表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/129

第二章 届かぬ憧憬−2


 ヒュウン! という風を裂く音と共に、大太刀が振るわれる。

 狙うは、少年の腹の辺り。一撃で急所を貫くものではないが、受ければまず間違いなく次の行動を阻害される。

 それに、琉衣夜は“黒”をかき集めて漆黒の杭を生み出した。

 振るわれた左腕から伸びるように現出した杭が、ザチュリという生々しい音を立てながら敵の刃を受け止める。どころか、まるで銀の光を飲み込もうとするかのように、ずるずるという音を伴いながら刀を止めるべくその表面を覆い始めた。

 そして、琉衣夜本体もまた止まらない。

 左腕を上げた体勢のまま右腕を思いっきり振りかぶり、全力疾走の勢いを乗せて渾身のストレートを放つ。

 “東方不敗”は止められた得物へとほんの一瞬だけ目をやる。

 そして、次の瞬間彼女はその両手をあっけなく手放した。


「!?」

「ふっ!」


 顔を狙って放たれたストレートを思いっきり腰を反らして躱し、そのままブリッジの体勢を取ると同時に足を跳ね上げてこちらの顔を狙う。

 “黒”の防御は間に合わない。反射で一歩後退するが、敵の攻撃はそこで終わらなかった。

 両手両足を地面につけて着地した瞬間、右足が弧を描いて琉衣夜へと襲い掛かる。さらに一歩後ろへ下がって回避するも勢いのついた足が空間を薙ぎ払った次の瞬間、少女の体が宙に浮いていた。


「はあっ!」


 少女の体がクルンと一回転し、裂帛の気合と共に全体重と重力まで味方につけた一撃となって襲来する。


「ちっ……」


 両腕を交差させ、“黒”を集めて防御の構えをとった瞬間、“東方不敗”の蹴撃が直撃する。

 ズン、という衝撃と共に、足元の地面がわずかに沈んだ。かすかにバランスが崩れるが、体勢が変わるほどの変化ではない。

 だが、上方からの一撃で一瞬とはいえ琉衣夜の体が硬直してしまう。

 その隙に、少女は彼の腕を足場にして再度跳躍した。

 軽やかに空中で回転し、両足を揃えて曲げる。落下が始まる瞬間、その身体を白い光が覆った。

 刹那、“東方不敗”の落下速度が一気に加速される。その勢いは、まるでミサイルの如く。


(……っ!)


 まともに受けてしまえば、“黒”を貫通される。

 そう判断し、琉衣夜は体を横へ投げ出した。瞬間、少女が地面に着弾する。

 ゴウ! という爆発じみた轟音と共に、衝撃波が辺りを蹂躙していく。

 嵐にも似た爆風が少年の体をあっさりとなぎ払い、数メートル向こうまで吹き飛ばしてしまう。

 砂塵が渦巻く中心点で“東方不敗”はゆっくりと立ち上がり、地面に転がったままの愛刀を再び手に取る。


「……ふむ、やはりこの程度では終わらぬか」


 バウ! と砂嵐が引き裂かれ、真っ黒な二本の巨腕が左右から少女を捕らえんとばかりに掴みかかってくる。

 一方を避けることはできても、もう一方を躱すことはできない。そんな絶妙のタイミングで放たれた攻撃を前に、“東方不敗”は静かな笑みを浮かべる。

 避けることができないのなら、避けなければいい。そう、告げるように。

 瞬間、しゃりんという微かな音が響くと同時、黒腕があっさりと両断された。

 理由はただ一つ。“東方不敗”の一刀が振るわれたが故に。

 ふぅ、と一呼吸置いて、彼女は振り上げた刀をもう一本へ向かって振り下ろす。途端、先程は斬撃を受け止めたはずの“黒”があっさりと切り裂かれ、虚空へと消失していく。

 対し、少女は呼吸一つ乱さない。

 この程度は、戦闘と呼ぶことすらできないとでも言いたげに、涼しい表情のまま戦場に立つ。


 だが、全てが彼女の思惑通りと言えば、そういう訳でもなかった。


「良い動きを見せる。凡百の魔導士であれば、これまでの中で殺せるのじゃが」


 囁きながら、目を向ける。

 ようやく治り始めた砂のカーテンの向こう側に、“黒翼”は今尚立っていた。服の所々が破れてはいるものの、その体に目立った外傷はない。

 “東方不敗”の視線を受けて、琉衣夜は小さく笑う。


「こっちこそ礼を言いたいくらいだ。普通のやつなら、最初の一発を止めた時点で終わってた」


 得物を絡め取った時点で、琉衣夜は半ば自分の優位を確信していた。

 だが、体術だけでこうまで対抗してくる相手と対峙するのは、本当に久しぶりのことだ。戦闘力だけで見るなら、美咲といい勝負ではないだろうか。


「ふん、あの程度で終わるのなら、ここまで異名が知れ渡る訳もなかろう」

「確かに。まあ、その方がありがたいが」

「……おんしも、随分と壊れたやつじゃの」


 楽しげにくっくっと笑う少女に、琉衣夜もほんの少し笑みを深める。

 だが次の瞬間、互いの放つ雰囲気が張り詰めたものへと変貌した。


「なら、もう少し早くしても大丈夫じゃな?」


 声が聞こえると同時、少女の姿が消える。

 否、実際に消えた訳ではない。消えたと錯覚させるほどの速度で、その体が動いただけのこと。

 それを認識した瞬間、琉衣夜は両手を地面に付けて意識を一瞬集中させる。

 途端、地面から“黒”が勢いよく噴出し、彼を守る壁の如く周囲を覆う。

 防壁としての効力はそこまで期待していない。彼が“黒”を周囲に現出させたのは、別の理由からだ。

 勢いよく天へと登った“黒”は途中で上昇をやめ、ある一方向へと向かって進行を始める。

 案の定、“黒”が進んでいく先には“東方不敗”の姿があった。


「……ほう」

「そこか」


 “東方不敗”は一瞬感嘆したような表情を見せるが、すぐにまたその体が高速で移動を始めた。

 だが、“黒”が逃げることを許さない。何十、何百もの腕に分かれ、宿主以外の新鮮な命を喰らうべく獲物へと迫りゆく。

 その速度は決して早くはない。“東方不敗”の動きであれば、逃げ続けることも可能だろう。

 だが、それは“黒”のみを使用するのであれば、という前提の話。


 “黒”の波が十重二十重に襲いかかる中を、少女はわずかな隙間を縫って接近してくる。

 その速度は驚愕に値するものだ。おそらく、琉衣夜が強化魔導を自分に施したところで、追いつけるかどうか怪しいレベルだろう。

 だが、高速で動くことが出来た所で、定められたルートしか通れないのであれば、話は別だ。


 じゃり、という音と共に“東方不敗”の姿が一瞬だけ琉衣夜の眼に映る。

 瞬間、少年の全力を込めた右ストレートが振るわれた。


「くっ……っ!?」

「お、おぉらっ!」


 刀の腹で受け止められたが、足を止めることが出来た事に変わりはない。

 驚きの表情を浮かべる少女に、そのまま腕を振り抜いて後方へと吹き飛ばす。“東方不敗”にとって、その程度であれば宙で一回転して着地することさえ容易いだろう。

 だが、既に彼女は琉衣夜の策に嵌っている。


 想像通り、殴り飛ばされた“東方不敗”はダメージを感じさせない軽やかな動きで着地する。

 だが、その瞬間少女の両足を捉える漆黒の腕があった。


「これは……」

「上だけに気を取られてたみたいだが、俺の力は別に地上だけじゃないぞ」


 ずるずるずるずると、凄まじい勢いで魔力に惹かれた亡者達が少女へと手を伸ばす。

 この世への未練・悪意に染まった連中は、生者に対して一切の容赦がない。

 捕まれば、まず間違いなく全ての生命力と魔力を奪い取られ、彼らの仲間入りをする羽目になる。

 そして、その性質は敵対する相手にけしかけるには、もってこいのものだ。


「捕まえた」


 にぃっ、と歪んだ笑みを浮かべる琉衣夜。

 次に自分の能力に告げる命令はただ一つ。


「喰らえ、亡者共」


 途端、泥のように粘つく漆黒の波が四方八方から“東方不敗”へと襲い掛かる。黒の波濤に目を見開く“東方不敗”。

 やった。

 そう逸る心を必死に抑えながら、琉衣夜は敵の反撃を許さぬよう追撃の為の“黒”を更に待機させる。

 この一手で、ほぼ詰みのはずだ。

 手練れの戦士とはいえ、あの大渦に飲み込まれてしまえば抵抗をすることは難しい。なんせ、“黒”は魔導的干渉をほとんど吸収・無効化し、物理的干渉に対しても質量差でごり押しされなければ通すことができる。

 大規模なゴーレムや無人戦闘機でもない限り、生命力と魔力を吸い取られて即終了である。

 いかに“東方不敗”とはいえ、これから逃げ切ることは難しいはず。

 そう、少年は踏んでいた。


 しかし、目前の敵はその予想をあっさりと踏み越えていく。


 ゾン! という凄まじい衝撃と共に、津波の如く幾重にも押し寄せる“黒”が叩き潰され霧散する。

 その奥からは、不敵な笑みを浮かべてこちらを見据える“東方不敗”の姿があった。怪しげな真紅の輝きを胸元から放ちながら、少女は琉衣夜へと語りかける。


「今のは少し焦ったぞ。業腹じゃが……此奴を使わせたことは評価してやらねばなるまいて」


 忌々しげな口調で左手を胸元へやり、“東方不敗”はそう告げた。

 言葉と共に少しずつ輝きは力を失っていくが、完全には消失せずにぼんやりとした光を宿したままだ。


(何かの補助装具と見るべきか。出し惜しみしてるのか、余裕の現れと見るべきか……何とも言えないな)


 立ちあがりながら、そう判断して相手の動向を伺う体勢に入る。

 必殺の一手を凌がれたというのに、心は妙に落ち着いていた。あるいは、最初からこうなると心のどこかでわかっていたのかもしれない。

 この程度で終わるような相手ではない、と。


 途端、琉衣夜の口元にニィッと鋭い笑みが浮かぶ。

 とても嬉しそうな、とても楽しそうな、そんな笑みが。

 応えるように、“東方不敗”の表情も微笑へと変わっていく。互いに笑みをかわしながら、両者はしかしどちらも隙を晒さない。

 互いの距離は十メートルもないだろう。そして、その程度の距離であれば、お互いに秒を必要とせず詰め切ることができる。

 つまり、既に両方とも互いの間合いに入っている状態と言って過言ではない。

 その状態で無闇に隙を晒せばどうなるのか、そんなことがわからないような二者ではない。


 無言のまま、琉衣夜は拳を握る。呼応するように“黒”が彼の周囲に集まり、一部は地面へ溶けて主人の命を待っていた。

 対し、“東方不敗”は手に持つ刀を右に構える。その胸元では先ほどまでと同じように紅の光が一定の光量を保ち続けていた。


 互いに相手の手を少しずつ理解し始めている。

 その上で、次に激突する上でどう動くべきか脳内で思考を推し進め、体に力を込めていく。


 息を吐いたその瞬間、“東方不敗”の体が動く。

 呼応するように、琉衣夜が大地を蹴った。

 刹那、両雄の力が再度交錯する、


 その直前で、“東方不敗”がピクリと眉をひそめながら彼から視線を外した。

 あまりにも唐突かつ予想外の動きに、琉衣夜も距離を詰めようとした足に制動をかける。


「……なんじゃ、これからが良い所じゃと言うのに」


 苛立たしげな声で、“東方不敗”は虚空に語りかける。

 魔導による通信。そう判断し、琉衣夜は周辺へ展開していた“黒”で再度周囲の探索を行い始めた。

 まず間違いなく、この場にいる二者の実力は最低でも拮抗している。

 この状態でもう一人敵が乱入してきた場合、数による劣勢を覆すことが出来ないまま敗北する可能性が出てしまう。

 幸い、“黒”で探査できる圏内にそれらしき反応はない。……とは言え、彼や“東方不敗”程度の身体能力を持つものであれば、ものの数秒で乱入してくるだろうから油断はできないのだが。


「……随分と大口を叩いてくれるのう。私に、目前の敵を捨て置いて退けと申すか」


 言葉と同時、“東方不敗”の目元が鋭く釣り上がる。

 口調は変わらないが、言葉に込められた怒気は相当なものだ。通信相手に本気で怒りを向けていることがわかる。

 ぎりぎりと少女は歯噛みしていたが、数秒ほど経ってから深々と息を吐きながらトンと足を踏み鳴らす。

 瞬間、彼女の左手に抜き去られていたはずの鞘が現れ、荒々しい挙動と共に構えられていた刀が収められた。


「“黒翼”、今日はここで終いじゃ。横やりが入ってしまった故な」

「……なんだよ、随分と呆気ないな」

「許せ。こちらも叶うなら最後まで続けたいところじゃ」


 苦々しげにそう言い、彼女は琉衣夜へ背を向ける。

 それに、少年は言葉を続けた。


「逃さない、つったらどうするよ」

「一向に構わん。何なら追ってみるか? 私としては、そちらの方がありがたいがの」


 肩越しにこちらを見やり、少女は笑みを浮かべる。

 それに、琉衣夜はため息をついて答えた。


「……やめとく。興が削がれた」

「すまん。じゃが、この続きはそのうち手配させてもらうからの」

「そうかい。なら、楽しみにしてるぜ」


 拳を開いてそう言う彼に、“東方不敗”は最後にもう一度クスリと微笑んで離れていく。

 その気になれば追撃を仕掛けることはできたはずだが、先ほどの言葉通り彼も既にやる気が失せてしまっている。ここから再度刃を交えた所で、楽しめるとは到底思えない。

 結局、その背中が夜闇に紛れて消え失せるまで、彼は何もしないままその場に立ち尽くしていた。


「……やれやれだ」


 深々とため息を吐き、彼はぐしゃぐしゃと頭を掻きながらベンチに腰掛ける。

 ふと横を見やれば、先ほど置いたコーヒーがまだその場にあった。フィールドは随分と荒れていたはずだが、吹き飛ばされずに済んでいたらしい。

 数秒ほど思案してから、缶を手に取る。すっかり冷えてしまっていたが、そんなことは別にいい。

 とりあえず、このモヤモヤを押し流してくれればそれでいい。

 そんなことを考えながら、中身を煽る。

 途端、ジャリというコーヒーにあるまじき食感が口の中に広がった。どうやら、戦闘で巻き上げられた砂が入ってしまっていたらしい。


「……くそっ」


 口の中の砂利をコーヒーと一緒に吐き捨てて、毒づく。

 イライラとした衝動のまま缶を握りつぶし、同じく戦禍を免れたらしいゴミ箱へ放り捨てた。


「……帰るか」


 嘆息し、そう呟きながら“東方不敗”が消えていった方角とは別の方向へと彼も歩き出す。

 公園の出口で思い出したかのように『人払い』と結界魔導を解除し、そのまま彼は家路を歩いていった。


 なお、この戦闘で巨大なクレーターがいくつも生み出された公園は、巨大十字の倉庫と並んで地元の七不思議として語り継がれることとなる。



「……そんな所だ」

『なるほどね。まあ、例の辻斬りとやりあって五体満足で戻ってきたんだ。まずはそれを評価しようか』


 その夜更け。

 アパートに戻った彼は、ベランダで司と情報を共有していた。

 意外な事に、途中で逃げられたことや追撃を仕掛けなかったことには特にお咎めなかった。

 司曰く、『“罪咎の巣”も人手不足だから、これ以上手が減るのは困る』だそうだ。


『しかし、気になるな。彼女を制止できるほどの何かが裏にいるということか』

「ああ。正直、こっちじゃ予測がつかないんだが」

『こちらもだな。君の報告から再度情報を集めなおす必要がありそうだ』


 電話越しに、司の嘆息が聞こえてくる。

 対し、琉衣夜もつられるようにため息をひとつ吐き出した。

 “東方不敗”自体は、琉衣夜一人でもどうにかできるかもしれない。しかし、彼女が従わざるを得ないような組織というのは、どうにも引っかかる。

 魔導士というものは、人の世の常識に縛られるような存在ではない。

 瑠奈や美咲を見ているとどうしても忘れがちになるが、常人の世界ではどうしても叶えられない望みを手にするために生み出されたのが魔導だ。

 故に、魔導士を志す者達は必然的に常識の内ではどうにもできないような願いをかけていることがほとんどである。中には、瑠奈のように生まれ持っての境遇のせいでそれ以外の道がなかった場合もあるが。

 その魔導士が集団でいることのデメリットを飲み込んでさえ所属しているような組織。それも“東方不敗”のような一定以上の実力を保持している魔導士を先ほどのように無理やり撤退させるだけの力を持っている訳だ。

 単体戦力としては“罪咎の巣”の中でも相当な位置にいる琉衣夜や美咲レベルの実力者をあっさりと従えられる程の組織。

 こうして表立って動いているにも関わらず、背後の存在が全く見えていないという状態が、彼らにとってはどうしても納得がいかなかった。


『ひとまず、“東方不敗”とその背後関係についてはこちらで再度洗い直す。君はいつ何が起きても大丈夫なように準備を整えておけ』

「了解。……とはいえ、出来る事なんてそれほどないけどな」

『あるさ、瑠奈のケアをしてやれ。ここ最近のことでだいぶ参っているようだからね。次の出撃の時にこの前みたいに乱入されたら、敵わないだろう?』

「……わかったよ」

『素直でよろしい。それじゃあ、何かわかり次第共有する』


 一方的にそう言って、司は通話を終了させた。

 あからさまに不機嫌になるのであれば、言わなければいいものを。内心で吐き捨てながら、琉衣夜は端末をポケットにしまう。

 カーテンをくぐってリビングに戻ると、テーブルでお茶を飲みながら宿題を進める瑠奈の姿があった。

 瑠奈は琉衣夜が部屋に戻った途端、こちらを向いて静かな微笑を浮かべる。


「報告お疲れ様。何か飲む?」

「あー、じゃあ同じやつで」

「わかった。座ってて」


 ニッコリと満面の笑顔でそう言い、瑠奈はテーブルの上に置いていたガラスポットを手にキッチンへ歩いていく。

 ガスコンロに置きっぱなしだったヤカンを再度火にかけ、中に入っていたティーバッグを捨てて新しいものと琉衣夜がよく使うグラスを戸棚から取り出した。

 しゅんしゅんと湯が沸いたとヤカンが主張し始めたら火を止め、三杯分のお湯を注いでゆったりとした挙動でこちらへと戻ってくる。


「ちょっと待ってね……。もう良いかな」


 ゆらゆら揺らしながらお茶の色を伺い、よしと頷いてから彼女は琉衣夜のグラスへお茶を注ぐ。

 半分ほど入れてからポットを再度テーブルへ戻し、にこやかにグラスをこちらへと差し出した。


「はい、お待たせ。冷えなかった?」

「ありがとう。流石に夏が近いからな」


 大丈夫だろ、と言いながらも少年の指先はほんの微かに白くなっていた。

 両手で抱えるようにグラスを手に取り温まる姿は、まるで長旅の末に巣へ戻ってきた鳥のような印象を抱かせる。

 ふーふーと息を吹きかけながら少しずつお茶を口に運ぶ琉衣夜を、瑠奈は穏やかな表情で見守っていた。

 それに、じっと見つめられてどうにも言いがたい感覚を覚えた少年は眉を顰める。


「……なんだよ」

「んーん。今日も、無事に帰ってきてくれたなって」

「いつも言ってるだろ、絶対帰ってくるって」

「そうだけど、さ」


 何言ってるんだ、と首をかしげる琉衣夜に瑠奈は少しだけ唇を尖らせた。

 少女の反応に疑問を抱きながら、彼は空っぽになったグラスへお茶を注ぎたす。本当にわかっていないらしい少年に、瑠奈は内心でため息を吐きながら口を開いた。


「いいよ、わからないなら。無事で何よりだから」

「…………おう」


 何とも言えない雰囲気で話を打ち切られてしまい、琉衣夜はどことなく収まりの悪さを感じて椅子に座りなおす。

 だが、瑠奈の方は今の一言で本当に話題を終わらせてしまったつもりらしい。

 さてと、と言いながら立ち上がり、瑠奈はググッと伸びをした。


「お腹空いていない? 食べたのは知ってるけど」

「……何か残ってたっけ」

「昨日の作り置きなら。待てるなら、軽いものも作れるけど」

「んー……手伝うわ」

「そう? じゃ、お願い」


 グラスのお茶を飲み干し、琉衣夜も立ち上がる。

 瑠奈は既に冷蔵庫を開き、中身を確認しながらむむむと唸っていた。


「トマトソースと鶏肉がまだ残ってるから炒め物にでもしようか。……お腹、入る?」

「そのぐらいなら。ご飯どのくらい残ってんだ?」

「そんなになかったはず」


 言いながらちらりと炊飯ジャーへ目を向ける。

 少女の記憶が正しければ、朝の時点で空っぽになっていたはずだ。蓋を開いて中を見てみれば、やっぱり洗った後の釜があるだけで中身は入っていない。

 とすれば、残っているのは冷凍してある分だけだ。

 視線を戻せば、それを察したらしい琉衣夜が冷蔵庫を開いて中を探っていた。 


「お、これか」


 取り出したタッパーには完全に固まり切った白飯が入っていた。

 タッパーごととりあえず電子レンジに放り込んで加熱ボタンを押す。瑠奈は冷蔵庫からトマトソースと鶏肉を取り出して、調理の準備を始めていた。


「……手伝える事、あるか」

「うーん……今はないかな。お皿の準備くらい」

「あいよ」


 戸棚から茶碗と平皿を取り出して茶碗をレンジの近くに、平皿を調理台の近くに置いておく。

 ちらりと目を横に向ければ、ちょうど温まったフライパンに切った鶏肉を投入し始めたところだった。ぱちぱちと油の弾ける音と一緒に、鶏肉が鉄板の上で踊り出す。

 それを横目で観察しながら、瑠奈はすぐそばに置いてあった瓶から塩をつまんで二回パラパラと振りまいた。

 同じ動きで今度は胡椒をひとつまみ振りまき、肉がくっつかないようにフライパンを動かしながら肉に火が通っていくのを見続ける。

 じっくりと火を通してきつね色に変わったところで、タッパーのトマトソースを投入する。鼻歌を歌いながらフライパンを振るその姿は堂に入っていて、琉衣夜はいつの間にかその立ち姿に見入ってしまっていた。


 気づけば、瑠奈が調理を終えて皿に盛り付けようとこちらを向いていた。


「ん、どうかした?」

「あ、いや……料理、本当に上手になったな」

「先生がよかったからね〜」


 冗談っぽくはにかみながら、瑠奈は手際よく皿へチキンのトマトソース炒めを盛り付けていく。

 その姿がまたとてつもなく似合っていて、いつの間にこんなにも料理が得意になったのだろうと琉衣夜は内心首を傾げてしまう。


「はい、できたよ。ご飯、もうあったまってるんじゃない?」

「ああ、ありがとう」


 左手でお皿を持ちながら右手でレンジを指差す瑠奈に、琉衣夜は頷いてタッパーを取り出した。

 茶碗へご飯を盛り付けて箸を取り出し、テーブルの方へと戻る。

 テーブルでは、料理を持っていってくれた瑠奈がこちらを見ながら待っていた。


「それじゃ、どうぞ」

「いただきます」


 両手を合わせてそう言い、瑠奈が作ってくれた料理へ手をつけ始める。

 その光景を、瑠奈はやけにニヤニヤした目で見つめていた。

 あまりにもじっと見つめてくるもので、どうにも食べづらい。


「……だから、なんだよ」

「べっつにー。美味しそうに食べてくれるから、嬉しくて」

「良いだろ、別に。美味しいんだから」

「でしょ。がんばったから」


 そう言ってニコニコ笑う瑠奈が、どうしてか眩しく見えた。

 最近は料理で教えることも少なくなっている。既に彼女の料理の腕はレシピを見ながらやればある程度のものが作れる所まで達していた。

 手間のかかる料理はできないかもしれないが、日常的に食べるものであれば作れないものはないだろう。

 ただ二ヶ月でそこまで少女は成長しているというのに、自分はこの一ヶ月どのくらい変わったのだろうか。

 そう考えるだけで、内心に薄暗いものが広がっていく気がする。


「ごちそうさま」

「はーい、お粗末様でした」


 表情に自らの内側から湧き上がる暗い感情を映さないようにしながら、食事終了の礼をする。

 すると、瑠奈は立ち上がってこちらの皿を片付け始めた。


「こっちはやっておくからさ。寝る準備、しちゃいなよ」

「悪いな。ありがとう」

「気にしないでー」


 片目をつぶってにっと笑う瑠奈に片手を上げ、彼は洗面台へ向かう。

 帰った後、既に風呂は済ませていた。布団は瑠奈がもう敷いているらしい。つまり、後は歯を磨いてしまえば何も考えずに寝ることができる。


(……しかし、“東方不敗”だったか。次はいつくるやら)


 つい先ほどまで命をかけたやり取りを交わした相手のことを、ぼんやりと思い出す。

 互いに今日は全力を出していないし、傷も負ってはいない。

 言わば、今日の一戦は前哨戦に過ぎない。

 次に拳を交える時は、その時こそ互いの死力を尽くしたものになるだろう。


 ぎゅっと、右の拳を握る。

 途端、その甲にしゅるりと漆黒の点が現れた。まるで、彼の感情の動きに引き摺られたように。

 ヌタヌタと彼の拳の上を蠢く真黒な泥を、少年はぼんやりとした目で見つめる。それをどういう風に受け取ったのか、悪意の滴は彼の手の上を踊り、じわじわと広がっていく。


 どくん、と心臓が強く鳴り始めた。それはまるで、目前で広がる光景を警告するかのように。回転している歯車の不協和音のように、彼の鼓動は高らかに鳴り響いていた。

 けれど、それに反して琉衣夜の思考はぼんやりと胡乱な挙動を示している。

 目の前で何が起きているかは、認識ができている。なのに、それに対してどうするべきか反応を起こすことができない。


 ただ、目前で波立つ漆黒の動きをぼんやりと見つめるままで。


「琉衣夜ー?」 


 突然、扉の向こう側から呼びかける声が聞こえてくる。

 刹那、彼の意識がハッと覚醒した。


 もう一度、自らの拳を見つめる。

 しかし、そこにはもはや一点のくすみも曇りも見えはしない。

 幻だろうか。そんなことをほんの少しだけ考える。

 けれど、早鐘のように鳴り続ける心臓がそうではないと声高に否定していた。


「るーいやー。大丈夫ー?」

「あ、ああ。どうかしたか?」

「んー、いつもより時間かかってるからどうしたのかなって」

「ぼーっとしてただけだ。心配すんな」

「そう? ……わかった」


 扉の向こうから、少女の気配が消える。

 そんなにぼーっとしていたのだろうかとポケットの端末を見てみれば、知らぬ間に十分が過ぎていたらしい。

 そりゃあ、心配もされるだろう。

 しっかりしろ、と自分に対して溜息を零しながら、口の中をゆすぐ。


 洗面台を出てリビングに戻れば、瑠奈が水のグラスをトントンと叩きながら頬杖をついていた。

 琉衣夜が部屋に入った途端、少女の視線がこちらを向く。


「……怪我、大丈夫?」

「大丈夫。今日は怪我してないから」

「……ならいいけど」


 こちらをじっと見つめる目が、一瞬だけ彼の顔から逸れて全身を舐めるように動いていく。

 少年の挙動がおかしくないかを見定めるつもりだったのだろう。

 多分、体の方はなんともないはずだ。実際に怪我はしていないし、ひねったりもしてない。その程度のやりとりしかしていないのだから。

 秒にも満たないほどの間隔で、彼女の視線が琉衣夜の顔へと戻る。

 先ほどよりは安心したようだが、それでもその顔は一抹の不安を抱えていた。


「……寝よっか」

「そうだな」


 ぽそりとそう言ってくる瑠奈に、琉衣夜は苦笑しながら返す。

 いつも通りベッドの脇に敷かれた布団に寝ころぼうとすると、ベッドの上から瑠奈が声をかけてきた。


「琉衣夜、こっちで寝る?」

「……勘弁してくれ」


 無邪気にかけられる一言に、琉衣夜は半眼で答えた。

 昨日の今日で、もう一度一緒に寝る気にはなれない。なんだかんだ、琉衣夜も高校生の男子だ。

 今の時点でそのつもりは無いとは言え、ベッドの中で声をかけられたらどうなるかなんて予想はつかない。


 ……それに、“黒”を使った直後に彼女と物理的に接触するのは、なるべく避けたいというのもある。

 洗面台でのアレがもし幻想ではないのであれば、まず間違いなく琉衣夜の体には戦闘の際に呼び寄せた悪意が一定量残っている。

 それが瑠奈に悪影響を及ぼさないとは言い切れない。


 つまり、導き出される答えは徹底拒否である。

 一言でバッサリと相手の申し出を切り捨て、琉衣夜は布団に潜り込む。


「おやすみ」

「う〜……おやすみ」


 目を閉じながら、少女へそう告げる。

 瑠奈は少しの間唸っていたが、結局そう答えて布団へもそもそと入っていったらしい。

 やれやれと思いながら、深く息を吸う。

 とりとめもないことを思い浮かべながら暗闇の中をたゆたっていると、すうすうと規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 なんだかんだ言いながら、彼女も眠たかったらしい。

 それにほんのかすかな笑みを浮かべながら、琉衣夜も眠りに落ちていく。


 静寂に包まれた宵闇の中、二人の安眠を妨げるものはなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ