいるのだとか」
「……なるほどの。あやつの言うことは、まるっきり嘘でもなかった訳か」
「と、言いますと?」
「“黒翼”と対峙した時に、高校生くらいの魔導師が乱入してきおった。異常な量の魔力を漂わせておったが……なるほどの、大天使の器というなら納得もいく」
ただの噂でもなかったか。そう、静はひとりごちる。
“黒翼”のバックに強力な魔導師がいることは噂になっていた。その異名が“大天使”であることも聞き及んでいたが、それが本当に大天使を身に宿すが故のものだとは思い至っていなかった。
噂に尾ひれがつくのは当然のこと。異名など、その際たるものだ。だが、今回の一件は根も葉もある噂だったらしい。
にやり、とその口元が知らずのうちに釣り上がる。ぐちゃりと引き裂かれるように唇は真紅の三日月を描く。その雰囲気を感じ取ったのだろうか、男はへらへらとした笑顔をさらに深めた。
「既に情報が入っているのでしたら、話は早い。では、正式に依頼させていただきましょうか」
「依頼じゃと……?」
「ええ、依頼です。あれほどのものを相手にしていただくのですから、それ相応の対価をお支払いする必要があるかと思いまして」
ニヤニヤとした笑みを消さないまま、男はそうやって軽薄な口調で語り続ける。それがどうしてかとても不快だ。なのに、背後の気配を切り捨てるつもりはおろか、外へ叩き出す気にさえならなかった。
「国家間のバランスを崩しかねないレベルの一手ですからね。……このくらいは必要かと思いまして」
背後でどさり、という音を立てて何かが畳の上に放り出される。
視線だけを向けてみれば、そこには鈍い光を放つジュラルミンケースが投げ出されていた。数は、ざっと見た限り三つ。中身はおそらく……。
「とりあえず、こちらは前金です。もし足りないのであれば、上乗せ交渉には応じさせていただきますが」
傍に立ち続けている沖田へ視線を向ける。すると、彼はこちらに軽く礼をしてから放り投げられたジュラルミンケースを一つ手に取り、開いて見せた。
中に入っていたのは、ぎっちりと詰め込まれた一万円札の束。一つでだいたい一億程度入ると聞いたことがあるので、それが三つで三億。人一人を殺すには、過ぎた金額だ。
沖田はそのまま残り二つのケースも同様に開いていく。いくつかの束を手に取り検分していたが、すぐにこちらへと視線を戻した。
「おそらく、全て本物かと」
「……そうか」
ご苦労、と一声かけて沖田を一歩後ろへ下がらせる。
するといまだに気味の悪い笑みを浮かべたままの男性と、真正面から視線が合った。
相変わらず、何度見ても気分が悪くなる目だ。まるでこちらを値踏みするかのようにあちらこちらをさまよう鋭い眼光。その瞳は泥のように濁っており、まともな人生を歩んでいるようにはとても思えないルラルラとした輝きを見せていた。
(とはいえ、私も他人のことを言えた口ではないがの)
自嘲するように口元を歪める。そのまま静は口を開いた。
「大天使を狙うのは別に構わん。が、一つ質問させてもらおうか。……おんしの目的はなんじゃ」
「目的は単純ですよ。彼女の親に依頼されたからです」
「……親じゃと?」
「ええ。こう見えても私は顔が利く方でしてね。色々な場所を飛び回っているものですから、様々な方からお願い事をされることも珍しくないのですよ。まあ、多くはあれを持ってきてほしいだのといった簡単なものがほとんどですが」
「大天使に常人の親がいるとは思えんが?」
「それがいるのですよ。我々の世界に足を突っ込んでいるとは言え、あの器と比べればあの両名は悲しいほどに普通の人間でしかなかった。……だからでしょうねぇ、親にさえ疎んじられ居場所を失っていたのでしょうよ」
とは言え、追い出したのは得策ではなかったようですが。
そう囁きながら、男はクスクスと笑う。
その様はまるで蛇が舌なめずりをしているかのようで、静は自分の背中に怖気が走るのを感じていた。
「自分達の空間から締め出したまでは良かったのですが、大天使なんてものを生み出してしまったのですから。……そのままで終わるはずがなかったのですよ」
「まあ、それはそうじゃろうな。自然に生まれたにせよ、故意だったにせよ注目を浴びるのは避けられまい」
「そうですねぇ。そして、あのご夫妻はそれさえも嫌がられているのですよ。なぜ既に手放したはずの縁に囚われ続けなければならないのか、とね」
両手を広げて、彼はそう語る。その語り口はほんの少し劇がかっている。まるで自身が悲劇の狂言回しであるかのように、男は口を大きく開いて朗々と語り続けていた。
それを彼女は冷めた視線で見つめ続ける。
男はそれさえも楽しいのか、さらにくっくっと笑みをこぼして言葉を続けた。
「故に、彼らはこうせざるを得なかったのですよ。自らが生み出した騒ぎの元凶を滅することで、元の平安を取り戻す。それくらいしか、もはや彼らに方法は思いつかなかったのでしょうねぇ」
「……そうか、別に聞いて面白い話でもなかったの」
「おやおや、それは残念ですねぇ」
にたにたとした笑みを浮かべ続ける男に、静は今度こそ苛立ちの吐息を吐き出す。
ともあれ、真にせよ偽りにせよ相手の意図は既に確認できた。元々あの少女とはやりあうつもりでいたのだ。そこに格好の目的が飛び込んできたと考えれば、都合は良い。
どの道、静がやるべきこととやらなければならないことは変わらない。であれば、大義名分を持ってきてくれた男には感謝せねばならないだろう。
「まあ良い。元々あやつのことは何者かと気にしておったところよ。であれば、断る道理もなかろうて」
「それでは、受けてくださるという認識でよろしいのでしょうか」
「おんしのことは気に入っておらんが、おんしの持ち寄る情報は信頼しておる。……他の者には依頼しておるのか」
「いえ。何せ難度の高い依頼ですからねぇ。噂倒れの賞金首と違い、下手に手を出すと世界を敵に回しかねない。であれば、情報を出す相手もそれなりに選ぶというものでして」
「……そうか。であれば、邪魔は入らなそうじゃの」
小さな吐息をこぼし、静はしばし物思いに耽る。
時間にして数分ほどが経過しただろうか。閉じていた瞼を上げ、少女は男に対して返答をした。
「この依頼、受けよう。ただし、相応の準備をしてから臨ませてもらうがの」
「もちろんですとも。受けていただけるだけでも、十分というものです」
その答えに、男はより一層深まった笑みを浮かべる。
なんとも言えない気味の悪さを放つその笑顔をほんの一瞬でも目にしたくなくて、静は振り返ることをしない。それを知ってか知らずか、男はニマニマとした表情を崩さないまま静に対して背を向けた。
「それでは、私はこれで。吉報をお待ちしておりますよ、“東方不敗”」
「……終わり次第こちらから連絡を寄越す故、それまでは自由に動かせてもらうぞ」
「それはもちろん。よほどお時間を取らない限りは、ご自由にどうぞ」
暗に、「邪魔をしたらタダじゃおかないぞ」という念を込め、低い声で静は囁いた。その声に乗せられた気迫は届いているだろうに、男は軽薄な態度を崩さないまま飄々と言い放ってそのまま部屋を後にしてしまう。
邪魔されないことが確約されたことを喜ぶべきか、それともそれほどにすんなりとこちらの要求が通ることを訝しがるべきか。
(……今は、前者を取るべきかの。こうまであっさりと大義名分をよこしてくるとは思いもせんかったが)
多くの魔導師と刃を交え、その悉くを蹴散らしてきた“東方不敗”とは思えぬ思考かもしれない。
だが、この世界とは複雑な歯車の下に動いており、いかな少女とて何も考えずに動き回ることが出来る訳ではない。
……否、動き回ることはできようがその後が保証される訳ではないと言うべきだろうか。
自由気ままに切り刻む事は出来なくはないが、それを続ければまず間違いなくそこら中から目をつけられることになる。
そうなれば、今のような戦いは出来なくなり、泥の中を這いずり回りながら逃げ続けるだけの日々となるだろう。
静は、強者を追い求めている。
だがしかし、それは誰構わず噛み付いても良いという事ではない。
むしろより強き者と戦う機会を逃さないためには、守るべき一線というものがあるのだから。
だからこそ、男が依頼という形で今回の一戦を持ち込んできたのは、静にとっては朗報以外の何物でもなかった。
依頼主が本当に男の語った理由で依頼してきたのかどうかは不明だが、そこまで考える必要は現状無いだろう。
今最も考えるべきは、あの化け物とどう切り結べば良いのか。
ただ、それだけなのだから。
そう考えるだけで、全身にかすかな震えが走る。
「沖田、今の時間修練場は空いておるか」
「ええ。どなたも使ってはいらっしゃらないかと」
「そうか。……丁度良いの」
目の前に横たわる相棒を手に取り、音も立てずに立ち上がる。
左手に握られた漆黒の刀はまるで喜びを示すかのようにかすかな脈動を示し、首元の飾りは常よりわずかに強い光を発した。
これではいけない。
そう、浮き足立つ自分の心を沈めるべく深く息を吸う。しかし、一度昂り始めた拍動を戻す事は、今の彼女には到底無理な話だった。
今は、とにかくこれを発散できる場所へ。
それだけを考えて、静は部屋を後にする。
まだ陽は落ちていないが、外界に接していない廊下はひどく薄暗い。かすかに届く外からの光源だけを頼りに、少女は足取りを進めていく。
とは言え、どう少なく数えても十数年行き来している家の中だ。いかに広々としていると言えども、目当ての場に着くまではそうかからなかった。
木戸を開けば、そこには修練場がある。口元に出かかった笑みを必死に押し留めながら、少女は木戸を一息に開こうとした。
「……おや、またも修練か。相変わらず精が出るのう」
が、その手は背後からかけられた声にピタリと止まる。その声には嫌という程聞き覚えがあった。決して振り返りたくは無いが、どうしても無視をすることができないそんな声。
一気に苦味を増す表情を隠すことなく、静は声の主へと目を向けた。
「……父上」
「そんな渋い顔をするでない。先ほどまで随分と楽しそうにしていた癖に」
「そうとも。お前の楽しそうな顔など、久方ぶりに見たぞ」
「兄上もいたのですか。これは、見苦しい所を」
ほんのわずかに頭を下げると、父と兄の表情が緩められるのを感じた。だがそれは肉親に向けられるべき心温まるものではない。
むしろその逆。貶めるべき存在を蹴飛ばすことに成功した、そんな侮蔑混じりの顔だ。それがわかっているからこそ、静は顔を上げない。
その娘であり妹でもある少女を前に、気味の悪い笑顔を貼り付けた男二人は無遠慮に語りかける。
「こらこら、そう簡単に頭など下げるものではないぞ。なにせ、私はすでに隠居の身。お前は現当主なのだからな」
「そうだぞ、静。私とてお前のことを誇りに思っているのだから、そんな姿は見せないでおくれ」
そう、満面の笑みで二人は口々に言い放つ。
口元には愉悦を携え、しかし目は不気味に爛々と輝きながらそう囁き続ける。
当主。
そう、当主だ。源家の後継にして、現当主。
それが源静に与えられた、役割にして足枷だった。
それもこれも、この身に付けた宝具達に選ばれたからであり、呪われたからでもある。




