世界を拒絶したモノ
意識の外側で音が響く。その瞬間、彼-藤崎琉衣夜の夢の世界は色褪せて現実に戻った。
体を起こして目覚まし時計のアラームを止める。
時刻は七時半。準備は昨日の内にすでに済ませているので、朝することは着替えて食事をするだけ。
彼は現在高校二年生だが、学校に行くことに何の必要性も必然性も今の所はない。なぜ学校に行っているのかと聞かれれば、いわゆる引きこもりにはなりたくないだけ。
当然の如く、やる気もない。
「面倒臭ぇな……全く」
ハンガーに掛けていた学生服に着替え、適当に作った朝食を摂る。
いつも通りの時間に家を出て、いつも通り学校に向かう。いつものように面倒臭くて、鬱陶しい一日の始まりだった。
◆
俺、藤崎琉衣夜は人間を信じていない。
いわゆる普通の日常に住んでいる大人達は、人間は決して悪い生き物じゃない、と根拠も何もない性善説を振りかざしているが、断言しよう。
信じる価値のある人間なんて存在しない、と。
その根拠は二年前、俺が十五の時の経験である。
あの時すべては始まった。いや、終わったのかもしれない。
春、両親が自動車事故で急死した。二人とも即死に近い状態だったらしい。
俺は悲しみはしたが、それで途方に暮れる事はなかった。
両親は、上手く使えばとりあえず一生食うには困らないほどの遺産を残しておいてくれていたから。
そして、俺には誰よりも信じられる親友がいた。困った時助けてくれる優しい親戚がいた。多くの友達がいた。だから何も不安はなかった。
三ヶ月ほどは特に何もなく過ごす事ができた。
だが、ある雨の日。俺は路地裏で死にかけた。いや正確には殺されかけた。
大通りで三人のチンピラに因縁をつけられ、路地裏に連れ込まれて、最終的には相手が全員ナイフを取り出してくる、なんてすばらしいまでの殺し合いになった。
三対一ってどんだけ分が悪いんだよ! と叫びそうな状況だっが、奇跡的に本当に奇跡的に抜け出してその当時住んでいた家に戻る事が出来た。
が、家ではおじとおばが俺の部屋に入り、荷物を片っ端から段ボールに詰め込んでいるところだったのだ。もちろん、詰め込まれている荷物は俺の物である。
どういう事だと詰め寄ると、おじが怯えたような血走った目で俺を見ながらこう言う。
「な、なんでおまえが生きているんだ……。くそっ、アイツら失敗したな! 絶対大丈夫だと言ったから任せたのに……!」
その言葉に、俺は崖の上から突き落とされたような衝撃を受けた。
そこにいるのは、これまでの優しいおじじゃなかった。
そこにいたのは、欲望に狂った獣だった。
そして、それに傷付いた俺に追い打ちをかけるかのように様々な人災が襲ってきた。
親友に裏切られた。
自称友達共に金をせびられまくった。
それまでは俺を空気扱いしていた女たちが一気に周りに群がってきた。
……これらの経験から学んだ事は腐るほどあるが、一番は『人間とは、自分の欲望を満たすためならばどこまでも簡単に人を裏切り利用する、獣と全く変わらないようなモノだ』という事。
それを理解した時から、俺は人と触れ合う事をやめた。近付いてくる人間全てを拒んだ。
たとえ表面上はどういう風に繕っていたとしても、本質は変わらない。信じても裏切られる、近付いても傷付けられる。
それならばいっそ全ての関係をゼロにすればいい。最初から近寄らなければ傷付く事もないのだから。
その方法は簡単だ。人に嫌われればいい、疎んじまれればいい。人に好かれる事はとても大変だが、その逆は恐ろしいほどに容易い。
こうして、俺は二ヶ月とかからずに自分の望んだ位置に立っていた。
誰からも邪魔されない、誰にも接する必要のない、静かで全てから解放されたような、そんな日々に。
◆
「ん、もうこんな時間か」
放課後、琉衣夜は図書室で本に没頭していた。彼の学校は県でもそれなりに名の知れている名門校なので、蔵書もそれなりに面白い物が揃っている。
家に帰っても特に何もする事がない彼は、ほぼ毎日ここに入り浸っていた。
「うおっ、まぶしっ」
近くのカーテンを少し開けると西日が直で入り込んできた。光はすでに鮮やかな夕焼けのそれになっている。
「帰るか」
本と学生鞄を持って、貸し出しカウンターに向かう。
借りてから外にでると、太陽の光が蛍光灯に慣れていた目に容赦なく突き刺さる。何度か瞬きをしたところでようやく目が慣れた。
眼を細めながら夕焼けを見ていると、いつしか紅の光は消えていき、完全な夜が訪れ始める。太陽を見届けてから、琉衣夜はふたたび歩き出した。
学校から家に帰るには歩いて十分とかからない。だが、半分ほど帰ったところで家には食材がまるでない事を思い出した。このまま家に帰ると、もう一度出かける事になる。
一番近いスーパーは学校を挟んで反対側。つまり、今きた道を逆戻りする必要がある。
「くそ、面倒臭ぇ……」
早く行かなければ安い食材がなくなってしまう。さっきまでより早足で戻り始めた。
「あれ、琉衣夜。どこ行く……」
周りにも気を配らずに急ぐ。
「ちょ、何で無視すん……」
辺りが少し騒がしいような気がするがおそらく気のせいだろう、とさらに速度を上げる。
「こォんの、無視すんのもいい加減にしろー!!」
「ああ? さっきから何、ってゴフ!?」
さすがに無視しきれずに振り向いた琉衣夜の腹に蹴りが叩き込まれた。激痛に顔をしかめながら、蹴ってきた目の前の少女を見る。
瞳も髪も黒で、背中まであるストレートの髪を後ろで縛っていた。背は琉衣夜より頭一つか二つ分くらい低い。琉衣夜と同じく学校帰りなのか制服だ。
スカートからスッと伸びる、細くて白い足は男なら十中八九見とれるだろうが、騙されてはいけない。その足から放たれる蹴りは大の男ですら悶絶するほどの威力を誇る。
「て、テメェいきなりなにしやがる……!」
「な、何よ! 何度も呼んだのに無視して行こうとするのが悪いのよ!」
「どういう論理だ! ブッ飛ばすぞ、龍音!」
彼女の名は玉置龍音。彼が小学校の頃からずっと同じクラスで、元々家も近く、中一からなぜかずっと席が隣同士、なんていう腐れ縁の幼なじみ。
そのためか、二人の間に遠慮の二文字は存在しない。
「お前さぁ……いい加減少しは女らしくしたらどうだよ?」
「どういう意味よ、それ!?」
「何かある毎に人に蹴り入れるのをやめろって言ってんだよ!」
「大丈夫! 私が蹴るのは琉衣夜だけだから」
「そっかそれなら安心……できるか! サラリとトンデモ発言しやがって!」
それから十分以上、この不毛なケンカは続いた……。
「〜!? ま、まあいい。何をどうしてどう生きようがお前の勝手だしな。とにかく、俺の邪魔だけはするな。それだけだ、じゃあな」
堂々巡りを続けている会話に無理矢理終止符を付けて、立ち去ろうとする琉衣夜。彼女が何を考えていようが、自分に関係しない限りはどうでもいい。……関係しない限りは、だが。
「ちょっ、だから待ってってば! どこいくのよ?」
「どこでもいいだろ。お前に教える義理も義務もない。だいたいそんなこと知ってどうするんだよ」
「一緒に行き……」
「断る」
瞬殺だった。コンマ一秒も待たずに言い切った。
言い終わる前に拒絶された龍音は少しすねた表情になる。
「何でよ?」
「何でもだ」
「けち!」
「けちで結構」
「う〜っ!!…………ダメ?」
「駄目、無理、不可、絶対」
「い、いいもん! 無理にでもついていくもん!」
半分以上ヤケくそのように言ってくる龍音。
どうでもいい事だがこれは立派なストーカーじゃないのか?
そんなことを琉衣夜は一瞬真剣に考えていた。
深々とため息をつく。もう無理だ、相手をしていられない。
食材がなくなるし、これ以上付き合う気力もない。
「悪いけどな……」
相手が傷付くだろう事を知って、それでもはっきりと伝える。
「俺に関わるな。俺はもう二度とお前らと関わるつもりはないんだ」
そう言い捨てて、彼はスーパーに走った。
◆
「おいおい、ニーちゃん。あんた、俺らに絡んできて生きて帰れるとでも思ってんの?」
「殺るよ、殺っちゃうよ?」
「……ハァ」
スーパーからの帰り道で、琉衣夜は再びため息をついていた。
ようやっと龍音を捲いてとっとと家に帰ろうと急いでいると、道のど真ん中でチンピラ三人が女の子をナンパしようとしていたのだ。それを無視して通ろうとすると、チンピラの一人に呼び止められた。面倒なので適当に答えていると冒頭の台詞を言われたのだが……。
(俺、何か悪い事したっけ……?)
一日を振り返ってみるが、特に思い当たる事は何もない。どうやら神様は彼に意地悪をしているようだ。
(面倒臭い……本当に面倒臭い)
「ハァアアアアアアアアア……」
盛大なため息が出る。それにチンピラ達のこめかみがピクリと動く。
「おい、テメエ。なに人の前でため息ついちゃってんの?」
その言葉を無視して、チンピラを少し観察する。ナイフ等の凶器は持っていないようだ。体付きも武道を習得しているような感じではない。
(……なら、楽勝だな)
そう結論付けて、面倒臭げに右手の食材が入った袋を左手に持ち替える。
「お前らがそこで何をしてるとかそういうのにはまるで興味がないんだけどさ、さっさとどいてくれないかな。本当に邪魔なんだよ。早く家に帰りたいんだ」
わざと挑発するような口調で言うと、その言葉で一人の怒りの臨界点が振り切れたようだ。
「ナメてんじゃねぇよ!」
言って殴りかかってくる。琉衣夜はそれを半眼で見つめ、少し身体を屈めて拳をかわす。チンピラの足を払い、勢いに任せて投げる。
まるで水が流れるような一連の動作で、チンピラAが空中で一回転してアスファルトに叩き付けられる。
力は全く入れていないが、受け身をとれなかったのとそれなりに勢いがついていた事、それに片手で投げたために琉衣夜が途中で投げる手を離してしまったのが重なって、それなりに強く叩き付けられたらしい。チンピラAは痛みに呻いている。
彼は薄い笑みを浮かべて、残りの二人を見る。自分たちの一人でも倒れる事なんて考えていなかったのか、動揺しているのが手に取るようにわかる。
「テメェ、何しやがった!?」
「ザケんじゃねぇぞ、おら!」
精一杯の虚勢とともに二人同時に襲いかかってくる。
(やれやれ、しゃあない)
身体に一瞬力を籠め、そして放つ。
手近な方に一気に近付き、右手で顎にアッパーをかまし、腹を蹴って後ろに吹っ飛ばす。仲間が飛んでいくのを見て、ようやっと実力差に気づいた最後の一人が勢いを緩めるがもう遅い。体重をかけたストレートを、容赦なくみぞおちに叩き込んでKOする。
まさに一瞬だった。
ルール無用のチンピラ三人相手に、琉衣夜は左手が使えないハンデがあった。それでもこの結果。
もっともその張本人はそれを別段誇るわけでもなく、「ハァ、本当に本気でメンドいな。早く変えろ……」と言いつつ、帰ろうとしているのだが……。
「ねぇちょっと!」
そんな琉衣夜の背中に声がかかる。
振り向くと、今のチンピラに絡まれていた少女がこちらを見ていた。
年はたぶん自分と同じくらい。辺りが暗くて少しわかりづらいが、髪も瞳も綺麗な茶色。肌は周りの闇から浮いて見えるほどに白い。全体的にホンワリとした柔らかい雰囲気を持っている。
龍音とタイプは違うが、彼女も世間一般的には問答無用で美人の部類にはいるだろう。 が、生憎と彼は男女の区分なく全く興味が無いので、その全てがどうでもよかった。
周りをチラチラと見回して、誰も周囲にいない(倒れているチンピラ達をのぞく)事を確認すると、
「あ〜、もしかして俺を呼んでる? 何か用か?」
「助けてもらったお礼を……」
「いらね。礼を言われるような事はしてねぇし。早く帰らないとさっきみたいのがまた来るぞ」
そう、彼は別にこの少女を助けるためにチンピラと殴り合ったわけではない。ただ単に家への一番の近道が通れなかったから、通れるようにしただけだ。もしも、別の場所で彼女が助けを求めていたとしても無視していただろう。
目の前の現象が自分に害を為さない限りは絶対に関与しない。それが彼が世界に対してとっている態度だから。今回も、特例という訳ではない。
「ん〜、でもお礼くらいさせてよ」
「だからいらないって言って……」
「ありがとう」
「……人の話聞く気皆無だろ、お前」
何か、目の前の少女が龍音にとても似てるような気がした琉衣夜だった。このままだとアイツと話している時のようにずるずると付き合う羽目になる気がする。
「まあいい、用はそれだけだろ? じゃあな」
何か嫌な予感を感じた琉衣夜は、早々に帰ろうとした。
が、後ろからグイッと学生服を引っ張られた。誰かは聞く必要もない。
「何だよ、まだ何か用か?」
「いや〜、その〜、一つお聞きしたい事があるんだけど……」
「あ? 何だよ、迷子のお知らせですか?」
「……ハイ」
少女はいきなり小さくなった。適当に言っただけなのだが、どうやら図星だったようだ。面倒だが、それくらいなら良いだろう。彼は人を信じないが、鬼ではない。最悪の場合は交番に連れて行ってやればいい。
一つため息をついて、荷物を持ち直す。今日は本当に厄日のようだ。
「んで? どこに行きたいんだよ?」
「連れて行ってくれるの!?」
一気に瞳を輝かせて、ググッと身体を近付かせてくる。それに反比例して自分の中に僅かに存在していたやる気が、一気に失せるのを感じた。
「……ウゼェ。もう帰って良いか?」
「わぁ、思ったよりもコミュニケーション能力は低かった! ってあ、待って! お願い帰らないで!」
ウンザリした顔を隠しもせずに琉衣夜は振り向いて一言。
「帰る」
「だからホントに待ってェエエエエエエエエ!」
夜の街に少女の叫びが響き渡るが、彼はもう振り返らなかった。
◆
両親が逝去し、親戚全員と縁を切った琉衣夜は両親が残してくれた遺産で買ったマンションの一室で一人暮らしをしている。
仕送りがあるわけはないし、バイトもしていないが、遺産はまだ四割近く残っている。それだけあれば高校・大学に行く間は金の心配をする必要はない。
五割近くは他の親戚共にくれてやった。それによって命を狙われる事もなくなったし、親戚の名義で必要な書類は書けるので、特に困る事もない。
琉衣夜本人としては、安い買い物だったと思っている。
学校からの道のり的には大したことのない、しかし精神的にはやたらと疲れた帰り道を思い出しながら、マンションの前でため息をつく。
「やれやれ。長い一日だった……」
「そんなに疲れたの?」
背筋にゾクリと嫌な感触が走った。振り向くと、さっきの少女が立っている。どうやら、というか完璧についてきたらしい。
(俺の周りはストーカーばっかりか……!)
そんな心の叫びは表に出さずに、あくまでも冷静に聞く。
「お礼はさっき聞いたよな。後は何の用だ?」
「道を聞きたいんだけど……」
「交番探せば?」
「交番ってどこ?」
頭を抱えそうになる。話をきちんと聞いてさっさと問題を解決する方が早いようだ。
「……どこに行きたいんだ?」
「あ、ようやっと話を聞いてくれる気に……」
「もう一度しか聞かないぞ。ど・こ・に・行・き・た・い・ん・で・す・か?」
「え、ええっと……青道高校って所に行きたいんだけど……」
なにやら体を震わせながら答える少女だが、琉衣夜はまるで気にしない。少女は白いTシャツにジーパンなんて薄い服装なので少し寒いだけだろう。
それよりも、今気になるワードが一つでてきた。
青道高校。琉衣夜はその高校を名前だけではなく、どこにあるかも知っている。
なぜなら、
「ウチの高校に何の用だ?」
彼が通っている高校だからだ。
青道高校、通称『青高』。いわゆる進学校の一つで、難関国公立大学への進学者を毎年輩出しているので有名な高校である。
「もしかして、高校の人? よかったぁ、駅からずーっと迷いっぱなしで……」
「そこはどうでもいい。何の用でウチの高校に?」
「小学校の時の友達がいるって話を聞いてきたんだけど、今の住所とか連絡先とかがわかんなくて、じゃあ高校に直接行けばわかるかなって……」
なるほど、と相槌を打ちながら考える。まあ、確かに名前と所属している高校がわかるなら、探す事もできるだろう。プライバシーの事が騒がれているこのご時世で教えてくれるかは別問題だが。
「ふ〜ん。まあ、今の時間だったらまだ学校に残っているかもしれないけど……」
今の時刻はまだ午後7時前。
青高は夜でもきちんと申請を出せば教室を自由に使う事ができるし、図書室は九時まで開室している。今はテスト一ヶ月前なので、やる気のあるやつならまだ学校に残っている可能性もある。
ただし、
「昔の友達って事は、どのクラスに所属しているかとかわかってないって事だよな?って事は、今日会うのはちょっと無理かもな」
それは相手によって変わる。そいつが部活に打ち込んでいたらもう帰宅しているだろうし、そもそも帰宅部なら論外だ。いくら何でもこの時間から学校に行って昔の友達に確実に会う、なんて奇跡に近い。
それがわかっていたのか、少女は少し苦い顔になる。
「うん。一応青高の先生にも連絡して、とりあえず話をしようって待ってもらってるんだけど、迷子になってるからその約束もブッちぎっちゃってるんだよね……」
「なら、余計に無理だな」
「う〜ん……」
苦い顔から、悲しげな顔になる。
「携帯でウチの先生に電話したら良いんじゃねぇの」
「携帯持ってないの」
まあこれはしょうがないかもしれない。家によって、教育方針なんて千差万別なわけだし。
「んじゃ、今日はいったん帰るしかないんじゃね?」
「そういうわけにもいかないの……このタイミングを逃したら、今度いつ来れるかもわかんないし……」
聞けば聞くほど、以外に面倒臭い状況だという事が判明していく。
琉衣夜は本当に、どうにかしてでも付き合わないようにしとけばよかった、と後悔したがもう遅い。ここまで話を聞いておいて放っておく、なんて器用なマネができる琉衣夜ではない。
おもむろにポケットから自分の携帯をとりだし、リダイヤルから一つの番号に電話をかける。
「あ、もしもし。すいません、夜分遅くに」
何? と目で聞いてくる少女に、手で少し黙ってろと合図する。電話の向こうの相手に、今の状況を軽く説明して、いくつかのお願いをする。
相手は快く了承してくれた。一度お礼を言ってから通話を切る。
「何? 誰に電話してたの?」
「俺の担任。事情を説明したら話は聞いていたみたいで、明日連れて来てくれ、って言ってた。だから、明日は早くなると思えよ」
そう言って、琉衣夜はマンションのオートロックを外す。それに少女は慌てたように早口で聞いてくる。
「えっ、ええっ!? そ、それってもしかして泊めてくれるって事!?」
「……一日だけな。ウチの担任には頭が上がらないんだよ。嫌ならそこらの公園で寝るか? 俺としてはそれでも良いけど。男の家に泊まるよか、そっちの方が安全かもな?」
「いえいえ!! いやなんてとんでもない! ほ、本当に良いの?」
「……それ以上何か言ったらもう泊めねぇぞ」
言い捨てて琉衣夜は自動ドアをくぐる。閉じるギリギリのところで、少女もついてくる。エレベーターに乗って三階で上り、自分の部屋に入る。
「お、お邪魔しまーす」
少し緊張したような声を出しながら、後ろから少女も入ってくる。
リビングに行ってるように言ってから台所に入り、買ってきた物を片付けて水を飲んでから自分もリビングに行く。部屋の真ん中においてあるガラステーブルで少女は何故か正座で座って待っていた。テーブルを挟んで向かいに座ると彼女は微笑を浮かべて言う。
「まずは自己紹介をしなくちゃね」
「ああ、別に良いけど」
「あなたの名前は?」
「自己紹介の意味知ってて言ってるのか? ってか大体俺の名前知ってどうするんだよ」
「うん? 恩人の名前を知りたいって思うのって普通だと思うんだけど……」
その言葉になるほど、と少し納得する。それに延々ここで立ち止まっていてもしょうがない。琉衣夜は自分の方から名前を言う事にした。
「……ルイヤ。藤崎琉衣夜」
「へえ、珍しい名前。私はルナ。深夏瑠奈。よろしくね、琉衣夜」
「……ああ」
瑠奈は少し楽しそうになる。それから互いの軽い身の上話をしていると、時計が軽快な音を鳴らした。
「もう九時か。お前もう晩飯は食ったの?」
「え? いや、帰りの電車代くらいしか持って無くて」
「ふうん。適当な物で良いなら作るけど?」
「いただきます!」
元気に答えてくる瑠奈に、はいはいと適当な返事をし、台所に移る。食材は五日分くらいは買ってきている。少しくらい食べる人間が増えても、特に問題はない。
キャベツ、人参、豚肉を切り、暖まったフライパンに薄く油を引いて、炒める。大体火が通りだした頃に、塩こしょうその他調味料を投入して味を調える。
すると、匂いにつられたのか瑠奈が横から覗き込んでくる。
「おお、おいしそ〜」
「っつか、邪魔だって。もう少し離れてくれ」
皿に盛り、学校に行く前にセットして炊いておいたご飯を盛って、完成。
お盆に乗せてリビングに運ぶ。瑠奈は嬉しそうに瞳を輝かせながら、琉衣夜にまとわりついてくる。
(……鬱陶しい)
メンドくさげにあしらいながら、テーブルに料理を置いていく。が、箸を一膳しか出していない事に気づく。いつもの癖で自分の分しか出していなかった。
「ああ、くそ。お前この箸使っとけ。先に食べてていいぞ」
自分の箸を瑠奈に渡してから、台所にいって箸をとる。
リビングに戻ると、瑠奈はまだ食べていなかった。料理に手を出した様子もない。だが、瞳を異様なほどに輝かせ、全身を今にも飛び掛からんとウズウズさせている様をみれば、食欲がないわけではないのが一目瞭然だ。
「何やってんの、お前。先に食べていて良いって言ったよな」
「ん、確かに言われたけど……」
瑠奈は嬉しそうに笑う。
「せっかく作ってもらったのに、作ってくれた人を置いて先に食べるのは何だかな〜、って思ったし、一人で食べるより二人で食べる方が絶対においしいし、楽しいから」
テーブルに置いてある料理は、少し時間を置いたからか少し温くなってしまっている。
それでも、彼女は笑っていた。嬉しそうに、本当に楽しそうに。
◆
小さなトラブルが発生していた。
何度か言ったが、親戚全員と縁を切り、友達も作らない琉衣夜は一人暮らしである。それはつまり、誰かが泊まりに来ると一つの問題が起きる事を意味している。
「さてどうしたもんかね……」
布団がない。
彼がいつも使っているベッドはシングルサイズである。もっとも、ダブルサイズだったとしてもさすがに一緒に寝るわけにはいかないだろう。
ちなみに瑠奈は今風呂に入っている。
着替えも持っていないとの事なので、コンビニの場所を書いた地図とお金を持たせて下着だけ買いに行かせ、服は琉衣夜の物を渡した。サイズは合わないだろうが無いよりましだろう。
彼女がコンビニに行ってる間に風呂に入っていた琉衣夜はしばしどうするかを考え、結局押入から今の季節は使わない冬物の薄い掛け布団と枕を取り出して、ソファに放り投げた。
台所で夕食の洗い物を終わらせると、瑠奈はソファに座って髪を拭いていた。
「あ、お風呂使わせてもらいました〜。気持ちよかったよ」
「おう。水は抜いたよな?」
「うん、もちろん」
「ん。寝るんだったらあっちのベッドな。少しグチャグチャだけど、今日一日だけだと思って我慢しろ。さっきも言ったけど、明日授業が始まる前に担任の先生のトコに行くから、朝早いぞ」
「うん、ありがとう。あ、先に言っておくけど寝込みを襲うのはNGだか……」
「寝ろ」
「うわ〜い、安全は保証されたけど何かちょっぴりやりきれないかも……それじゃ、おやすみ〜」
瑠奈は少しフラフラしながら寝室に入った。本当に眠いのだろう。
一息つくと、一気に疲労が襲ってきた。時計はすでに午後十一時を指している。学校の課題、という単語が頭をよぎったが身体は正直だった。ソファに崩れ落ちるように寝転がる。
疲労が酷い。龍音に絡まれた時と似たような感じだが、もっときつい。眠気で侵されていく頭でその理由を考えて、一つの答えを導き出す。
(そういやいつぶりだろうな? ……人とまともに話をしたのは)
◆
人が動く気配で、琉衣夜は目を覚ました。眼を開くと、天井ではなく超ドアップの瑠奈の顔が見える。
瑠奈はこちらの顔を見てニンマリしながら、
「おはよ〜。ムフフフ、人の寝顔って素直な表情になるんだね〜」
「……布団布団」
「あれ、あれあれ? ちょ、待って何で普通に寝ようとしてんのもう七時だよお腹が減ったよ朝だよあさあさあさ〜!!」
「うるっせえ……」
二度寝を完全に妨害され、意識がハッキリしてきた。身体を起こしてググッと伸びをする。ソファで寝る事など滅多にないので身体が強張ってしまっていた。
「おはよ〜ございま〜す。んでね、さっきも言ったけどお腹が減ったからご飯を作ってくれると幸せ指数が百五十くらい上がっちゃうよ」
「お前の幸せ指数とやらの上限はいくつだよ……」
眠い目を擦り、キッチンで顔を洗う。意識がそれで完全に覚醒した。ハンガーに掛けてある制服を取って、パジャマ代わりのTシャツを脱ぐ。すると、こちらを見ていた瑠奈がフニャア!? と奇声を発して、高速で目を逸らした。
「ん? どうした」
「お、お、女の子の前で上半身とはいえ、裸になるのはどうかと思う!?」
「ああ、そういう事か。安心しろ、そういう目でお前を見てねえから」
「それはそれで女の子としては腹立つかも!?」
学生服に着替え、リクエストにお答えして、キッチンで朝食を作り始める。メニューはトーストにコーヒー、目玉焼きと定番である。
作り終えて皿に盛り、リビングのドアを開ける。すると、そこには瑠奈がいた。
何故か、半脱ぎ状態の。
『…………』
沈黙。
状況を理解した瑠奈の顔が一気に赤くなる。琉衣夜は無言で扉を閉めた。
「……着替えてるならそう言え」
「そ、そんなに早くできるなんて思ってなかったんだよぉ……」
琉衣夜は思わず深く息を吐く。この所、彼はため息をつく回数が激増してしまっていた。
◆
「ごちそうさまでした〜」
「ん、お粗末さん」
いろいろと会ったものの、二人とも準備を終えた。
学生鞄を左手に、朝食の皿が載った盆を右手に持ってリビングを出る。皿を水に浸け、玄関に行くとすでに靴を履いた瑠奈が待っていた。
「いこ、琉衣夜。ほら、はやくはやく〜」
「ああ」
鍵を閉め、エレベーターに乗り、自動ドアをくぐって外にでる。見上げれば雲一つ無い蒼空が広がっていた。
吸血鬼でなくとも灰になりそうな日差しの中、二人は通学路を歩いていく。少し時間が早いせいか、青高の生徒は見あたらない。
「ねえ、ふと思ったんだけどさ〜」
交差点での信号待ちの時に、瑠奈は琉衣夜に訪ねる。
「何でそんなに身構えてるの?」
「あ? どういう意味だよ?」
「だからさ、ん〜なんというかな〜。家にいる時よりも外にいる時の方がツンツンしてる気がするんだけど、どうしたの?」
「してるか? 自覚はないけど」
「何て言うんだろ……何かこう、何かに警戒してるような……」
「……あ〜、それか。つか昨日軽く言わなかったけか?」
別に無視しても構わないし、適当にあしらってもかまわないのだが、もう少しで解放されると思えば面倒でも我慢はできる。
途中所々を端折りながら、二年前の事を話す。コイツに話してどうすんだ、と思う一方でやたらと冗舌になる。
「……とまあ、そういう訳だ」
「ふ〜ん……」
話し終えてから小さく、瑠奈に気づかれない程度に小さく舌打ちする。
思った以上に喋りすぎてしまった。これまでどんな人間を前にしても、こんな事はなかったのに。
彼はかなり、とまではいかなくともそれなりに自制が効く人間だと思っている。その気になれば、全ての感情・思考をコントロールすることも出来るし、自分で客観的に観察する事もできる。
だが、今は明らかにそれができていなかった。
彼女と喋った事で何かが変わったのだろうか。
そんな風に考えていると、瑠奈がこちらを見てポツリとつぶやいた。
「ねえ、それってしんどくない?」
琉衣夜は瑠奈を見る。その瞳にあるのは、心配だった。
瑠奈と琉衣夜は昨日会ったばかりの、赤の他人だ。にもかかわらず、その眼は本気だった。本当に彼女は、琉衣夜を気遣っていた。
「はっ、何を言ってんだか。慣れるとこっちの方が楽だぜ? 誰にも面倒事は押し付けられないし、鬱陶しい人付き合いもないんだからさ」
その言葉から、瑠奈が何を受け取ったかはわからない。だが言葉通りの意味を受け取ったのではないだろうか。今のはそういう風に聞こえるように、ある程度声音を調整したものだから。
でも、そこに絶対はなかった。
昨日までなら、こういう風に意識して調整する必要なんてなかったのに。
もしも、何かが変わったというのならば。
一体『何が』原因になって、
全体『何が』変わってしまったのだろう?
「……〜い、聞こえてる? 信号変わったよ〜。どしたの、急に。ボーっとしてると危ないよ?」
「ん? ああ、先生に何て状況を説明しようかなって考えてただけだ」
「……ぅぁ。ど、どうやって言うつもりなの……?」
「大きい迷子を保護しましたってのはどうだ? 笑えるぞ」
「それ、私がムチャクチャ恥ずかしいじゃん!?」
うるせぇ、と呟いて、耳を手で塞ぐ。
コミュニケーションはとれていた。これまで全く取ろうとしていなかったのに、むしろ極力限界まで拒絶しようとしていたのに。
それにも関わらず、何の違和感もなく。
目に見えず、耳にも聞こえない、得体の知れない『何か』は、しかし彼を知らぬ間に少しずつ変えていっているようだ。
◆
「フムフム、事情は理解しましたです」
彼の所属する二年D組の担任、三上奏絵先生は、琉衣夜が一年の頃から担任としてお世話になっており、周囲と全く解け合うつもりがない彼を必死にフォローして普通の高校生活を送れるようにしてくれた、超がつくほどの熱血教師である。
「また琉衣夜君の周りで問題が起きたんですね〜」
「……すいませんね、トラブルメーカーで」
少し間延びした声で困ったように言う奏絵先生に、琉衣夜は本気で申し訳なく思う。
人とまるで交流しようとしない琉衣夜は、入学早々に「孤高を気取る生意気野郎」というレッテルを貼られ、同学年だけはなく上級生、果ては他校生とも度々殴り合い等の問題を起こしまくっていた。
その全てにおいて琉衣夜に非がなかった事、学年でブッちぎりにトップの成績を取っている事、そして奏絵先生の必死の弁護によって、今彼はここにいる事ができている。
出来るならば、これ以上の迷惑はなるべくならばかけたくないが、こういう状況で他に相談できるような大人がいないのも事実だった。
「まあ、でも今回の事はいつもの事に比べたら、全然大したことはないです。それに迷子になっていた瑠奈ちゃんを見つけてくれたのはありがたかったです」
言いながら奏絵先生は一枚の紙を取り出した。
「瑠奈ちゃんが来る事は学校にも連絡が入っていたのです。でも昨日、約束の時間になっても来ないもんだし、連絡も取れないからどうしたものかな〜、と悩んでいる特に琉衣夜君から電話があったので、先生も安心しました。琉衣夜君、ありがとうです」
ぺこりと頭を下げる奏絵先生に、いやいやと手を振る琉衣夜。
とりあえずこれで自分の役は終わっただろう。
「それじゃあ、これで一件落着って事で。俺は教室に戻りますね」
「あ、ちょっと待って下さいなのです〜」
「へ? まだ何かあるんですか」
振り返ると、奏絵先生は少し困った顔をしている。
「さっきの話を聞く限り、瑠奈ちゃんはそのお友達を捜しにここに来てるんですよね?」
「はい」
「でも、名前以外にはわからないんですよね? 先生的にはしてあげたいのですが、機密事項なので校外の人に簡単に他の生徒の情報を教えるわけにはいかないのですよ〜。そうなると瑠奈ちゃんは物理的な方法で探すしかない訳です」
「……何かすごい嫌な予感がしてきたのですが、その先をお願いします」
「じゃあ、続けますよ? 琉衣夜ちゃんも知っての通りこの学校には一学年約五百人います。いくら何でも、物理的には一日で探し切れませんよね?」
「それもわかります。ですが、それと俺と何の関係が?」
何だろう、ものすごい嫌な予感しかしない。全身がこれ以上は絶対に聞いてはいけないと拒否信号を発している。
「要するに、ですね琉衣夜君。その間瑠奈ちゃんを泊めてあげてくれませんか?」
「絶対にお断りします」
即答だった。本人がここにいるとか関係なかった。もう清々しいほどに即答だった。何でよ! という表情で、瑠奈がこちらを見ていたが、それは見事に華麗にスルーした。
「大体、青高には寮があるでしょう。そっちに一時的に入れてもらうとか出来ないんですか?」
全寮制ではないものの、青高には寮も存在する。設備もきちんと整っているし、申請をすればそれほど時間もかからずに入る事が出来るはずなのだが……
「申請はしているんですけど、今女子寮全体を耐震工事中との事で、部屋の準備が出来ない状態なのですよ〜」
「だとしても、何で俺なんですか。それにそいつの方が嫌がるんじゃないですか?」
「どうですか、瑠奈ちゃん」
奏絵先生は隣の瑠奈を見て、聞く。
瑠奈は少し考えるような素振りを見せるが、すぐに答える。
「私は全然構わないです。というか、むしろお願いしたいです」
「ほら、琉衣夜君。これでみんな納得じゃないですか」
「いや俺は一瞬たりとも納得してないですけどねっ! っていうか深夏は女ですし、俺は男ですよ? いわゆるお年頃の男女を一つ屋根の下に住まわせるって、教師としてどうなんですか」
その言葉に、朝の裸を見た、見られた騒動を思い出したのか、瑠奈が少し顔を赤らめる。しかし、その言葉に奏絵先生の表情がニコニコと輝き始める。
「大丈夫ですよ〜。だって、」
琉衣夜の瞳を真っ直ぐに見つめる。見つめられている彼のみならず、その隣に立っている瑠奈までもが、彼女に後光が差しているような錯覚を感じた。
「琉衣夜君はとってもいい子ですから!」
一点の疑いもなく言い切った。
「琉衣夜君は何があっても相手に怪我を負わせないようにしたり、他の人が嫌がるような事は出来るだけ避ける子です。事実、あれだけの騒動を起こしているのに、大ケガに発展した生徒は一人もいませんでした。そんな琉衣夜君が、瑠奈ちゃんを傷付ける事はおろか、同意無しに手を出すなんて事はないと先生は思います!」
いや、同意があったらいいのかよ! と思わず叫びそうになったが、先生の勢いに飲まれて何も言う事が出来ない。
ビッカア! と輝きを放つような笑顔を浮かべて、奏絵先生はさらに続ける。
「そんな良い子の琉衣夜君と瑠奈ちゃんが一緒に住んでいても問題ないと先生は思います。何も心配はいらないのです! 」
他ならない自分の事を言われているのに、反論をしたり、口を挟む事も出来なかった。勢いに飲まれ、そのまま頷いてしまう。
それに、瑠奈の顔が明るくなる。しまったと思ったが、もう遅かった。
「それでは琉衣夜君、お願いなのです〜」
ニコニコと微笑む奏絵先生に押し切られる形で、琉衣夜は教師の公認付きで、瑠奈を泊める事になってしまったのであった。
◆
「ねえねえ、琉衣夜」
「……何だよ?」
「ん〜ん、何でもない」
「何回も言ってるけどな、だったら呼ぶなっつーの」
瑠奈と半同棲状態になってから、一週間が過ぎた。
彼女は特別編入生扱いで二年D組、つまり琉衣夜のクラスに入る事になった。席は当然の如く彼の隣になり、さらにあまりにもベッタリとしていた事からクラスの女子に「どういう関係なの!?」と訪ねられた時に、瑠奈が無邪気にも「泊めてもらってるんだよ〜」と言ってしまったため、クラス中から「死ねこの最低クズ野郎」という視線を向けられる羽目になった。
それだけなら良い(いや決して良くはないが)が、実際に龍音を筆頭とする一部の猛者達に襲撃、ないしは尋問され、最初の二日間は地獄の一言だった。
三日目に琉衣夜から事情の説明と、仲介の依頼を受けた奏絵先生が、ホームルームできちんと説明をしてくれたので、その手の視線や襲撃はなくなった。
が、今度は女子達があんな根暗(勿論琉衣夜の事である)の傍にいてはいけない、と瑠奈を説得し始めた。話していた内容を聞く限りではかなり酷い言われようだったが、瑠奈が考えを変えてその女子の家に移ったらラッキーくらいに考えて、琉衣夜は何も言わなかった。
しかし、瑠奈はその全てを聞いてもなお、琉衣夜と住んでいた。女子達が彼の事をどんなに酷く言っても、ニコニコと微笑んだまま「大丈夫、琉衣夜は本当にいい人だから」と言って、逆に擁護する発言をしていた。
その根拠がどこにあるのかを聞いてみたが、顔を真っ赤にして「そんなの言わないよ!」なんて言われたので、その後は聞いていない。
というか、一度無理にでも聞こうとしたら、その日一日まともに話が出来なくなったのでそのあと面倒になって踏み込んでいないだけなのだが。
人を信じる事が出来ない琉衣夜と、どこまでも人を信じようとする瑠奈。
どこからどう見ても、明らかに異常な組み合わせだ。
琉衣夜としてもこの状況を早く終わらせたいのだが……
「ル〜イ〜ヤ〜」
「だから何だよ?」
「……フフッ」
「訳わかんねえ……」
いい加減にいちいち受け答えをするのが面倒臭くなってきた。この一週間、ずっとこの調子で十数万回くらい呼ばれ続けている。
何か用事があるのかと思えばそういう訳でもない。かといって無視したり、適当にあしらっていると拗ねたような、傷付いたような表情をして、その後がさらに鬱陶しくなる。まるで子供だった。
二人は今リビングにいる。
テーブルで課題をしている琉衣夜の後ろで、瑠奈はソファに寝転がってそれを見ている。一応、瑠奈にも課題は出されているものの、提出の義務はないため、本人は殆ど気にしていない。時折あくびをしながら、眠そうに目を擦っている瑠奈にあきれたように言う。
「いつも言ってるけどよ、俺に付き合って遅くまで起きていなくて良いぞ。お前は別に課題やらなくて良いんだし」
「ん〜……いいの。私が起きていたいの」
瑠奈は何故か同じ部屋、同じ時間に寝る事を琉衣夜にお願いしてきていた。それに関しても、二時間近く議論したのだが結局彼が折れる形で終結していた。
「襲われても知らねえぞ」とまで言ったが、瑠奈の心はまるで変わらなかった。
まるでコミュニケーションに飢えている子供のような言動と行動だった。コイツも昔何かあったのだろうか。
そう考えたところでふと違和感を覚える。
自分は少なくとも二年前から人の事を心配する、なんて人格は持ち合わせていないはずだった。人がどんなに不可思議で不自然な行動や言動をしていても、自分に関係ない限り無視していたし、誰かが関係してこようとしても、物理的にも精神的にも拒絶してきた。
普通の人間関係ならそこでオシマイだ。
当たり前だろう。人に向けた好意を、ソイツは悪意と拒絶でしか返してこないのだから。どんな人間でもそんな奴にもう一度好意を向けよう、なんて思わない。キャッチボールと同じだ。
それを利用して、琉衣夜は一人になったのだから。
だが、瑠奈の場合は違う。
関わり方からして、いつもとは違う。今回は、関係しなければ仕方ない状態だから手を出したら、強引に住む話になった。
おまけに瑠奈はどんなに悪意ある行動をしても、どんなに拒んで遠ざけようとしても、彼女は微笑みながらその全てを受け入れて、無防備で近付いてくる。
これまで出会ったどの人間とも違う、関係の仕方も、とってくる態度もまるで異なった少女。
(ああくそ、こんな事考えるタイプじゃあねえのにな……)
あてられたかな、とそれまでの思考を無理矢理断ち切る。
「……よし」
テーブルの上の課題を適当にまとめて片付ける。振り向くと、瑠奈の目はすでに閉じていた。コックリと舟を漕いでいる瑠奈の頭をペシリとはたくと、いかにも眠そうな声で聞いてくる。
「ん、にゃあ。どしたの……?」
「寝るぞ。ほらとっとと立て」
「あ、ま、待って。今行くから」
毛布を寝室の床に敷き、掛け布団を被って寝転がる。瑠奈もモゾモゾとベッドに潜り込んでいる。
目を閉じて五分ほど経っただろうか。静かになったので、もうすでに寝たと思っていたが、瑠奈が話しかけてきた。
「……ねえ琉衣夜。まだ起きてる?」
「どうした」
「私の事はまだ信じられない?」
「……ハッ。何だそりゃ、寝る前の話題にはもってこいだなぁ」
皮肉を込めて言い、顔だけベッドに向けると瑠奈もこっちを見ていた。いつも通り、いやさらに柔らかい光を宿した瞳で、真っ直ぐにこちらに視線を向けている。
「ね、どうなの?」
「あのな、これは前にも言ったと思うぜ。人間なんてどいつも似たようなもんだ。人当たりの良い笑顔で近付いて、むしり取れるだけむしり取って、持ち上げるだけ持ち上げて、何の価値もなくなったらソイツを嘲笑う、飽きたら捨てて新しいものを探す、そんな奴ばっかりだ」
「でも、それは今まで見てきた人の話でしょ? もしかしたら……」
「ああ、そうかもしれないな。でもな、そんな人間を見つけるまでに、あと何回同じ事を繰り返せばいい? もしかしたら、と期待を込めて近付いたら裏切られて、お互いに傷付け合って呪い合う。そんな事を何回繰り返せばいい?」
「それは……」
「俺は無理だ。もう一回アレと同じ痛みを受けるくらいなら、ずっと一人でいる方がいい。……それなら、少なくともマイナスにはならないんだから」
瑠奈はシュンとした表情になる。その顔を見ても、今はもう何も感じない。少し胸の辺りがチクリとするくらいで、そのくらいなら無視できる。目を細めて、小さく息を吐いて、心にブレーキをかける。
それでも、瑠奈はやめずに、言葉をかけてくる。
「今私と琉衣夜は一緒に住んでるよね? つまりお互いをきちんと見れる状態って事だよね。それでも、何とも思わないの?」
「ああ。そんな事にはもう興味がない」
その言葉にはさっきよりも力がこもっていた。それは瑠奈に暗に、これ以上俺に関わっていても何も良い事はないぞと伝えていた。
その意味がきちんと伝わったのか、瑠奈の顔がさらに悲しげに歪む。それを見て、胸の辺りがさっきよりも強く、ズキリと痛む。
だが、琉衣夜はそれを無視する。見れば、関わらなければならないから。その痛みがどういうものなのか、それすら無視して放っておく。そうすれば、いつしかそんな事で痛みを感じる事はなくなるから。
じゃあと瑠奈が言葉をさらに紡ぐ。
「私と一緒にいて、琉衣夜は全然楽しくないの?」
「ンなモン……」
決まってんだろと言おうとして、本当にそうか? と心が呻く。
瑠奈は俺に何か害を与えた訳じゃない。
もしかしたら、と心が必死に押し止めようとする理性に謳う。
もしかしたら、瑠奈は俺を傷付ける事はないかもしれない。もしかしたら、俺はもう一度人とつながれるのかもしれない。
そして。
もしかしたら、俺は心を閉じなくても良いのかもしれない。
それはとても心躍る言葉だった。瑠奈や、他の友達と笑って楽しく毎日を生きていく。
とても良い夢だ、本当にそう思う。
だが、理性は語る。
傷付く事を恐れる弱い人格は、そんな甘い想像を幻想だと切り捨てる。現実を見ろ、と。そう思っていて、お前には何が起きた。
アイツらはお前に何をしてくれた?
記憶が溢れる。一瞬だけ、そのときの事を思い出す。それだけなのに、思考がグチャグチャになり呼吸が荒くなる。
それを見た、もう一人の弱い自分は嗤いながら、憐れむような目で見ながら言ってくる。
ほら、そんなに嫌な事があったのに、お前は何を甘い夢に浸ろうとしてるんだ?
(わかってるよ……)
そう、わかっている。二年前の事を思い出せば、それがどんなに夢物語かがよくわかる。そんなに簡単に解決するなら、彼は全てを捨てて一人にならなくても済んだ。
どうにもならなかったから、彼はこの方法を選んだ。
そのはずなのに。
決意は、目の前の甘い言葉に揺らいでしまっている。
(ナニ考えてるんだ、俺は。そんな事出来る訳がねえだろうが)
「決まりきった事聞くんじゃねえよ」
顔を天井に向け、頭の下で腕を組む。瑠奈の表情はこれで見えない。
「っつかよ、思ったんだけどさ」
琉衣夜の言葉はそこで止まる。何故か? 理由は単純。
(ンの野郎……聞くだけ聞いて寝落ちしやがった……ッ!)
ベッドからは規則正しい寝息が聞こえてくる。彼の返事もおそらく聞いていなかったのではないだろうか。
舌打ちをして、彼も目を閉じる。
この一週間で、瑠奈は十クラス中四クラスを既に見終わっていた。全てのクラスを見終わるまで、あと二週間はかかるだろう。
それまで、おそらくコイツと二人で暮らす事になる。
それは。
(まあ多少は楽しいのかもしれないけどさ……)
そんな考えがでてきた事に自分が嫌になる。
なんだかんだ言いながらも、心のどこかでは楽しんでいる自分がいる。いつかは終わるこの生活に未練を抱いている自分がいる。
自分の中に抱いていた一つの『芯』のようなものがこれほどまでに脆い事を、琉衣夜は深く噛み締めていた。




