第一章 拭えぬ焦燥−2
「ねえ、琉衣夜。あんた、瑠奈と喧嘩でもしたの?」
「してねえよ……」
翌日の昼休憩のこと。
普段なら嬉々としてこちらに机をくっつけて来る瑠奈が、こちらを向きもしないまま弁当を広げ始めているのを見て、龍音が眉をひそめながら尋ねてくる。
今朝起きたことを教室で話すわけにもいかず、琉衣夜は半眼になりながらそう答えるしかなかった。
「そう? なら、あの子は何であんなに顔真っ赤にしてるのよ」
「……知るか。あいつに聞いてくれ」
「うーん……。まあ、そっちの方が手っ取り早そうね。……襲ったりしたわけじゃないわよね?」
「んな訳ねえだろ」
「安心したわ」
真顔でストレートに聞いてくるバカに、ジロリと睨め付けながら返事をする。
すると、いまいちこちらを信じていないことが表情にありありと出たままの龍音がそんな答えを返してきた。
うっとうしいやつだ。信じないのなら、そもそもこちらに聞いてこなければいいのに。
「行けよ。俺は屋上で食う」
「了解。何かあったら呼び出すからね?」
「知るか」
心の底から面倒臭そうな言葉をひねり出しながら、琉衣夜は席から立ち上がる。
すれ違う際にちらりと瑠奈の方へ視線をやるも、彼女の方はこちらを向きもしない。小さなため息をつきながら、しかし彼も何も言わないでそのまま教室を出た。
半眼のまま廊下を通り抜け、通い慣れた階段の方へと足を進める。
すれ違う学生は多いものの、誰も声をかけてきたりはしない。当然だ、彼がそれを望んだのだから。
ただ、最近色々な意味で悪目立ちしてしまったせいか、こちらをチラチラと見やる視線はひどく多かった。
「……くだらねえ」
自分にさえ聞こえない程度の声を口の中で転がしながら、階段を上がっていく。
屋上に出るための扉は普段から鍵がかかっている。安全上の理由らしいが、琉衣夜の前ではそんなもの全くもって意味をなさない。
とん、と足で地面を叩き、呼び出した“黒”で無理やり開錠する。
扉を開いて外へ出てみれば、誰もいない屋上は普段通り静寂に包まれていた。
念のために鍵を閉めて、扉から見えない位置に座り込む。持ってきた弁当袋を横に置いて、彼はググッと伸びをする。
ゴキゴキと嫌な音が聞こえた。昨日寝るのが遅かったおまけに、途中で叩き起こされたせいか、体が悲鳴を上げている感じがしている。
深々と息を吐きながら、壁に背中を凭せかける。
見上げてみれば、吸い込まれそうなほどに青い空があった。
まるで、暗い気持ちを抱いた人間をあざ笑うかのような快晴だった。雲ひとつない空模様に、いまいましげな視線を向ける。
曇っていれば、もしかしたら落ち着いていたかもしれない。
そんなことを考えている自分に気づいて、余計に嫌な気持ちになる。
「ほんっとに、くだらねえ」
吐き捨てて、視線を下に戻す。
自分以外は入ってこない、静謐の空間がそこにあった。いつも通りの場所を見たことで、ささくれていた気分がほんの少し落ち着いてくる。
しかし、食欲は湧いてこなかった。
左手に目をやれば、弁道箱を入れた青い袋がある。
なんだかんだ言いながら今日も瑠奈が作ってくれた料理だ。食べなければもったいないし、何より瑠奈に申し訳ない。
のろのろとした動きで彼は弁当箱の蓋を開く。
中には色とりどりの食材が並び、ひとつひとつが美味しそうな香りを発している。
綺麗に巻かれただし巻き卵。
デミグラスソースがかけられたハンバーグ。
しっかりと火が通りながらも鮮やかな色合いのほうれん草。
しっとりとした艶のある光沢を見せるなすの煮浸し。
どれを一つ取っても、少女の手のかけようがわかる。
この一ヶ月でさらに実力を伸ばした瑠奈は、既に琉衣夜が教えずともある程度の料理ができるようになっていた。
料理を習い始めた当初の素人感はもはやなく、口にすればきっとどれも美味なのだろう。
なのに食べる気になれない。
どうしてか、普段はバカみたいに湧いてくる食欲が、今日に限っては微塵も出てこなかった。
キュッと唇を噛み締めながら箸を手に取るも、やっぱり食べようという気持ちが湧いてこない。
体は食べ物を求めているのに、心がそれを許さない。
自分はこんなにソフトな性格だっただろうか。
ほんの少しすれ違いを起こしただけで食事が喉を通らなくなるような、そんなやわな心の持ち主だっただろうか。
何だか、自分が弱くなっていくような気がして、何となく気に入らない。
ほんの少し前まではたとえ数人血を流している光景を見たところで心ひとつ動かなかったのに、今ではたかが少女一人の表情に揺れ動いてしまっている。
そんな自分が、女々しくなってしまったような気がして。
深々と、ため息を吐く。
水筒を取り出し、口を開いて麦茶を蓋に注ぐ。目一杯まで入れたところで筒を横に置いて、注いだお茶を一気に飲み干した。
喉を通り過ぎていく冷たい感触に、ほんの少しだけ心が上向くのを感じる。
けれど、やはり固形物を口に入れる気にはなれなかった。
「……ごめん、瑠奈」
小さく呟きながら、琉衣夜は弁当の蓋を閉める。
どうしても、今これを食べる気にはなれない。家に戻ってから、食べることにしよう。
もう一杯麦茶を飲み干し、琉衣夜は屋上を後にする。
誰もいないが故に空間にやたらと足音が響く。
コツン、コツンという自分の発する音を耳にしながらゆったりと降りていくと、踊り場に誰かが立っているのが見えた。
その人物に見覚えはない。
そう認識した瞬間、琉衣夜の興味は別の所に移り始める。
その少年が何も言葉を発さなければ、そのまますれ違っていただろう。
「なあ、あんたが藤崎琉衣夜?」
「ん?」
すれ違おうとしたその瞬間、少年の方から彼に声をかけてくる。
それに、琉衣夜は声の方向へと目を向けた。
もう一度見直してみても、やはりその顔に見覚えはない。少なくとも、自分のクラスの人間ではないし、これまで彼といざこざを起こしたことのある人物ではない。
「……誰だ、アンタ」
「隣のクラスの国東。少し話がある」
「俺にはない」
言い捨てて、琉衣夜は国東に背を向ける。
流石にあっさりと切り捨てられるとは考えていなかったのか、国東は少し慌てた様子で彼に追いすがってきた。
「ま、待てよ。アンタにはなくても、俺にはあるんだ」
「興味がない」
「深夏瑠奈の話でもか?」
「……あ?」
その言葉は、琉衣夜の足を止めるには十分な力を持っていた。
ギョロリ、と視線を向けると、国東は一瞬怯えたように体を震わせたが、キッと表情を締めて再び口を開く。
「深夏瑠奈について、聞きたいことがある。アンタ、彼女の何なんだ」
「……お前に答える義理はないな」
「ある。アンタがただの同居人なら、俺にもチャンスがあるからな」
「チャンス?」
何をいっているんだ、こいつは。
あまりにぶっ飛んだ発言に、琉衣夜の思考が一瞬追いつかなくなった。
それをどういう風に受け取ったのか、国東は自信満々な笑みを浮かべてさらに言葉を続ける。
「だから、アンタ別に彼女の恋人って訳じゃないんだろ。なら、俺が彼女に告白しても別に文句ないよな」
その一言で、琉衣夜の思考が完全に真っ白になる。
これまで数々の言いがかりを受けてきた。その中にはいくつか明らかに喧嘩をふっかけてきているとしか思えない言動も多々あった。
けれど、今の言葉はそれ以上に訳がわからない。
こいつは、本気で言っているのか。
「……お前、本気で言ってんの?」
「本気も本気だっての。そうじゃなきゃ、こんなこと言う訳ないだろ」
「……はぁ」
何と言うか、話しているだけ無駄な気がしてきた。
隠すことなく深々とため息をついて、琉衣夜は国東の隣を通り抜けようと足を踏み出す。
「待てよ」
そう言いながら肩に手を伸ばしてくるが、触れられる前に左手で弾き落とす。
驚いたように目を見開く国東に、汚物でも見るような視線を向けながら口を開いた。
「好きにしろよ。俺の知ったこっちゃねえ」
それだけを言い捨て、琉衣夜はその場を歩き去る。
腹から胸の辺りまで、ムカムカとした何かが暴れまわっていた。言葉にしようのない苛立ちがギリギリと奥歯を噛み締めさせる。
そうでもして食い止めていないと、吐き出してしまいそうだった。
瑠奈が他の男共に人気なのは知っている。
瑠奈と琉衣夜が同居していることがほとんど周知の事実として知れ渡っているからこれまで似たような奴がいなかっただけで、もし彼が彼女と今の生活をしていなければ既に両手で数えられるほどの男たちが告白しているだろう。
だから、国東とやらが世迷言を吐いてきたこと自体にはあまり苛立っていない。
なのに、何なのだろう。この、妙な苛立ちは。
胃が空っぽのままなのも、今のこの状況を余計に面倒なものにしている。
普段空腹でここまでイライラすることはないのだが、今朝の騒動とさっきのバカのせいで心がぐちゃぐちゃに乱されていた。
心臓が早鐘のように鳴り響く。さっきの会話を思い出すだけで、ぐっと胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。
だめだ。
ここでぶちまける訳にはいかない。
でも、どこで吐き出してしまえばスッキリするのか、今の琉衣夜にはわからない。
どこかへ行きたい。
けれど、どこにいけばいいのだろうか。
屋上に戻りたいところだが、屋上への道のりには国東がまだいるだろう。
教室へ戻ったところで、瑠奈と龍音のコンビにさらに苛立たせられる可能性が高い。
もう、いっそ帰ってしまおうか。
奏絵先生を説得するのは骨が折れるが、今の心境のまま教室に戻ってやらかしてしまうよりは、全然マシに思える。
そう思案して職員室へ足を向けようとしたその時。
「琉衣夜」
今一番聞きたくて、最も会いたくない人物の声が聞こえてきた。
声のした方向へと振り返る。
視線の先には、茶色の髪をふわふわと揺らす最愛の少女が立っていた。
「……なんだよ」
「その、朝から何も話出来てなかったから。お話、したいなって」
胸の辺りに右手をやりながら、瑠奈はそう答える。
ふい、とそらされたその顔は、どうしてか少しだけ赤らんでいた。
その声と仕草に、それだけで喉付近までこみ上げてきていた感触が引いていくのを感じる。
それどころか、トクントクンと鼓動が普段通りのペースで再び刻み始めていた。
はぁ、と一つ息を吐く。
さっきまで荒れていた呼吸が、いつの間にか自然な感覚に戻っている。
すぅ、と静かに息を吸って、チラチラこちらを伺ってくる瑠奈に向かって口を開いた。
「……飯、もう食ったのか」
「うん。龍音ちゃんとさっきまで一緒だったから」
「じゃあ、図書館でいいか」
「いいよ。……琉衣夜はもう食べたの?」
「まだだけど……」
その返答に、瑠奈はぱちくりと目を開いた。
琉衣夜の言っていることが信じられない、とでも言うかのような挙動の後に、少女は柔らかく微笑む。
「じゃ、屋上に行こう。あそこなら、二人きりで食べられるよ」
ほら、と琉衣夜の開いている左手を取って、瑠奈は歩き出す。
それに国東がいると言おうとしたが、「なぁに?」と少し楽しげに首をかしげる彼女を見て、何も言えなくなる。
少女は軽やかな足音を立てながら廊下を歩いていく。
少年はそれに引っ張られるままついていくしかなかった。
幸い、とでも言おうか。廊下に続く階段の踊り場には、もう国東はいなかった。
ほっ、と安堵の息を零す琉衣夜に、いたずらそうな光を瞳に宿して少女は「ほら」とさらに手を引く。
コツンコツンと鳴らされる二つのリズムが、誰もいない空間に反響してさっきよりも大きく聞こえる。
握られた手の温もりと耳に届く音が、いつの間にかささくれ立っていた彼の心を鎮めていた。
「ねぇ、琉衣夜。扉、開けてくれる?」
「……いいけど」
ボソリと呟いて、彼は再び“黒”で鍵を開く。
それを見た瑠奈は、にっこりと微笑んで屋上への扉を開け放った。
風が、二人を包み込むように通り抜けていく。
青空が、おかえりとでも言うように輝いて見えた。
隣に誰かがいるだけで、こんなにも見違えるものだろうか。そんなことをぼんやりと思いながら呆然としていると、一歩前に立つ少女がトントンとこちらの腕を叩いた。
「ほら、あっちで食べよ。いつもあそこでしょ?」
「あ、ああ」
手を引かれるまま、彼はさっき座っていた場所へ誘導される。
ニコニコと微笑む瑠奈に導かれるように、琉衣夜は再び弁当袋の紐を緩めた。
中から弁当箱と水筒を取り出すと、瑠奈は無言のまま水筒を手に取って蓋にお茶を注ぐ。
その仕草を見ながら、琉衣夜はもう一度弁当箱の蓋を開いた。
美味しそうな香りが鼻をくすぐる。
さっき見たときも彼の目には鮮やかに写っていたが、今はその比じゃない。色とりどりの料理が、日陰にいるにも関わらず存在感を放っていた。
「どうぞ。ゆっくり召し上がれ」
耳を通り抜ける、柔らかな一言。
それが最後の鍵だったのか、ゴクリと唾を飲み込んだ琉衣夜はそのまま箸を手に持って料理を口に運び出した。
一口ごとに、様々な味が舌の上を駆け巡り体の内側へ流れ込んでいく。
それに空腹をこらえていた体が、ここぞとばかりに「もっと、もっと」と叫んでさらに頬張らせる。
ガツガツと餓えていたように料理を平らげていくそんな姿を見ながら、瑠奈はにっこりと微笑んでいた。
あまりにも勢いよく食べるせいで時々喉を通らない仕草を見せる少年にお茶を渡しながら、少女は自らの手料理が減っていくのをやんわりと待っている。
評価を口に出さずとも少しずつ緩む目元が、勢いを緩めない手が、必死に嚥下する口が、如実に語ってくれていた。
弁当箱が空っぽになるまで、十分はかからなかったんじゃないだろうか。
一つだけ残っただし巻き卵を少し惜しげに見つめながら、琉衣夜は最後の一口を放り込んだ。
そこに、ゆったりとした所作で瑠奈がお茶の入った蓋を差し出す。
小さく頭を下げながらそれを受け取り、少年は口の中に残る昼食の名残を押し流した。
ほう、と満足げな吐息が口元からこぼれ落ちる。
先ほどまでの張り詰めた雰囲気は何処へやら、少年の表情は分かりづらいものの少しだけ緩んでいた。
「ごちそうさま。……今日も、美味しかった」
「はい、お粗末様でした」
箸を折りたたみ、弁当箱と一緒にしまってから琉衣夜はぺこりと頭を下げる。
それに瑠奈は、首をほんの少し傾けながら答えた。ほんわりと微笑むその姿に、琉衣夜は自身の中の何かが緩んでいくのを感じる。
「ごめんな、待たせちゃって」
「ううん、気にしないで。こうやって二人だけでゆっくりするの、久しぶりだからむしろ嬉しいかな」
それに、と瑠奈はもう一度頭を下げる。
「今朝は、ごめんね。その……びっくりしちゃって」
「ああ……まあ、それもそうかもな」
口をヘニョリと情けなく曲げながらそう謝罪する瑠奈に、頰を掻きながら琉衣夜は答える。
実際、寝る前はベッドに寝ていたはずなのに起きたら布団で寝ていて、しかもある程度心を許しているとは言え男性が隣で眠っていたらそりゃ驚くだろう。
深々と謝罪の意を示す瑠奈の頭に手を伸ばす。
くしゃり、と茶色の髪に右手が触れた途端、瑠奈の体がびくりと震えた。けれど、跳ね除けようとはしない。
大丈夫そうだと判断して、琉衣夜はゆっくりと髪を梳くように少女の頭を撫でる。
「こっちこそ、イライラしたままでごめん」
「それこそ仕方がないよ。最近、ずっと遅くまで頑張ってるんだから」
少しずつ表情を緩ませながら、瑠奈は上目遣いでこちらを見やる。その目さえも少しずつとろんとしたものに変わっていく。
それにクスリと微笑んで、琉衣夜は余っていた左手を少女の頰へやる。ぷにぷにと餅のように柔らかいほっぺをつつき、にっと笑いながらぷにょんとつまんだ。
それに、瑠奈は不満げに唇を尖らせる。
「むー」
「むー、じゃねぇよ。何かあるなら口で言え」
「うー」
ふよふよとほっぺを伸ばしながら、意地悪な笑みを浮かべる琉衣夜。
それにじとっとした半顔を返す瑠奈だったが、何かを思いついたのかキラリと目を輝かせた。
「ねぇ、琉衣夜」
「ん?」
猫のような笑みを浮かべながら、少女はこちらの頰へと手を伸ばす。
しゅるりと伸びてくるその手は、ひんやりとした感触と共に彼の顔を撫でていく。その感覚がほんの少しくすぐったくて、琉衣夜は遠ざかるように首をほんのわずかに曲げた。
そこで、瑠奈の瞳がキランと輝く。
「隙あり!」
「うおっ」
そのまま顔に触れた手に力が込められ、彼の体を首ごとぐいっと引っ張る。
気を緩めていたことと、ほんの少し体を傾けていたことが災いし、瑠奈の思うがままに体を倒されてしまう。
着地点は、瑠奈の膝の上。
わりと勢いよく倒されたはずだが、柔らかい感触のおかげで痛みはなかった。
「……なんだよ」
「えへへー、こういうのも久しぶりだね」
「そう、だったか」
にへら、と緩んだ笑みを浮かべながらこちらを見下ろす瑠奈にわしゃわしゃと髪を撫でられながら、顔をしかめる。
「見られても、知らないぞ」
「いいよ、別に。みんな、もう知ってるでしょ」
「……それも、そうだな」
二つの柔らかい枕の間に頭を沈め、深く息を吐き出す。
体から力を抜いて目を閉じる少年に、瑠奈は優しい視線を投げかけていた。優しくその頭を撫で、同じように目を閉じる。
そのまま眠りに落ちてもおかしくないほど穏やかな雰囲気の中、緩やかに時が過ぎていく。
学校にいることさえ忘れてしまいそうな空間。
まるで、この世界に二人しかいないように錯覚してしまいそうになる程、落ち着いた時間。
それを引き裂くように、携帯のベルが鳴り響いた。
琉衣夜はパチリと目を覚ます。ぐったりとした挙動でポケットから液晶形態を取り出すと、表示されている通知が目に入った。
『“東方不敗”について』
「……へぇ」
かちり、と琉衣夜の中でスイッチが切り替わる。
すっ、と目が猛禽のように細められ、口元に鋭い笑みが浮かんだ。
指先で画面をスワイプし、メールの画面を呼び出す。すると、“罪咎の巣”の情報部から共有された情報がびっしりと記入されていた。
ざっくり要約すると、書かれていた内容は以下のようなもの。
1、魔導士のみを襲う辻斬りが出現していること
2、その辻斬りは東洋人であり、あまりの実力から“東方不敗”と呼ばれていること。
2、“罪咎の巣”のメンバー複数名が“東方不敗”に襲われ、負傷していること。
4、“東方不敗”が“大天使”の居住エリア近辺で確認されており、これまでの行動から撃退ないし討伐が必要であること。
「……なるほどねぇ」
心配そうにこちらを見下ろす瑠奈に微笑みかけ、上半身に勢いをつけて体を起こす。
彼女の方を向き、口を開いた。
「ごめん、今日の夜出かける必要があるみたいだ」
「また、依頼?」
「……ああ」
答えると、瑠奈の唇がほんの少し尖る。
まあ、仕方ないだろう。琉衣夜が最近連日魔導士討伐のために出続けていることを、瑠奈は快く思っていない。
けれど、瑠奈を狙っているかもしれない相手が近くにいるとしたら、放置しておく訳にもいかない。
それに。
(……せっかく骨がありそうな奴が飛び込んできてくれてんだ。このチャンス、逃してたまるかよ)
そう、内心で黒い笑みを浮かべる。
この一ヶ月、弱い相手を嬲る程度しかできなかったが、ここにきてようやく面白い戦いができるかもしれない。
そんな機会を、見逃すつもりはなかった。
と、そこでチャイムがなる。
昼休憩の終わりを知らせる音だ。にわかに建物の中がざわめき始める。
ふむ、と一息ついて、彼は瑠奈に再度声をかけた。
「悪い、先に戻ってもらっていいか。少し連絡を取ってから行く」
「……いいけど、次奏絵ちゃんの授業だよ」
「どうにか言い訳するさ。知らないフリしてくれよ」
「はぁ、わかった。……ちゃんときてよ?」
「ああ、もちろん」
こちらをじーっと見つめたまま不安げに返答する少女へ、琉衣夜はなんでもないように微笑みかけた。
自分の内で喜びに打ち震える心が表に出ないように細心の注意を払いながら、瑠奈が屋上の入り口へ戻っていくのを見送る。
「また、後でね」
「ああ、後で」
瑠奈は最後にちょいちょいと手を振り、階段を降りていく。
その後ろ姿が消えたことを確認してから、琉衣夜は初めて自分の内心を表情に反映させる。
つまりは、喜び。
ぐちゃりと裂けるような笑みを口元に浮かべ、声が漏れないように手で抑え付ける。
やっと、やっとだ。
やっと楽しめるかもしれない。
それに、今回はきちんとした大義名分がある。
少女に罪悪感を感じる必要はない。ただ、目の前に現れた邪魔者を叩き潰せばいい。それ以外のことを考える必要はない。
その事実に昂ぶる心を、深呼吸で必死に抑制する。
“罪咎の巣”のメンバーも数名負傷している状態だ。それなりに実力がある魔導士を何人も襲って、生き残るような相手だ。
なら、小躍りしている場合じゃない。可能な限り、相手に有利な態勢を作り上げないといけない。
そう、必死に自分の心に言い聞かせ、何度か深く深く息を吸い込んでは吐き出す。
落ち着くまでに、数分はかかっただろうか。
はぁ、と一息ついて、壁に背中を預けて目を閉じる。
何度も深呼吸を続けたためか、思考はひどくクリアーになっていた。ほんの少し前までゆっくりと休むことができていたおかげもあるかもしれない。
目を開き、再度液晶形態を起動させる。
目当てはとある人物の連絡先。ものの数秒で番号を見つけ出し、その場でコールを鳴らす。
呼び出し音が鳴り響くこと十数度。イライラと持つ指で携帯の裏を叩き始めた頃に、ようやく相手は応答した。
『……君から僕に連絡するなんて、ずいぶん珍しいこともあるもんだね』
「調べてもらいたいことがあってな。美咲に頼むより、お前に頼む方が手っ取り早そうだ」
開口一番皮肉げな調子で言葉を投げかけてきたのは、安斎司だった。
別に美咲の方にお願いしても構わないのだが、美咲は現代人にあるまじくこういった機械全般と相性が悪い。
頼んだはいいが、全く情報が来ないなんてことが有っては困る。それよりも関係性が悪いとはいえ、最低限の仕事はしてくれる彼の方がこの場合は適任だろう。
「ほう、僕に頼みだと。さてさて、明日は雪になりそうだな」
「つまんねえ冗談はいらねえよ。“東方不敗”、この名前に聞き覚えは?」
「あるよ。元同僚が負傷しているからね。少しだが話は聞いている」
「だったら話が早い。できる限りの情報が欲しい」
ふぅん、と機械越しに何かを思案するような声が聞こえてくる。
続く言葉は、すぐに投げかけられた。
「構わないけど、見返りはあるんだろうね」
「瑠奈の安全」
「……どういうことだ」
「知らないのか。この付近に潜んでいるらしいぜ、その“東方不敗”とやらが」
「……あのヤロウ」
普段の声からは想像できないほどの低い声の後に、舌打ちが聞こえてきた。
もしかしたら、まだ司には情報が入っていなかったのかもしれない。
数秒沈黙が続いたが、小さなため息を間において司が再び口を開いた。
「良いだろう。こっちでも探りを入れてみる。その代わり、ちゃんと働けよ」
「ああ、構わない。言われなくても、そのつもりだ」
「ふん。……夕方まで待て。その程度の時間は必要だ」
「頼む」
最後まで言い切る前に、ブツンと電話が切られた。
「頼んだぜ」
聞こえるとは思わないが、もう一度口に出す。
これでひとまずよし。
一方からの情報だけでは、勘違いを起こす可能性が高くなる。
そして、戦場における偽情報は、時に生死を分けることになる。
少なくとも、司は瑠奈にとって不利益になるような行動は決して起こさない。その分、瑠奈に対してどのように動くか知れたものじゃない“罪咎の巣”よりは信頼を置くことができる。
手早く携帯を操作し、情報部に依頼を受ける旨とさらなる情報を要求する内容のメールを送信してから、彼は携帯をポケットにしまった。
ググッと一つ伸びをして、アスファルトの地面に置きっぱなしだった弁当袋を持ち上げる。
これ以上戻るのが遅れたら、流石に奏絵先生の剣幕を避けられないだろう。
今夜にでも戦闘になるかも知れないのに、無駄な時間は取りたくない。
口元に楽しげな笑みを浮かべながら、琉衣夜も屋上を後にした。




