第三章 ”東方不敗”−2
「……はぁ」
小さなため息をつく。
すると、左隣に座っている少年—国東だっただろうか、が声をかけてきた。
「大丈夫、瑠奈ちゃん? 楽しくない?」
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけだから、気にしないで」
そう答えると、国東はこくりと頷いて歌っている人間を囃し立て始めた。
それを横目にしながら、瑠奈はもう一つひっそりとため息を吐いた。
「あんまり、楽しくはないな」
ぽつりと呟く。
けれど大音量がその言葉を塗りつぶし、他の誰かに届くことはなかった。
視線の先では、クラスメイトの男子が流行りのポップ・ミュージックを熱唱している。それを、周りの数名が声と手拍子で盛りたてていた。
さっきまでは瑠奈もあの場所にいたけれど、少し疲れてしまった。
ふう、と一つ息を吐いて自分のコップに手を伸ばす。
すっかり炭酸の抜けきったコーラが喉を通り過ぎていく。ベタ甘なその感触に顔をしかめながら、しかし残り少ないその飲料をそのまま飲み干す。
込み上げてくる妙な感覚を無理やり押し殺しながら、少女はグラスを片手に部屋を出た。
ドリンクバーは、部屋から少し離れた所にある。
普段なら煩わしく思うかもしれないが、今はそうでもない。むしろ、あの部屋から少しでも離れられる方が好ましかった。
時間が割と遅くなってきているからだろうか、自分達の他にほとんど客はいないらしい。ドリンクバーの前はガラガラだった。
オレンジジュースのボタンの下にグラスを置き、少女はボタンを押す。
ブーン、という低い音と共に吐き出される橙色の液体を目にしながら、瑠奈はぼんやりと物思いに沈んでいた。
そのせいか、あふれたジュースが手にかかってしまう。
「わ、っとと」
「あらあら、何やってんの」
ぴっぴっ、と手を振っている所を、トイレに行っていたらしい親友に見られてしまう。
呆れ顔でこちらを見ていた龍音はすぐそばにあったティッシュを手に取り、こちらに渡してくれた。
「はい、これで足りる?」
「ありがと。多分大丈夫」
ベタベタする手を、眉をひそめながらティッシュで拭く。
少しペタペタする気はするが、そのうちなくなるだろう。そう考えて、少女はグラスを手に取った。
その仕草を見ていた龍音は、こちらの顔を覗き込みながら声をかけてくる。
「楽しんでる?」
「ん? まあ、ね。少しは」
「素直だねぇ」
瑠奈の何とも言えない返答を聞いて、龍音は苦い笑みをこぼした。
このカラオケに入ってから、瑠奈のテンションは低いままだ。最初のうちこそ周りに合わせて盛り上げようとしていたものの、それもすぐに無理が出たのか端の方で他の人が歌っているのを聞く側に回っていた。
別に、歌うのが嫌いって訳じゃ無い。
他の人が歌っているのを聞くのも、別に悪くは無い。
ただ。
「琉衣夜がいないと、楽しくないかな……」
「ほんっとに重症よね。アンタもアイツも」
やれやれだわ、と頭を抱える龍音に、今度は瑠奈が苦笑を浮かべる。
本当のことなのだから、仕方ない。
普段二人で遊んでいるから気にならなかったが、今回他の人と一緒に遊んでみてはっきりと理解した。
他人と一緒に遊ぶ時間よりも、琉衣夜と一緒に過ごす時間の方が、彼女にとっては圧倒的な意味を持つし、価値がある。
もちろん、他の人と過ごす時間が無駄だとは言わない。
国東がどういう意図を持って二人を誘ったのかはわからないが、それなりに楽しいとは思う。
ただ、こうして過ごすより琉衣夜と一緒にいたいという思いが強いだけで。
「まあ、龍音と二人の方が私は合ってるかな」
「嘘つき。ほんとは琉衣夜と二人の方が良いくせに」
「ばれた?」
「バレバレ。ほんと、何であのバカは気づかないのかしらね」
「琉衣夜は琉衣夜で大変だから」
「んなこと知ってるわよ。だから余計に言ってんの」
わざとらしくため息をつく龍音。
それに、瑠奈は微笑を浮かべたまま何も返さない。
「じゃあ、戻ろっか。龍音、ごめんだけど隣に座ってくれる?」
「国東との間に入れってことでしょ」
「ごめんね」
「良いわよ。私も見ててイラつくし」
ふん、と鼻を鳴らす龍音にもう一つ「ごめんね」と謝って瑠奈も歩き出す。
後ろをポテポテとついてくる瑠奈に、龍音は肩越しに彼女を見やりながら囁いた。
「……アイツにもさっさと気づかせてやんなさいよ」
「……うん、頑張る」
瑠奈の返答に、龍音は納得したのかかすかに唇を釣り上げて前を向く。
その後ろで、瑠奈もまた微笑を湛えていた。
夜の宴は、まだ終わりそうにも無い。
けれど、この友人が隣にいるのならばもう少しは大丈夫そうだった。
◆
琉衣夜は夜の道を往く。
片手にブラックコーヒーの缶をぶら下げ、はたから見ればふらふらとした足取りで、しかし少年は前だけを見つめて歩いていく。
目前に広がるのは、果てまで続くようなアスファルトの一本道と、左右に広がる堤防。そしてせせらぎの内に月を反射する真っ黒な川と、その向こう側に見える夜の街。
夏が近いせいか、日が落ちてそれなりに時間が経っているのに蒸し暑い。
虫の数も増えているのだろう。そこかしこから鳴き声と動き回る気配が感じ取れた。
だが、少年はそんなことには目もくれない。
ただひたすら、目的地へと歩き続けていく。
迷うことはない。
まるで誘うように放たれる魔力が、少年をその場へと導いてくれる。
そして、たどり着いたその場所では一人の少女が佇んでいた。
河原でぼんやりと立ち尽くす彼女は、こちらを見つけた途端にっこりと笑みを浮かべる。
「よう来てくれたの」
「美女からのお誘いは断らないさ。特に……」
軽口を叩きながら、彼はおどけたように両手を広げる。
しかし、全身から放たれる気配は口調とは真逆の雰囲気を醸し出していた。
「こんな熱烈な手紙を渡されちゃあな。無視もできないだろう?」
ひょいと彼は真っ白な手紙を懐から取り出した。
何の変哲も無い、ただの便箋だ。けれど、渡された経緯を考えればただの手紙とはとても言えない。
それに対して、少女——“東方不敗”は笑みを深くした。
「それは良かった。白昼堂々渡しに行った甲斐があるというものよ」
「まったくだ。まさか、あんな渡し方をしてくるとは思わなかったぜ」
言って、呆れたように琉衣夜は頭を振る。彼の脳内では、昼にあった騒動が思い浮かんでいた。
対し、“東方不敗”はからからと笑う。
「なんじゃ、美女から手紙を渡されては困るのか?」
「困るさ。なんて返答すれば良いのかわからなくなるだろう」
「さよか。で、なんぞ気の利いた返答は用意してきたんじゃろうな」
「さあてね」
互いの口元に浮かぶのは、ぐちゃりと裂けるような歪んだ笑み。
犬歯を剥き出しにした、お互いを見定めるような鋭い微笑。
周囲を覆う空気は、二人を中心に肌の上を撫でる剃刀のように冷たいものへと変貌していく。
「よい顔じゃ。本当によい顔じゃ。これから壊すのが勿体のうなってきたわ」
「そうかい。別に構わんぜ。どうせ壊れるのはそっちなんだから」
声が空気を叩く度、ビリビリとした感触が二人の間を駆け巡る。
既に臨戦態勢に入ったお互いの体から放たれる魔力が、そうさせているのだ。
目に見えない力の流れさえも引き寄せながら、両雄の気迫は静かに高まっていた。
「じゃ、やろうか」
「応とも」
交わすのは、ただ一言の軽いやりとり。
だがしかし、両者にとってはそれで十二分。
にっ、とお互いの口元が深々と釣り上がり。
直後、両雄が激突する。
前に出たのは、琉衣夜の方だった。
体を這い巡る黒をブースターのように噴射させ、ブォン!! という馬鹿げた音と共に一気に前進する。
その速度は正しくロケットのごとく、空を裂く一閃の輝きとなって琉衣夜の体が飛び出した。
対し、“東方不敗”は動揺一つ見せずに対処してみせる。
音もなく手元に現れた鞘付きの刀を一振りして強襲する琉衣夜の拳を迎撃、そのままの勢いで鞘を払って抜刀する。
刀身は月光に照らされ、銀光を放ちながら存在感を放つ。
その光に琉衣夜が目を取られた瞬間、少女は小さな笑みを浮かべて剣を振るう。
音もなく迫り来る、致命の一撃。その光が容赦なく少年の首を刈り取るために走り寄ってくる。
だが、琉衣夜の首へ斬撃が届こうとしたその刹那、“東方不敗”の背筋を鋭い寒気が襲った。
その直感を肯定するように地の底から黒の奔流が溢れ出し、今正に少年の首を刎ねようとした刀身を上方へと弾き退ける。
突然の衝撃に、流石の“東方不敗”といえど体勢がほんのわずかな瞬間崩れてしまう。
その隙を狙うように、第二の噴出が少女の足元から出現した。
「ちっ!」
舌打ちを一つこぼしながら、“東方不敗”は後方へと飛び退く。
悪意の群れであろうと断ち切る絶技を持つとはいえ、それを放つことが出来ないのであれば何ら意味を持たない。
迎撃が出来ないのであれば、その場に留まっている必要は皆無に等しい。
秒にも満たない一瞬で判断し、敵の追撃を避けるべく跳躍して一気に数メートルほどの距離を開く。
少年の戦闘スタイルは徒手空拳。“黒”による絡めてはあれど、基本的には距離を詰めてのインファイトが中心だろう。
であれば、その間合いに入らなければ致命打は受けない。
どれほど敵が近接戦に強くとも、根本的に刀と拳では有効射程が倍近く差がある。動きを見切ることができれば、容赦なく切り捨てることが出来る。
そんな思考の元に、“東方不敗”は迷うことなく後ろへと下がった。
だが、少女は勘違いをしている。
確かに少年に目に見える得物はない。だが、それはけして彼の戦闘法がインファイトのみと証明できる決定打ではない。
先日の戦闘で真価を見せていないのは、何も“東方不敗”だけではないのだ。
「行くぜ、“黒”」
ニンマリとした笑みを浮かべ、少年は自らの力に語りかける。
同時に、彼の体に集ってきていた漆黒の集合体がうねりながら一点へと集中していく。
幾百、幾千もの悪意の連なりは少年の背中へと集い、数瞬の間に一つの形を形成していった。
それは、人の手にも似た五又の翼だ。
真黒の連鎖がさらなる悪意を呼び寄せ、彼の元へと集合してより大きくより強大な力となって唸りを上げる。
「……やれ」
静かに、しかし確かな意思を込めて彼は自らの異能へと命じる。
瞬間、漆黒の波は喜びの声を上げながら“東方不敗”へと殺到し始めた。
五叉一対、合わせて十の翼が凄まじい速度で数百メートルの距離を殺す。
対し、“東方不敗”は刀を構えた。
先ほどは虚をついた一撃だったが、今度は違う。飛来する黒は決して不可視の存在ではなく、迎撃のできないものでもない。
その口元から焦りの感情は見受けられない。この程度であれば、対処ができる。そう冷静に判断しての対応。
故に、十の翼がさらなる挙動を見せた瞬間、少女の目が大きく見開かれた。
ゴバァ! という爆発じみた音と共に、翼の先端がさらに数十数百に分かれ展開される。一本一本はせいぜい手のひら程度の大きさに過ぎない。しかし、それが千以上も降り注ぐとなれば、話は変わる。
舌打ち一つこぼし、“東方不敗”はさらに後退しようと足を動かす。
しかし、琉衣夜の手がそれを許さない。
「————っ!」
かすかな声が、耳に届く。
見れば、空を埋めつくさんばかりに広がる黒の向こう側で、琉衣夜がさらなる挙動を見せていた。
両腕は同時に全く別の魔法陣を描き、さらに加えてその口は力ある言葉を紡いで世界へと干渉し始める。
しかし、それを見たところで“東方不敗”には如何しようも無い。気づけば目前まで迫っている黒の波濤に続き、相手の干渉を一切受けることなく少年の魔導が起動、青赤緑と三種の光が“黒”の隙間を縫う形で少女へと襲来する。
上空からは絨毯爆撃のごとく降り注ぐ黒槍、水平方向からは三種の魔導。
どれも身に受ければまず間違いなく体力をごっそり削られ、ともすれば死に至るであろう一撃。しかも、ここまで連続で襲い掛かられてしまっては、一つ一つ対処することもままならない。
故に、少女は歯噛みする。
しかし、逡巡している間にも敵の攻撃は容赦なく距離を詰め。
瞬間、世界を真紅の光が塗りつぶした。
「!?」
まずいと思ったその瞬間にはもう遅く、ほんの一瞬だけ放たれた閃光に少年の視界が奪われる。ぎり、と歯を食いしばりながら近場にとどめていた“黒”へと命じ、追撃を防ぐべく周囲へ展開した。
数秒ほどで奪われた視力は戻ったが、目にした光景に彼は深々と息をこぼす。
「参った、あれを無傷でしのいだのか……」
少女の周辺は竜巻でも通り過ぎたかのようにえぐられ、地を覆っていた草花は悉く潰され無残な姿を晒している。元の姿を保っているものなど、いないのではないだろうか。
だが、それだけだ。
その中心に立つ“東方不敗”はその衣服を乱すことすらなく佇んでいる。汗こそこぼしているものの、その身に目立った外傷はない。
あれほどの範囲攻撃を仕掛けたにも関わらず、その全てを凌がれてしまった。
であれば、琉衣夜に用意できる回答はもはや一つ。
ぎゅっ、と力強く拳を握る。その甲をなぞるように“黒”が現出し、それに留まらず膿のようにドロドロと広がっていく。
それが広がり切るのを待たないまま、琉衣夜は再度足を踏み出した。
ずん、と足元の地面が形を変え、次の瞬間その体が銃弾のように前方へと飛び出す。そして、攻撃はそれだけで終わらない。
彼が動き出した刹那、少女の背後で地面から黒によって構成された四本の腕が現出し、“東方不敗”の両腕両足を捉えるべく襲いかかる。
それに対して、少女は動きを見せない。
刀を右に構え小さく息を吐いて、小さな声で囁く。
「起きろ、武の領域」
途端、少女の胸元が紅色に光る。
瞬間、“東方不敗”を中心に紫紺の領域が展開され、彼女の為の世界が形成される。
(が、あ……こ、れは……っ‼︎)
半径は五メートル程度だろうか、ドーム状の力場の内部にその他全てを叩き潰さんとする過重力が発生していた。
全身を覆う“黒”が必死にその威力を削ぎ落としているが、それでもなお動くことを許されないほどの圧。伸ばした腕が、前に踏み出そうとする足が、情け容赦なく叩き落とされ、彼が生み出した力ごと地面に押し潰さんと襲ってくる。
動けない。前進も後退もできないまま、琉衣夜はその身を覆う重圧に抗い顔を上げる。
そして、その視線は敵が動く瞬間を見てしまった。
(う、そだろ。この中で、あいつは動けるってのか……!?)
とん、と軽やかに地を蹴り、“東方不敗”が琉衣夜へと駆け寄ってくる。
まるで静かな青空を行く小鳥のように、その小さな体はあっという間に二人の距離をゼロにしてしまう。
そして、その手に握られた銀の光が紫紺の領域で怪しく輝いた。
少女の口元が、かすかに動く。
「しまいじゃ、黒翼」
(く、そ……死んでたまるか!)
ゆらり、とその手が揺らめき、握られた刀が琉衣夜に向けて振り払われた。
“黒”に呼びかける。しかし、悪意の群れはその呼びかけに応えない。というより、応えられないという方が正しいだろうか。彼の身に集った“黒”は展開された紫の力場を中和するのが精一杯であり、彼の身から離れた真黒の力は地の表面に飛び出した瞬間に叩き潰されてしまう。
さっきの絨毯爆撃もこれで全て対応されてしまったのだろう。なるほど、これなら納得がいく。
魔導は使えない。腕も声も今のこの状況では全て押しつぶされてしまう。そもそも“黒”がまともに対抗できないこの状態では、学び始めて数ヶ月程度の付け焼き刃魔導ではどうにもできないだろう。
では、どうするか。
頭が燃えるように熱を放つ。視界が歪むほどの痛みが走り、こちらへと迫り来る銀光がやけにゆっくりと動いて見えた。
足りない。
今使用している札だけでは足りない。では、どうすればこの状況を打破できる。どう力を運用すれば、今この瞬間を切り抜けられるのか。
(死んで……)
ぐぐっ、と拳を砕けよとばかりに握る。だが、腕は思ったように動いてくれない。足もまるで地面に縫いとめられたかのようにその場を離れることができない。
だが、諦められない。
ここで、倒れるわけにはいかない。
(たまるか……っ!!)
銀光が容赦なく眼前に迫り。
刹那、ずしゃりと肉を裂く音が聞こえた。




