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第三章 ”東方不敗”−3


「ぎ、あ……ぐ、うぅ……」

「おんし……」


 口元から、情けない声が溢れる。だが、声を出せること自体が僥倖だ。土壇場での賭けとはいえ、うまくいってくれた事に、ひとまず安堵の吐息をこぼす。

 “東方不敗”の目が見開かれていた。

 いい気味だ。こっちとしてもギリギリの手段だったが、相手の度肝を抜くことが出来たのであれば、上場と言えるだろう。


 彼の首を引き裂かんと飛びかかってきた銀の光は、琉衣夜の左腕に止められていた。ただし、無傷で止めるという訳には流石にいかなかった。その証拠に、手のひらから腕を伝って血が地面へとこぼれ落ちている。

 しかし、その程度の怪我で致命傷を避けられたのだ。贅沢なことは言うまい。


 にい、と唇を歪ませて無理やりに笑みの形を作った。手の中にある刃をさらに強く握りしめ、ぐいっと自分の方へと引っ張る。


「捕まえた」


 低い声で笑いかける。

 虚勢に近い、何の意味もないただの笑み。

 にも関わらず、その笑顔はどうしてか見る者の背筋に寒気を走らせる何かを発していた。


「ようやるわ。ただの手で私の刀を捕まえる、じゃと?」

「ただの、じゃねぇよ。あいにく、俺の体は普通の人間に過ぎないんでな」


 だから、と口元をさらに深く歪ませる。

 答えるように、コポリとかすかな音を立てて手の内側から真っ黒な何かが滲み出した。


「こうするしか、なかったのさ」


 “黒”か。そう思い当たった“東方不敗”だが、目の前の光景に違和感を覚える。先ほどまでの動きを見るに、彼は“黒”を設置ないし展開を基本として立ち回っていた。

 だが、今彼の手の中にある力はどこから湧いてきたモノだ?

 そんな、普段なら気にもしないような違和感。しかし、少女の抱いた疑念は目の前で展開される光景によって無理やり解決された。


 初めは、左腕にぽつりと現れた黒いシミだった。それだけなら汚れか何かだとしか思わないだろう代物に過ぎないが、それは次の瞬間ぬらぬらと蠢いてその大きさを増し始める。

 しかも、これまでのように外側から現れるのではない。皮膚の内側から、まるで這い出るように出現し、少年の体を覆っていくのだ。

 ズルズルズルズルと、琉衣夜の全身が真っ黒な泥に覆われていく。

 その光景は、まさに異様としか言いようがなかった。それはまるで急速に感染する病班のように、黒点は彼の腕を塗り潰してさらに広がっていく。


 それを目にしながら、琉衣夜は凄絶な笑みを浮かべていた。


(ここまで体に浸透させるのは初めてだが……今はこれしかねぇ)


 ズキズキと頭が痛む。視界は普段よりも狭い。しっかり力を込めていないと、顎が勝手にカチカチと鳴り出しそうだ。必死に握りしめているから今はバレていないだけで、腕も震えてしまいそうになる。

 ここまで“黒”を体内に取り込んだのは、大天使と交戦した時以来だろうか。

 それ以降は自らの形質オプティムが自身にもたらす副作用を理解したが故に体内へ進入させることは避けていたし、何よりこれを必要とする場面がほとんどなかった。

 故に、今改めて思う。

 人の悪意というものが、どれほどまでに辛辣で冷酷で凶悪なものなのか。彼は、今まさに身にしみて再認識していた。

 表皮に走らせるだけでひしひしと感じていた悪寒が、体に入れた途端実質的な脅威として彼の全身を駆け抜ける。生への渇望、未だ生き続けている者への嫉妬、消失してしまうことへの恐怖、自らをこの世から消滅させた原因に対する憎悪。そういったドロドロとしたマイナスの感情が容赦なく琉衣夜の脳内を埋め尽くし、彼をまた同じ者に貶めんと全力で引き摺り下ろしにかかる。

 ただそれだけで、胃の中の物を全て吐き出してしまいそうになる。

 脳内で何度も繰り返される断末魔の光景が、生にしがみつこうとする絶叫が、彼の心を抉り叩き潰しにかかる。

 さっきまで全身で受けていた紫の重圧など、これに比べれば何の障害にもなりはしない。それほどまでに濃密な負の感覚が指から足の先まで走り抜ける。


 だが。


(うるせぇよ……!)


 口元の笑みをさらに深め、牙と戦意を剥き出しにして彼は自らの内を駆け巡る悪意の群衆に吼える。

 ギリギリと手の中の刃に、自らの拳さえも砕かんばかりの力を込めていく。掌にできた傷が鋭い痛みを発していたが、自分の意識を鮮明にしてくれるという意味で、今の少年にとっては好都合だった。


(テメェらの事情なんて知ったことか。今こうして叫んでいられるのは俺のおかげだろうが。なら、黙って力を貸しやがれ……っ!)


「……おんし、何故そこまでして」

「あぁ? んなコト聞いてる場合かよ。……ほら、もう準備が終わるぜ」


 琉衣夜の囁きかける言葉に、戸惑うようだった“東方不敗”の表情からすっと感情が抜け落ちる。

 だが、もう遅い。


「……ダラァッ!」


 全力で握り締められた拳が、銃弾の如き勢いで“東方不敗”の腹部に突き刺さる。手応えはあった。それに、敵の魔導や阻害は一切受けていない。今回の戦闘で、初めて敵に与えたダメージだろう。


「ご、ぅあ……っ」


 “東方不敗”の口元から、空気が抜けていくのが聞こえた。その体がくの字に折れ曲がる。だが、それを見て喜ぶような余裕は、今の琉衣夜にはない。

 ビキビキビキビキ! と打ち込んだ拳から肩の辺りまで、血管が膨らむような感覚と共に痛みが走る。刀を握る左手がどうしようもなく震えてしまう。力を込めているはずなのに、その感触が感じられない。


「ぐ、ぎぃ……くそ、がっ」


 もう一撃、と腕を引き戻す。だが、追撃の一打を叩き込む時間は与えられなかった。

 腕を引いたその瞬間琉衣夜の腹部に衝撃が走り、同時に感覚の鈍くなった左手から刀の感触が消えるのが何となくわかった。おそらく、腹の辺りに蹴りを入れられたんだろう。黒の壁に遮られて衝撃はダメージにはなっていない。

 ふぅ、と大きく息を吐き出す。対し、“東方不敗”も同じように深々と息を吐いて刀をこちらへ向け直した。


「良い一撃だった。じゃが、随分と余裕がないらしいな」

「どうかな。アンタもあまり顔色が良くないぜ。この領域、結構負担になるんじゃねえの?」

「さて。それをわざわざ敵のおんしに言ってやるとでも思うておるのか?」

「お互い様だ」


 軽口で返しつつ、琉衣夜は息を整える。体内に巡っている漆黒の衝動は、最初ほど激しいものじゃない。今のこの感覚なら戦闘自体に問題はないだろう。


「さあ、続けようか」


 少年は、口元を吊り上げる。それは不敵に素敵で大胆な、獲物を狩る肉食獣を想起させる微笑。

 身に宿した黒き猛りを掌握、自らの魔力として練り上げ外部からの重圧に対する障壁として再度展開する。同時に地に潜む悪意の群れに語りかけ、自身の身体へ呼び込むことで新たな力を生成していく。

 途端に頭痛がひどく激しさを増し、ぼんやりと視界の端が涙を浮かべた時のように滲み、薄れ始めた。反対に、体の感覚は酷くボヤけたものに変わり果てる。自分のものであるはずなのにその確証が得られない、そんな朧げなものに成り果ててしまう。

 けれど、ここで飲み込まれてしまう訳にはいかない。

 ガリリ、と唇を噛んで痛覚を無理やり刺激する。それこそ、噛み切ってしまいそうなほどに強く、強く噛みしめる。そうすることで、この身が自分のものであるとはっきりと意識に投げかけた。

 それを境に、一気に視界が明瞭に変わる。

 ぼやけていた視界はすうっと元の姿を取り戻し、握り締めていた拳に鈍い痛みが走り始めた。どうやら、気づかぬ間に相当強く握り締めていたらしい。

 力を緩めて一度掌を開き、改めてもう一度硬く握りしめる。

 それで、準備は完了した。猛獣の笑みを途絶えさせることなく、彼は大きく口を開く。

 咆哮と共に、琉衣夜は進撃を開始する。


「ちっ」


 瞬間を駆け抜けて懐まで飛び込んできた黒い影を前に、少女は躊躇なく刃を振るった。目で追っていては反応が間に合わない。ならば、自らの感覚と経験に任せて迎撃する方がまだ望む結果を得られるだろう。

 そう考えて振り抜いた一閃は、しかし虚空を切り裂くにとどまった。


「おせぇよ!」


 声が聞こえてきたのは、背後。

 振り向く暇すら与えずに、琉衣夜が右の拳を突き出した。それは、漆黒に染まった致死の一撃。毒蛇の如き禍々しさを湛えた右手は、しかし標的をとらえきれずに静止する。

 紫の重圧が、主人を守るべく放たれたからだ。

 ずっ、という音すら錯覚するほどの勢いで、障壁の内外の重力が変動する。即座に反応した“黒”が魔力の源を喰らい尽くすべく重圧に対抗し始めるが、そのせいで琉衣夜の動きが一瞬停止した。

 そこに、“東方不敗”の斬撃が襲来する。


「今度は逃さんぞ?」


 いたずらっぽい笑みを浮かべ、振り向いた“東方不敗”は手に持つ刀を袈裟懸けに振り下ろす。足を止めた相手に対する何の容赦もない一撃。退避は紫紺の輝きに阻まれて許されない。

 故に、琉衣夜はあえて前に出る。


「お、ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 自らを鼓舞するように吼え猛り、黒の出力を一時的に限界ギリギリまで上昇させる。瞬間、彼の体が爆発的な推進力を得て飛び出した。

 後ろへ、ではなく前方へ。自らの意志で、彼はさらに前へと踏み込んでいく。

 別に自棄を起こした訳ではない。今この状態で後ろへ下がった所で、肉弾戦でしか活路を見出せない琉衣夜にとって利点はない。“黒”によって延長が出来るとはいえ根本的なリーチはあちらに利があり、制圧射撃も紫紺の障壁で妨害されてしまう。

 であれば自らの敗北を高める後退よりも、一縷の希望を賭けた前進の方がよほど意義がある。

 果たして、彼の賭けは琉衣夜にとって有利に働いた。

 彼が思ったよりも前に出たことにより、相手の斬撃は勢いに乗る直前で琉衣夜の元へ届いてしまう。そして全霊の一撃でなければ、その程度の攻撃は取るに足らないものだ。

 ざちゅり、という生々しい音を立てて、彼の左腕に刀が振り下ろされた。だが、その一撃は彼の腕を落とすには至らない。衝撃で体勢が崩れそうになるが、左足を杭のように地面へ突き立てて身体を固定する。

 ほんのかすかに、ビリビリとした痛みが左腕から伝わってきた。もしかしたら、黒を貫通して刀が肌を切り裂いているのかもしれない。けれど、その程度なら何の問題もない。既に周辺の黒い塊がわらわらと集まり、傷の修復を開始していた。秒もおかずに、あっさりとその程度の傷は消失してしまう。

 ぎりぎりと腰だめに右腕を振りかぶり、次の瞬間力を込めた正拳突きを放つ。

 銃弾の速度で叩き出された一撃を、生身で止めることはできないはず。半ば確信して打ち出された一突きは、しかしごきん! という硬い感触と共に食い止められた。

 彼の一打を止めたのは、“東方不敗”の華奢な左膝。拳を正面から受けるのではなく、下から跳ね上げる形で迎撃することで余計なダメージを食らうことなく往なしてみせたのだ。

 予想外の対応に、琉衣夜の思考は留まることなく次の一手を弾き出した。はね上げられた腕を戻す勢いでそのまま左足を振り、相手の体を支えている右足を払いにかかる。

 対し、“東方不敗”は片足で軽やかに跳躍した。足一本で跳んだにも関わらず、あっさりとその細身の体が数メートルは飛び上がる。


「“黒”襲え!」


 即座に待機していた自らの力へ呼びかけ、応えた漆黒のうねりが空中の少女へと襲い掛かる。いかに“東方不敗”とはいえ、空中では動きに制限がかけられる。そして、“黒”の迎撃が一瞬でも遅れれば大量の魔力と生命力を食い荒らされることになるだろう。


(そうすりゃ、ちったぁ楽になるが……そうもいかないか)


 内心想像した通り、紫の領域が展開された。瞬間、少女へと追い縋る黒い泥が一瞬で地へと叩き伏せられてしまう。半分予想通り、半分期待違いといったごちゃまぜの表情で琉衣夜はため息を一つ吐き出す。

 これは困った。勝利への明確な一手が見えているのに、その一手が果てしなく遠い。


(やれやれ、あっさりと勝ちって訳にもいかないみたいだな。……まあ、その方がありがたいが)


 ニンマリとした笑みを口元に浮かべる。それは、目の前の困難な障害を前にして喜んでいるような、そんな微笑だ。

 次の瞬間、琉衣夜の体がブレて見える程の速度で動き出した。向かう先は上空。彼方へと跳躍した少女を追いかけるように、少年はその身を砲弾と為して空を駆け抜ける。

 当然、こちらから視線を切っていない“東方不敗”にはその姿が見えていた。認識した瞬間彼女の胸元が紅に輝き、その刹那紫紺の領域が再展開される。

 無論、その狙いは空中に飛び出した琉衣夜だ。逸れることなく違うことなく、紫の力場はまっすぐに彼を包囲する。少年の全身が光に触れた途端、ズッと言う耳障りな音を立てて重圧が放たれた。

 対して、琉衣夜は特に反応しない。紫の光が彼を覆い尽くそうとするのを一瞥しただけで、そのまま少女へと視線を返す。

 それを見て、“東方不敗”は首を傾げていた。

 重力の檻に捕らえられれば、少年の体は地に叩き付けられることになるだろう。もし彼の異能で抵抗された所で何ら関係はない。武の領域の範囲は、彼女が認知しうる領域全てに及ぶ。簡単な話、彼女の目と耳が感知できるのであれば、それは既に紫紺の重圧の射程範囲だ。

 そして、先ほどまでのやり取りを見ている限り、彼の異能では少女の領域を突破できない。少年の体に宿されている力であれば抵抗はできるようだが、その身から離れてしまえば最大出力はたかが知れている。

 それが理解できない琉衣夜ではないはずだ。にも関わらず、何故彼はわざわざ距離を詰めてきているのか。


「何ぞ考えがあるのかもしれんが……」


 自らの右手に携えられた刀へほんの少し意識を傾けながら、少女はぽつりと囁いた。だが、この刀を振る必要はないだろう。次の一瞬で、彼女の力に包囲された少年は地に叩き落される。

 地を這うことはないにせよ、これ以上距離を詰めてくることはない。


「まだ、足りぬようじゃな。無様に、地へ落ちよ」


 言葉と共に、琉衣夜の全身を紫の力場が覆い尽くし圧倒的な重力が解き放たれる。先ほど“黒”をまとめて消し飛ばしたものと何ら変わらない一撃。空間さえ歪んで見えるほどの出力に、威力をまともに受けてしまった地面がビキビキと音を立てて割れ始める。

 しかし、次の瞬間。

 “東方不敗”の視界を、漆黒の一閃が埋め尽くした。


「……ほう」


 空中であるにも関わらず器用に体を動かして、“東方不敗”はその一撃をあっさりと避けてのける。だが、その表情からは先ほどまで浮かんでいなかった警戒の色があった。


「驚いたぞ。まさか、ここまで到達するとはな」


 視界を戻し、琉衣夜へ語りかける。

 そこには、紫紺の領域に覆われているにも関わらず未だ空中へ留まったままの琉衣夜の姿があった。その背には真っ黒な翼が展開され、周囲から圧力をかけ続ける紫の力場を牽制し続けている。


「そうかい。こっちも何となくてめぇの力に対抗する方法がわかってきた所だ」

「そうか? 私としては、その言葉が虚勢でないことを祈るばかりじゃがの」

「言ってろ。余裕ブッこいてられるのも、それまでだ」


 言って、琉衣夜は“黒”へ語りかける。

 地の底に眠る悪意の群れがいくつもの流れとなって再び集い、琉衣夜の力へと変換されていく。自分の管理下に掌握した魔力を両腕へと集中させながら、彼は“東方不敗”へと鋭い視線を向ける。

 さっきまでの攻撃は、“黒”をそのまま使役し振るっただけに過ぎない。ただの魔導師であればそれだけでも十分すぎる武器となるが、こいつには通用しない。ただ切り出しただけの棍棒が見た目としては脅威であっても、研ぎ澄まされた刀には打ち勝てないのと全く同じ。

 であれば、どうするか。答えは単純だ。

 人の手を介し、鍛え上げてやればいい。ただの原石を丁寧に鍛造し、研ぎ澄ますことで一振りの名剣を生み出すように。体内で今にも暴走し始めそうな衝動を一点に集中。それぞれの欲望のままに敵を追い求めていた状態から、ただ目の前の敵を討つ為の一撃と為す。


「    、     」


 琉衣夜の口がかすかに動き、何らかの言葉を紡ぐ。

 その声は少女の耳には届かない。さらに加えて言うのであれば、そちらに気を向けることさえ許されない。

 少年の振り放った一撃が、紫の力場をあっさりと引き裂いて彼女へと襲来したからだ。


「ぬぅ……っ!」


 研ぎ澄まされた斬撃の如き黒閃に、“東方不敗”も流石に表情を変えて回避した。先ほどまでとは、明らかに一撃の威力が変わっている。先ほどまでは彼の体を離れた途端に同一の異能とは思えぬほどの威力にまで下がっていたにも関わらず、今の一閃はあっさりと少女の武の領域を超えてきた。

 奴は、と少年へ視線を戻した瞬間、琉衣夜の腕が虚空を裂いて二撃目を放つ。明らかにこちらが回避する事を見越した上で放たれた一発。まず間違いなく、直撃するであろうコースを漆黒の煌めきが飛来する。

 目前に迫る強大な一撃を前にして、しかし“東方不敗”は自分が取るべき選択肢を間違えない。

 すなわち、迎撃。無理に回避しようとすれば、三撃目を合わせられる可能性が高い。その危険を冒すよりは、迎え撃つ方が更に先の一手に対しても対応できるだろう。そう判断し、“東方不敗”は愛刀を構え直す。

 決断してからは早かった。構え直した途端、その意識はただ目前に迫った黒撃を断ち切る事に集中され、その刀は持ち主の意に応えるように紫の光を反射して怪しく輝く。

 接触は、ただ一瞬。しかしその一瞬で、明確に結果は分かたれた。

 ザシュリ、というやけに生々しい感触と共に、漆黒の一撃が両断される。真っ二つに引き裂かれた黒い衝撃波は、数秒ほど形を留めていたが空気に溶けるように消失していった。

 その最後を目にして、少女はほんの少し安堵したような吐息をこぼす。

 それこそが、致命的な隙となった。


「何安心してんだ?」


 声が、背後から響く。背筋にゾッと緊張感が走った。

 振り向いた瞬間、凄絶な笑みを浮かべた琉衣夜が両腕の暗黒を解放した。

 クロスされた漆黒の両撃はあっさりと展開されたままの紫の領域を破壊し、少女の目前へと肉薄する。回避も、迎撃も、思考が追い付いた時には最早間に合わない所まで追い詰められてしまっていた。

 直後、爆発じみた衝撃と共に、“東方不敗”の小さな体が吹き飛ばされる。

 ドシャリ、と言う鈍い音を立てて少女が地に叩きつけられた途端、周囲を圧迫し続けていた紫紺の力場が消え去った。


「やった、か……?」


 ぽそりと、琉衣夜は小さくこぼした。

 途端、全身がぎちぎちと嫌な音を立てて軋み始める。今の今まで無理やりに体を動かし続けていた代償が、今になって一気に全身を侵食し始めていた。

 着地し、未だ体に留まったままの“黒”を解放する。留めていた力が抜けていく度に、胃の中のものを全て吐き出してしまいそうな感覚とこのまま全身を投げ出してしまいたくなるような疲労が全身を苛んでいく。


「うあぁ……だから、この力は嫌なんだ」


 誰にも聞こえない程度の声を、口の中で転がす。そうでもしないと、胃の中身をぶちまけてしまいそうだった。

 だが、これで勝つ事が出来たのであれば必要な代償だっただろう。そう考えて無理やり折れそうになる自分の思考に折り合いをつけようとする。


 しかし、その思考は耳に届いた一言に叩き潰された。


「良い、一撃じゃった……ここまで傷付けられたのは、久方ぶりじゃ」


 視線を地に伏していた少女の方へ戻す。すると、フラフラとした挙動ではあるが、“東方不敗”は確かに自らの足で地に立っていた。

 その右手には、未だ刀が握られている。その目には、未だ闘志が満ち溢れている。その体からは、未だ戦意が放たれていた。

 くそ、と毒づきながら再度“黒”を展開する。だが、その速度は先ほどまでに比べて明らかに遅い。一度気を緩めてしまったが故に、彼の体がまだ戦闘態勢に入りきれていないのだ。必然、彼の意思によって操られている黒の動きも鈍ってしまう。

 対し、“東方不敗”は戦う姿勢を見せた琉衣夜に嬉しそうな笑みを浮かべる。


「そうじゃ、それで良い。このままでは終わらせん、ここで終わりなどとつまらんことは言わせんぞ……?」

「随分な執着だな。こっちは最後まで付き合う気は無いぞ」

「つれないことを言うでない。ほんに久方ぶりに楽しい相手に出会うたんじゃ、もう少し楽しませろ」

「ふざけやがって」


 吐き捨て、再集合した“黒”へ語りかける。再度練り集めた力を自らの体へ馴染ませようとした所で、異変が起きた。


(ぐ、あ……何だ、これ……っ⁉︎)


 ビギビギビギ! と全身の筋肉が不気味な挙動を示す。今の今まで出力は落ちていながらも機能していたはずの異能が、ここにきて正常に動かなくなっている。

 何故? それがわかれば、苦労はしない。


「が、ぎぃあ、あ……っ」


 苦悶の息をこぼし、たまらず少年は膝を折る。呼びかけに応えて再度集まり始めていた力はあっさりと消失し、代わりに全身がへし折れ砕けそうなほどの苦痛だけが彼の全身を駆け巡る。

 ごぽ、と口から何かがこぼれ落ちる感触があった。大地に目を落とせば、そこには真紅の花が咲いている。口元に手をやれば、掌にべったりと真っ赤な血が付いていた。その光景に、自分の身に何が起きているのか理解ができずに思考が真っ白になる。

 途端、激痛は更に強大な波となって彼の全身を飲み込んでいく。


(な、んだよ、これは……こんなこと、今までなかったぞ……っ⁉︎)


 内臓ごと引っくり返したような吐き気と、指先を動かすことすら億劫に感じられるほどの倦怠感、そしてそれらを塗り潰すほどの激痛が同時に全身を襲っていた。力の制御に回すだけの集中力はおろか、目の前に敵がいるにも関わらずそちらに意識を向けることすらままならない。

 ただただ自分の身に起きた異変に翻弄されるばかりで。


「なんじゃ、随分と興ざめじゃの」


 そんな、涼しげな声が響く。

 声に導かれて顔を上げれば、そこにはつまらないものを見る目でこちらを見下ろす“東方不敗”がいた。


「少しはできるかと思うたのじゃが、先の動きが限界か。であれば、これ以上見るものもないの」


 ひゅん、と少女の右手に握られた刀が軽く振られる。“東方不敗”はそのまま数秒ほどうずくまる少年を見つめていたが、何もできないと見るやため息を一つ吐き出して刀を振り上げた。


「せめてもの礼じゃ。苦しませぬよう、一撃で終わらせよう」

「く、そ……っ」


 苦々しげに吐き捨てるが、その一言もゴポリと吐き出された血塊にそれ以上の言葉を封殺されてしまう。“東方不敗”はその有様にすっと目を細め、無言のまま刃を振り下ろす。


 瞬間、純白の閃光が世界を塗り潰した。


(……生きて、る?)


 目を閉じ、地へと顔を向けていた琉衣夜は、数秒が過ぎてもなお自分の意識がここにあることに気付く。

 不思議に思い、顔を上げる。すると、そこには茶髪をなびかせながら“東方不敗”と少年の間に立つ少女がいた。

 それは、さながら今にも消えてしまいそうな命を救うために現れた天使のように。


「る、な……?」

「間に合ってよかった。いつも、無理しかしないんだから」


 肩越しに視線をこちらに向けながら、瑠奈はそう囁く。しかし、その口元に称えられた微笑は、ひどく優しくてとても暖かくて。

 琉衣夜はここが戦場であることも、自分の身を襲う激痛さえもほんの一瞬忘れ去ってしまう。


「……なんじゃ、おんしは」

「こんばんは、“東方不敗”さん。何も知らないで彼を襲ったんだとしたら、ただの間抜けでしか無いわよ」


 “東方不敗”の憎々しげな視線を真っ向から受け止め、瑠奈は皮肉げに微笑んだ。その全身からは、羽にも似た純白の燐光がはらはらと生み出されては地へと落ちていく。それは、彼女が臨戦態勢にあることを端的に示していた。

 対し、“東方不敗”は落ち着いた口調で淡々と述べる。


「大天使を宿す者、か。まさか、主人が出張ってくるとは思うてもおらんかったがの」

「あら、それはごめんなさいね。私にとって、世界の大抵のものより彼の方が重要なのよ」


 にっと唇を吊り上げて、光纏う少女は言葉を返す。対し、刀持つ少女は楽しげな笑みをこぼした。


「なるほどの。これは楽しげなやつに出会うたわ。今すぐ切り結びたい所よ」

「別に、私はそれでも構わないけれど? むしろ、結構苛立ってるからそっちの方がありがたいわ」

「ふむ……じゃが、今宵はやめておくかの。私は全力全霊では無い。おんしはそっちの小僧を気にしなければならない。出来うる限り、互いに何も気にせん状況が良いからの」

「へぇ、逃げるんだ」

「挑発には乗らんよ。やり合いたければ追ってこい。付き合うてやる」


 途端、互いの全身から殺意と闘志が発される。純白の戦意と、研ぎ澄まされた銀の闘気が両者の中間でせめぎ合い、練り上げられた魔力が二人の体から漏れ落ちる。

 だが、視線を切ったのは瑠奈の方だった。


「行きなさい。次に視界に入ったら、容赦無く潰すから」

「ふん、承知した。次に会う時は、互いに死合うつもりで出会おうぞ」

「死ぬのはアナタだけどね」


 行け、とでも言うかのように、ぞんざいに手を振る。それに“東方不敗”は怪しげな笑みを一つ残して背を向けた。トン、と軽い足音が聞こえたかと思えば、次の瞬間にはその姿はどこにも見当たらなくなっていた。

 後に残されたのは、苦しみに喘ぐ琉衣夜と超然として立つ瑠奈だけで。


「もう、琉衣夜は本当に無茶ばかりするんだから」


 そう言って、瑠奈はうずくまったままの琉衣夜に手を伸ばす。その手が触れた途端、ひんやりとした感触と共に全身を苛んでいた苦痛が少しだけ和らいだ。

 それで緊張の糸が切れたのだろうか。琉衣夜の脳を、眠気が覆い始める。

 しきりに瞬きをして眠りに落ちまいとする琉衣夜へ、瑠奈は微笑みかけた。


「良いのよ、琉衣夜。今は少し眠って」

「けど、瑠奈……」

「良いから、ね?」


 まるで母親のような優しい言葉に負け、琉衣夜の意識が暗闇に落ち始める。

 全身を蝕んでいた痛みが、まるで嘘のように溶けていく。先ほどまで悪意の力を酷使していたにも関わらず、眠りに落ちる感覚はいつも通りのものだった。


 けれど、脳裏に浮かぶのは無念と無力感だった。


 痛みが薄れ、眠りに落ちようとする中で、けれどそれ故に先ほどまでの戦いを冷静に見返す自分がいた。

 途中まではよかった。自分の力で“東方不敗”と真っ向からやり合い、相手の隠し球をいくつか引きずり出した所までは文句なかったはずだ。

 問題は、その先。突然の異能の不調と、それに伴う戦闘不能。そして極め付けは、引き離したはずの瑠奈の戦闘介入。

 思い返すだけで、どうしようもない負の感情が込み上げてくる。

 こうならない為に、これまでの間努力を重ねたのではなかったのか。こうならない為に、自分は戦いの日々に身を投じていたのではないのか。

 にも関わらず、また同じ醜態を晒して自分は何をやっているのか。


 そんな行き場のない怒りが、自分の中でぐるぐるとかき混ぜられて。


(くそ、ったれが……)


 毒づき、少年は眠りに落ちていく。

 夜は、まだ明けそうにない。


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