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第三章 ”東方不敗”−1


 それから、数日が過ぎた。


「……なんだこりゃ」


 いつも通り瑠奈と登校してきた琉衣夜は、下駄箱でぽつりと呟いた。

 真っ暗な空間には、いつも通り彼の上履きが入っている。それは、特に問題ない。

 問題は、その上に乗せられた真っ白な封筒だ。

 怪訝そうな表情を浮かべながら、彼はその封筒を取り出す。何の変哲も無い、その辺の百均でも売ってそうな白封筒。

 表にも裏にも、宛名は一切書かれていない。どこの誰がこんなものを入れたのか、さっぱり見当がつかない代物だった。


「琉衣夜、どうかした?」

「いや……こんなもんが入ってた」


 さっさと靴を履き替えた瑠奈が、ひょいと下駄箱の向こう側から顔を出す。

 そちらへ見えるように封筒をひらひらと動かすと、瑠奈の眉がひそめられた。

 チラチラと周囲の人影を確認してから、こちらへ顔を近づけてきてボソリと呟く。


「……浮気?」

「あのなぁ……」


 半眼で囁かれる根も葉もない疑念に、琉衣夜は低い声で答える。

 冗談のつもりで言ったのか、瑠奈は「ごめんね」と小さく舌を出しながら首を傾げた。


「でも、誰からとか書いてないの?」

「少なくとも、表には。けど、これは……」


 ひとまず封筒をポケットにしまい、琉衣夜は靴を履き替える。

 疑問符を頭上に浮かべたままの瑠奈を連れて、彼はひとまず比較的人通りの少ない階段の方へと向かった。


「どうしたの?」

「いや、人目についたらまずいと思ってな」


 言って、琉衣夜は誰もいないことを再度確認してから自分の形質を起動させる。それを見て、瑠奈は彼が何を心配しているのかようやく悟った。


 つまりは、敵からの罠。

 琉衣夜からだいぶ遅れてその可能性に思い至ったことに、瑠奈は内心で冷や汗をこぼす。平和な環境で過ごしている影響で鈍っている感覚はあったものの、ここまで衰えているとは思いもしなかったのだ。

 とはいえ、彼女の場合内に秘めている存在の関係上、例え罠だとしてもこの程度の小規模なものでは致命傷に至ることはまず無い為に、元からして鈍い面があるのだが……。


 “黒”による走査を終え、琉衣夜は一息つく。

 呼び出した悪意の群れが三々五々戻っていくのを確認しながら、彼は瑠奈に口を開いた。


「ひとまず、魔力の類はないみたいだな。……なにしてんの?」

「いや、気づかなかったからちょっと……」


 ずーんという効果音が似合いそうな表情をしている少女に、琉衣夜は「ああ」と理解したらしき声を発する。


「まあ、この程度の紙だったら仕込める罠もたかが知れてるしな。お前だったら気にしないのも無理はないさ」

「……それ、余計に落ち込むなぁ」


 気にすんな、と頭を撫でてくる琉衣夜へ落ち込んだ表情のまま答える。

 彼女を単純に呪おうとした場合、必要になる魔力の総量もしくは情報量が異常なレベルで必要になるため、それだけで大規模魔導の域に達してしまう。

 故に、この封筒に収まる程度の危害では傷一つつけられないことの方が多い。

 琉衣夜としてもこの程度の情報量では“黒”の方が勝ってしまう。あまり気にしていなかったが故の「無理はない」なのだが……それはそれ、である。


「さて、切り替えようか。特になにも仕込まれていないみたいだけど……他に候補はある?」

「うーん……。まあ魔力感知ができないんだったら、九割大丈夫かな」

「残りの一割は?」

「私が知らない可能性」

「なら、どうしようもないな」


 あっさりと言い切り、彼は封筒を開く。

 念のために何が起きても対処できるように“黒”を再度呼び出し、彼は中身を取り出した。

 出てきたのは、一枚の便箋。

 何の変哲も飾りもない、ただの紙にしか見えない。念のために“黒”を走らせて調べるも、やっぱり何も反応はない。

 気を緩めないようにしながら、折りたたまれた便箋を開く。

 開いてみれば、便箋は思ったよりも小さかった。書かれているのは、単純な一文。


『昼休みに屋上で待ってます』


「……やっぱり、浮気?」

「だからさぁ……知らねえよ」


 一転してダークな雰囲気を放ちながらそう囁く瑠奈に、半眼で返す。

 そもそもこの手の手紙は、彼が両親からの遺産を引き継いだ際に飽きるほどもらったことがある。

 そして、そういった手紙の主が実際にこちらに好意を抱いていたことなど一度もなかった。

 数度はそれでもと期待を抱いて付き合っていたのだが、それもそのうち信じる価値なしとみなすようになった。以来、この手の呼び出しに応じたことは一度もない。

 そして、この手紙もそれらと同じものだろう。

 ここ数ヶ月はもらっていなかったが、噂を聞きつけて試す価値があると思ったバカがいてもおかしくはない。

 そういう訳で、彼としてはさっさとこんな便箋は捨ててしまって忘却の彼方へ葬り去ってしまいたい所なのだが……。


「むー……」

「おい、人の話聞いてんのか」


 複雑な表情を浮かべながら文面を眺めつつ唸っている少女を見て、彼の表情が曇る。

 それに、瑠奈は顔を上げた。


「……これ、どうするの」

「興味ないしなぁ……そのままゴミ箱行き」

「え」


 驚きの表情で固まる瑠奈の手から手紙を取り上げ、ぐしゃりと手の中で握りつぶす。

 どうせろくなことにならないとわかりきっているのだから、乗ってやる必要がない。

 であれば、そもそも持っておく必要がないだろう。

 そんなことを考えながら、下駄箱のすぐ近くにあるゴミ箱へ向かう。一切の迷いなく中へ放り込もうとしたその時、背後から伸びてきた手が彼の動きを止めた。


「……んだよ」

「まって、待ってよ」


 その表情は、さっきと打って変わって必死の形相を作っている。

 一瞬前までは手紙を見てぐんにゃりしていた癖に、今は琉衣夜を止めることに必死になっていて。

 それが、琉衣夜には理解できない。


「す、捨てちゃうの?」

「俺にはいらないものだからな」

「でも、でもさ。もしかしたら本当にそういう思いで書いたのかもしれないよ?」

「だとしても、いらねえよ」


 半眼のまま、そう囁く。

 本当にそういう心があって生み出されたものだとしても、琉衣夜には何ら関係ない。

 だって、結局そうやって取り繕った所で、どうせ変わるのだから。

 どうせ何か起きたら、すぐに豹変するのだから。

 あの時の、琉衣夜が両親を失った時の周囲の人間たちのように。

 だとすれば、そんな繋がりは必要ない。そんな、些細な変化で失われてしまうようなチャチな繋がりなら、作り出す必要すらない。

 彼が必要としているのは、本当に必要なのは目の前の少女だけなのだから。


 そう考えて、けれど瑠奈はそれを許さない。

 ギリギリと握り締められた拳をその両指でほどき、ぐしゃぐしゃに握り締められた手紙をその手から取り出す。

 握りつぶされたせいでシワだらけになってしまった手紙を両手で丁寧に広げて、瑠奈は再度彼の前にその手紙を見せつける。


「琉衣夜にとってはさ、他の人と一緒になることなんてどうでもいいことかもしれないけど、さ」

「……ああ」

「でも、ね」


 うつむいたまま、数瞬の間瑠奈は考え込むように目を閉じる。

 どう伝えればいいのか、どう言えば琉衣夜に届くのかを探るように。


「これは私の勝手な思いだけど、さ。できれば、他の人の思いも見てくれると、嬉しいな、って」

「……俺が、か」

「琉衣夜に、だよ」

「……どうして」

「それは……」


 瑠奈が視線をこちらに向ける。

 その目が、まっすぐに琉衣夜を見据える。

 茶色の輝きを宿す瞳は、ただただ彼のことだけを案じていて。それが、痛くなるほどに琉衣夜の心を揺りうごかす。


「私が、そうして助けられたから……かな」

「……どういうこと?」

「琉衣夜が私の思いに気付いてくれたから、だから私は今ここにこうして生きてる。こうして、普通の人と同じ生活ができてる」


 でもね。

 そう、瑠奈は言葉を続ける。


「できれば、琉衣夜にも同じ生活を送ってほしい。同じように誰かの思いを受け取って、誰かに思いを渡して……そんな、生き方を」


 ぽふん、と手紙を掴んだ手が彼の胸元に押し当てられる。

 無言のまま手紙を受け取り、もう一度その文面に目を落とす。そこに書かれている中身はさっきと決して変わらない。

 けれど、それを何も考えずに捨てるには、目の前の少女の言葉は重すぎて。


「……そんなこと言われたら、捨てられないじゃないか」


 そう答えると、瑠奈は少し悲しがっているような嬉しさを内包しているような、なんとも言えない笑みを浮かべる。


「ごめんね。わがまま言っちゃって」

「ほんとだよ。いつもだったら、絶対気にもかけないのにさ」


 唇を尖らせながら、彼は手紙を折りたたんでポケットにしまう。

 それを見て、瑠奈の表情がほんの少しだけ柔らかいものに変わった。それだけで、この呼び出しを受ける価値はあるかもしれない。

 そんなことを考えてしまう自分に、我ながらほだされてるなと思ってしまう。


「行こう、チャイムが鳴る」

「うん」


 一言だけを残して、歩き始める。

 その一歩後ろを、瑠奈は何も言わずについてきた。


 それを肩越しに一瞬だけみやり、琉衣夜は誰にも聞こえないほどに小さなため息をひとつこぼす。


 誰かとつながる、とか。

 誰かの思いを受け取る、とか。

 そんなことを億劫だと思わないでいられる瑠奈が羨ましく、同時に眩しく見える。

 琉衣夜よりも、もっとずっと真っ黒な世界を見てきただろうに。

 それでもこの少女は、誰かと一緒にいることを望むのだから。

 そのあり方が直視するには難しいほどに眩しく、そして羨ましく思えた。


 どうにもならない悶々とした感情は、そうして教室に到着するまで続くのだった。



 そして、あっという間に昼休みの時間が訪れた。

 ため息をつきながら弁当袋を手に取り、立ち上がる。すると、いつも通りこちらへ歩いてきていた龍音が首を傾げた。


「あれ、今日は一緒じゃないんだ」

「別用があってな。瑠奈、また後で」

「うん。後でね」


 怪訝そうな表情のままの龍音とは対照的に、瑠奈はにこやかな笑顔でこちらに手を振ってくる。

 いい気なもんだ。こっちはこれから面倒事を済ませないといけないのに。

 苦虫を噛み潰す感覚と共に教室を出る。

 多数の学生が向かう先とは全く別の方へ足を向けて、そのままいつも通りの屋上へ歩みを進める。

 この学校に入ることができる屋上は、一箇所しかない。正確には、その屋上も普段は閉められているのだが、一部権限を持つ生徒であれば鍵を持ってきて屋上を開けることはできる。

 つまり、手紙の主はその一部権限を持っている人間のうち誰かだろう、と彼はあたりをつけていた。


 屋上の入り口にあっという間にたどり着く。

 果たして、扉の鍵はすでに開いていた。

 かちゃりという軽い音と共に、扉が開く。何の手順も踏まないで開くことにほんの少し違和感を覚えながら、彼は屋上へ足を踏み入れた。



 開けた視界の先に、風にたなびく黒髪が見えた。



 こちらが入ってくる気配を察したのだろう。黒髪の主が、こちらを振り向く。

 青道高校の制服をまとった少女はこちらを見るなり微笑んで、こう言った。


「ようきてくれたの、黒翼の」


 ぞっ、と背中に寒気が走る。

 それに呼応するかのように、彼の足元に“黒”が集まり始めた。

 平和ボケしていたのは、琉衣夜も同じだったらしい。まさかこんなにも堂々と敵が自分たちのテリトリーに踏み込んでくるとは予想もできなかったのだ。


「おうおう、えらく剣呑な顔しとるの。少しは落ち着け、な」

「はっ、この状況で落ち着けるほどボケてねんだよ」


 にこやかにそんなことを言ってくる“東方不敗”だが、あいにくと琉衣夜にそんな余裕は微塵もない。

 屋上という場を戦場にするのは、あまりにも彼にとって不利に過ぎる。

 屋上といっても、何もない訳じゃない。給水タンクや塔屋のせいで、隠れる場所がそれなりにある。視界確保ができない状態では“黒”の操作が一手遅れる可能性があるのだ。

 おまけに、地味に狭い。彼女が刀を振り回すには十分な広さだが、琉衣夜が全力で“黒”を展開するには狭過ぎる。壁があればもう少しマシなのだが、フェンスしかないのでは、十分に展開しきれない。


 何より今ここでやり合うには、人目が多過ぎる。

 ここで派手にやり合えば、まず学生なり教師なりの目についてしまう。そうなれば、彼らの日常生活はいともたやすく崩壊してしまうだろう。

 その上で敵に勝利したところで、彼ら二人にとって何の意味もない。瑠奈の願いは普通と変わらない日常を送ることなのだから。

 故に、今ここで戦闘を行うことはできない。戦闘するのであれば、別の場所へ移動させる必要がある。


 では、どうやって?


 ごくり、と湧き上がる唾を嚥下する。

 緊張した表情で構える彼に、少女はからからと笑う。


「随分と構えとるのぉ。警戒されたものじゃ」

「そりゃあな。この前戦ったばっかの奴相手に気を緩められるかよ」

「とはいうがの。であれば、こうして屋上に呼び出す必要もなかろ。貴様が出てくるまで適当にその辺りの首を刈り飛ばしていけば良いのだから」

「…………」


 その言葉に、偽りの雰囲気はない。

 この少女は必要だと感じれば、おそらく本気でその程度のことはやってのけるだろう。

 青道高校の制服を纏う少女は、無言のまま睨みつける少年に「あはぁ」とくらい笑みを浮かべた。


「そういうことじゃ。今ここでやり合うつもりはない。……久方ぶりに興味深いものも観れたしの」


 笑みを崩さぬまま、少女はフェンスの向こう側へと視線を落とす。

 その先にあるのは、別の校舎だ。その視線の先にあるものへ、少女は何を見出しているのか。

 考え至る前に、少女はこちらへ向き直る。その口元には、すでに先ほどまでと同じ妖艶な笑みが戻っていた。


「まあ、おんしがどうしてもここでやりたいというのであれば、それも悪くはないがの。……どうするね」

「……何の用だよ」

「良きかな、良きかな。さてと、どこから話したものか」


 にやにやと楽しそうな笑みをこぼしながら、少女はフェンス越しを歩いていく。かしゃん、かしゃんとフェンスを軽く叩きながら、少女はフルフルと頭

を左右へ動かしながら、琉衣夜へと口を開いた。


「今宵、雌雄を決する気はあるか」


 そう、ささやきかける少女の口元は鋭く微笑んでいた。

 その瞳は刃のように鋭く、氷のように冷たい光を宿していた。

 その声に乗せられた感情は、まるで焔のように熱気を灯していた。


 ただそれだけで、琉衣夜は自分の鼓動が高鳴るのを感じる。

 この少女は、“東方不敗”はきっちりと約束を果たしにきたのだ。

 それに、琉衣夜の頰がほんの少しだけ緩む。


「へぇ、それを言う為に来たのか」

「もちろんよ。言うたではないか、続きはこちらで手配すると」

「律儀なこった」


 

 くっくっ、と笑う琉衣夜に対し、少し憤慨するような表情を浮かべる少女。

 刃を交える時の狂ったような表情しか知らないからか、“東方不敗”であってもこんな表情に変わるのかとほんの少し驚く。


「それにしても、随分と面倒な手を取るんだな」

「ん、違うのか? 異性に何かを伝えるのであれば、これが伝統的な方法だと聞いておったが」

「……お前、どこから情報を仕入れてんだ?」

「ふむ……これは違ごうたか。どうにも面倒な方法だと思うたわ」


 カラカラと笑い、「まあ良い」と再度こちらを見定めるようにねめつける。


「で、返答は?」


 ふぅ、と一つ吐き出した。

 そして、少女を真正面から見つめて答える。


「良いだろう。場所を教えろ」


 簡単、かつ明瞭な返答に、“東方不敗”は楽しそうに笑みを深める。

 

「良い返答じゃ。……どれ、ちとその紙をよこせ」

「……これか?」


 懐から、下駄箱に入れられていた手紙を取り出す。

 手渡すと、“東方不敗”は唇をキュッと締めて目を閉じる。

 途端、手紙を握る手にかすかな光が宿り、手紙へと移って消失した。その結果に満足したのだろうか、少女は再度こちらへと手紙をよこす。


「これで良い。刻限になれば、私の魔力を追跡してくれるだろうよ」

「なるほどね……。そっちでフィールドは準備してくれるってことで良いのか」

「もちろん。念入りに人払いはしておく故、おんしは全力を尽くすための準備だけをしておくがよい」


 いたずらっぽい笑みを浮かべてそう囁く“東方不敗”に、琉衣夜は彼女をジト目で睨み返す。

 ようは、この手紙が招待券という訳だ。


「まあ、それだけでは不便だろうよ。この近くに大きな川があろう? あの辺りに人払いを仕掛ける予定故、近くにおる方が良いならそれもかまわんよ」

「……時間は?」

「日付が変わる頃。邪魔者が入って欲しくないのでな、ちと念入りに仕掛けるつもりじゃ」

「良いだろう」


 彼は少女の申し出に頷く。

 すると、“東方不敗”は楽しそうに唇を吊り上げた。


「これで語るべきことはかたった。……今夜は最後まで寝させんぞ?」

「そうかい。……さっさと行けよ。見られても知らないぞ」

「ふん、細かいことを気にするやつよ」


 ぽそりと答えると、トンという軽い足音と共に少女の姿が消える。

 どこかへと跳び去っていったようだが、そちらへは目を向けない。手紙から感じられる魔力には、一切の悪意が感じられない。ということは、現時点であの少女には一切の敵意がないのだろう。

 であれば、今余計なことをしてやぶ蛇を出す必要はない。

 どの道、今夜彼女とは戦うことになるのだから。


「……おっと」


 にいぃっと自身の頰に刻まれた笑みを消しつつ、手紙に集中する。

 このまま魔力を放出させたままだと、瑠奈に気づかれてしまうだろう。

 それではダメだ。そんなことになると、余計な邪魔が入る可能性が高い。その為には、この魔力放出を徹底的に隠蔽する必要がある。

 意識を集中した途端、彼の手元にほんのわずかな“黒”が現出する。その目的はいつもの無秩序な暴食ではなく、その真逆。

 きちんと制御することができれば、この漆黒の塊は琉衣夜の魔力を通す媒体としてこの上なく機能してくれる。

 真黒の泥は彼のイメージ通りにうねうねと手紙の上を這いずり回り、一つの式を生み出していく。

 

「これでいけるかな、と」


 完成したのは、一つの封印魔導。簡単にいうのであれば、使用者以外の魔力を一時的に全て遮断するものだ。

 これで魔力が漏れ出ることはない。あとは、折りたたんで携帯のカバーにでも突っ込んでおけば問題ないだろう。

 二回折りたたんで、カバーに突っ込む。少し膨らんで見た目が悪くなっているかもしれないが、まあそこまで気にすることもないだろう。

 これでいい。あとは、夜まで待つだけだ。


 ほんの少し楽しげに屋上を後にし、最後にきちんと施錠してから階段を降りていく。

 その最中、彼の頭を悩ませているのはただ一つの不安要素だった。

 言うまでもなく、同居人の瑠奈である。

 下手に言うこともできず、かといって指定された時間に出かけようとすれば問い詰められることは目に見えている。

 彼女の意識をそらすことができる何かがあると最良なのだが……。

 そんなことを考えながら、彼は教室までの戻り道をゆく。すると、廊下で一組の男女が険悪な雰囲気で話し合っているのが目に入った。


「頼むよ、頼めるのは君ぐらいしかいないんだ」

「しつっこいわね、本当に。だから嫌だっつってんでしょ」


 唸り声をあげそうな形相で男の言葉を断っているのは、龍音だった。

 まるで狂犬のように言い捨ててため息をついている。その視線が、ふいとこちらに向けられた。

 目と目があう。

 瞬間、龍音がこちらにつかつかと歩み寄ってきた。


「な、なんだよ」

「ちょっと琉衣夜、助けてくれない? このバカがしつこくて」


 鬼と見紛う表情で有無を言わせずこちらの腕を掴んでくる。

 目をやれば、そこにいたのは先日階段で声をかけてきた男だった。名前はなんといったか……そう、確か。


「……誰だっけ」

「国東だ。お前、本当に人のこと覚えないんだな」


 噂通りのやつ、と半眼で見られる。

 それに対して、琉衣夜は肩をすくめるだけで否定はしない。正直、瑠奈の事さえ無事であれば他は割とどうでも良いという思考は今もなお変わっていない。

 あの少女以外とつながりを結ぶことに何ら価値を見出せないのだから、宜なるかなという所だろう。


「で、何なんだよ龍音」

「こいつがさ、瑠奈を誘って欲しいってしつこいのよ」

「へぇ……」


 琉衣夜は細い笑みを口元に浮かべる。

 それに対し、国東はほんの一瞬焦ったような表情を浮かべるも、すぐに口を開いた。


「構わないだろう? アンタ言ってたよな、好きにしろって」

「アンタね……」


 国東の一言に、龍音の眉がヒクヒクと動く。その口が暴走し始めるまさにその瞬間、琉衣夜が言葉を挟んだ。


「良いぜ、別に」

『え』


 琉衣夜の言葉に、二人の言葉がハモる。

 国東はさておいて、どうして龍音までぽかんとした顔で固まっているのかはわからないが。


「だから、遊びに誘うくらい別に構わねえよ。何か悪いことを考えてるってんなら別だが……違うんだろ?」

「と、当然だろ」

「なら、構わないさ。……まぁ、瑠奈本人が嫌だって言わなければ、だけどな」

「そ、そうかよ。随分と話がわかる奴じゃないか」


 彼の返答に、国東はニンマリと微笑む。

 だが、今度は龍音の方が少し慌てた様子で彼の袖を引っ張ってきた。


「ちょ、琉衣夜。アンタ、本気で言ってんの?」

「あん? ……ああ、遊びに行くこと自体は別に構わねえよ」

「でも……」

「ただ、な」


 龍音がさらに言い募ろうとした所に、琉衣夜は彼女の耳元へ口を近づける。

 国東には聞こえないように、微かな声で彼はさらに言葉を続けた。


「もしアイツが嫌がってんのに無理やり、って感じだったら連絡くれ。その時はぶん殴る」


 その言葉に、龍音は一瞬きょとんとした表情に変わったが、すぐに意味を理解したのか小さなため息を吐き出した。


「アンタ、あの子のことになると私に頼るわね」

「仕方ないだろ。アイツに色々してやりたいのは事実だが、一人じゃ手が回らん。そもそもそういうことはあまりわからないしな」

「はぁ……わかったわよ。夕方聞いてみるわ」

「頼む」

「高いわよ」


 龍音の返答に琉衣夜は微笑で答え、国東へと向き直る。


「そう言う訳だ、別に誘うのは構わねえよ。ただ、調子に乗ったことをするようだったら潰すからな」

「……良いぜ、わかった」


 脅すように低い声で言い放つ琉衣夜に、一筋の汗を垂らしながら国東は答える。その返答を聞き終わる前に、彼は相手に背を向けていた。

 内心では大笑いしそうな所を必死にこらえているのだ、妙な勘違いをされても困る。


(丁度良いタイミングでいい理由が飛び込んできてくれたんだ、使わない手はねえな)


 そう、内心でほくそ笑む。

 これで特別な理由をつける必要がなくなった。あとは、龍音と一緒に瑠奈が出かけるのを見送ってから、適当に時間を潰して“東方不敗”と戦り合えばいい。

 万が一の心配も、あの男相手なら無いだろう。

 龍音がいるおまけに、瑠奈自身がそもそも人間を超えた力を持っている。無理やりどうにかしようとしたところで、どうにもならない。


 あとは、夜まで待つだけだ。


「あれ、琉衣夜。何か良い事あったの?」

「いや、何もねえよ」


 教室に戻ると、こちらを見つけた瑠奈が首を傾げながら尋ねてくる。

 相手に気取られないように普段通りを装っていると、瑠奈は何かに納得したのかそれ以上は追求してこなかった。


「まあ、いいか。それよりさ、どうだったの?」

「ん? ああ、あれか……」


 目を輝かせながら結果を聞いてくる瑠奈。

 それに対し、どんな風に話をしたものかと彼は即興で頭を巡らせるのだった。



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