迫る変異
「琉衣夜君、最近顔色が悪いですよ〜。大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
昼休みの職員室。
琉衣夜は担任の奏絵先生から呼び出しを受けていた。内容としては単純、最近ろくに睡眠を取れていない琉衣夜がつい授業中に居眠りをかましてしまい、それを奏絵先生に見咎められたという訳である。
もともと琉衣夜がトラブルメーカーであることも、即呼び出しの起因となっている。
……まあ、奏絵先生の表情を見ていると、単純に心配になったのも理由の一つだろうが。
「目の下にクマできかけてますよ〜。ちゃんと寝れていますか?」
「最近夢見が悪くて。睡眠が浅いのかもしれないですね」
しれっと嘘をつく琉衣夜。
睡眠が浅いのは事実だが、クマができかけている理由は単純な睡眠不足だ。方々(ほうぼう)に呼び出しを食らっていることもあり、肉体的な疲労も積み重なってきている。
だが、奏絵先生にそれを言ってしまうと、余計に心配されかねない。
過去に他の生徒と殴り合いの喧嘩を起こした際に泣きながらお見舞いに来られた時は、こちらは何も悪いことをしていないのに盛大な罪悪感に見舞われたことがある。
同じことの繰り返しは、ごめんだった。
そんな教え子の本心を知ってかしらずか、奏絵先生は「本当ですか〜?」と唇を尖らせながらこちらをじっと見つめる。
「何か心配事があるなら、いつでも相談に乗りますよ? 見た目は小さいですが、これでも先生です。どーんと頼ってくださいね?」
「いつも頼っていますし、お世話になりすぎている気がしますけどね」
「それで良いのです。琉衣夜君は、まだ高校生です。頼れる内は大いに頼る、子供の特権ですよ?」
ふふん、と小さい胸を張りながら力説する奏絵先生。
他の先生に言われたら嫌味っぽく聞こえるのに、この先生に言われると「そうなのかな」なんて思ってしまうのはなぜだろう。
なんだかんだ、彼女が百パーセント善意で言っていることを理解しているからだろうか。
「もう一度聞きますけど、本当に大丈夫なのですか?」
「大丈夫です。すみません、心配させて」
「もう、琉衣夜君。前にも言いましたけど、こういう時は違いますよ?」
「……ありがとうございます。心配してくれて」
「はいです。なにかあったら、いつでも相談してくださいね?」
ニッコリ微笑んでそう言ってくる担任に、この人だけには絶対に勝てないなと再認識する琉衣夜。
瑠奈を除けば、奏絵先生は唯一人間嫌いだった琉衣夜に寄り添って支えてくれた存在だ。教師と生徒という関係こそ超えていないものの、それでもこの人にどれほど救われてきただろうか。
そんな大恩ある人に、これ以上心配はさせたくない。
精一杯の笑顔を生み出して、一礼をする。
「もう行っても良いですよ〜」という柔らかい声にもう一度軽く礼をしてから、琉衣夜は職員室を出た。
(……敵わないな)
ぐぐっと伸びをしながら、そんなことを思う。
あのニコニコ笑顔で迫られると、どうにも琉衣夜は弱くなる。ノーガードの笑顔は、ある意味琉衣夜の弱点だった。
(奏絵先生には、心配かけないようにしないとな。とはいえ、恐ろしい量の仕事なんだよなぁ……)
最近は毎日依頼が舞い込んでくるようになっている。
依頼一つごとにそれなりの報酬は支払われているものの、大学卒業まではバイトしなくても生計を立てていける程度の貯金を持っている琉衣夜からすれば、お金よりも睡眠の方が重要だった。
このまま睡眠不足の状態が続くと、奏絵先生にも瑠奈にも多大な心配をかけることになってしまう。それだけは御免被りたい。
日々の深夜労働に悲鳴を上げる体をどうにかなだめながら、教室までの道を歩いていく。
教室の扉を開けると、瑠奈と龍音が待ってくれていた。
「悪いな、待たせて。食べてて良いって言ったろ?」
「私はそのつもりだったけどね。瑠奈があんたが帰ってきてからじゃないと食べないって聞かなかったのよ」
「一緒に食べた方がおいしいもの」
そうニッコリと微笑まれてしまうと、何も言い返せなくなってしまう。
ありがとうな、ともう一度礼を言って、自分の弁当を取り出した。
「……今日も同じ弁当なのね」
「そりゃ、同じ屋根の下で暮らしている訳だし」
「最近は琉衣夜が忙しいことが多いから、私が作ってるしね」
案の定同じ料理が詰め込まれた琉衣夜と瑠奈の弁当箱に、龍音が若干げんなりした顔をする。
それに対して琉衣夜は今更何をと言った調子で、瑠奈はいつも通りの笑顔で答える。
高校生同士で同棲をしていること自体がどうかと思うのだが、という常識的なツッコミは、この場では知ったことかとスルーされるので、もはや言われなくなってしまった。
まあ、その会話を聞いた周りから
「おい、琉衣夜のやつ今日も愛妻弁当だってよ……」
「いいよな、モテるやつは……今日も両手に花だしよ」
「瑠奈ちゃん大丈夫かしら……あいつに騙されてるんじゃない?」
「というか、最近龍音もあいつのそばにいること多いわよね……」
というひそひそ声があちらこちらから上がるのだが、いつものことなので琉衣夜も瑠奈ももはや気にしていない。
琉衣夜は瑠奈以外の人間のことを気にしていないし、瑠奈は瑠奈で琉衣夜第一主義なので、その辺りは訂正をする気もないのだ。もちろん、面と向かって悪口を言われたら全力で否定する気ではいるが。
それに、大方の噂と予想に反して琉衣夜と瑠奈の関係はかなりプラトニックなものだ。契約の時にキスこそ交わしたものの、それ以降は手をつなぐことすらほとんどしていない。
基本的に二人一組で行動していることが多いだけで、いちゃついているということも少ない。それがまた熟年夫婦のような雰囲気を醸し出しているのも、噂になる原因の一つではあるのだが……。
「そういえば、あんたどうして呼び出されたの?」
一通り自分の弁当を食べ終わった龍音が、カバンからお菓子を取り出しながら琉衣夜に尋ねる。
甘いものは別腹、という言葉の通り、龍音と瑠奈はいつも弁当の後に一緒にお菓子を広げている。それなら弁当をもっと食べれば良いのでは、と尋ねたことがあるが、それでは何かが違うのだという反論を受けてからは何も言わないことにしていた。
単純に量が多いためにまだ箸を置いていない琉衣夜は、口の中の物を一度お茶で流し込んでから口を開いた。
「奏絵先生の心配性だよ。寝不足に見えるけど、大丈夫かってさ」
「ああ、奏絵ちゃんだもんね。ていうか、あんた目のクマやばいわよ。大丈夫なの?」
「……結構わかりやすいか?」
「わかるわかる。顔一回見ただけで寝不足だってわかるもの」
「そうか……」
これは結構深刻かもしれないと、眠気でぼんやりする頭で考える。
さっさとどうにかしないと、奏絵先生から再度呼び出しをくらいかねない。司か美咲にでも、相談して依頼の頻度を下げてもらわないとまずそうだ。……あの常識を知っているとは思えない魔導師たちが、こちらの状況を考慮してくれるかどうかはかなり怪しいが。
「まあ、ちょっと最近夢見が悪くてな。あんまり眠れてない」
「あら、図太いあんたが珍しい。何か悩み事でもあるの?」
「お前、俺のことをなんだと思ってんの?」
「クソ生意気な図太いやつ」
「……てんめぇ」
相変わらず遠慮もクソもないやつだ。
眠気でイライラしがちなことも相まって、琉衣夜の顔がそこらのヤンキーもかくやというレベルで歪む。それを見て、龍音の顔も同じように凶悪な面構えに変貌した。はっきり言って、高校生の女子がして良い顔じゃない。
その間で、今尚二人のこのテンションについていけない瑠奈が困ったように首を傾げている。
なんだかんだこの二人はこんな雰囲気になっても、後で何でもなかったかのように元の距離感に戻るのだが、エスカレートすると互いに手足が出るようになってしまう。
その度に教室の机や椅子がいくつか倒れることになるため、瑠奈としては若干頭が痛い。
「……二人とも、そこまでにしないとおやつ食べる時間なくなるよ?」
ジト目でそう介入する。
エスカレートする前なら、瑠奈が間に入るだけで収まることが多い。お互いの収まりが悪くなる前に止めてあげないと、本当に持ってきたお菓子を食べる時間がなくなるだろう。
特に、琉衣夜はもともと睡眠時間が足りてないとイライラしやすいたちだ。少しでも寝させてあげないと、体がきついままだろう。
そんな瑠奈の意図が伝わったのだろうか。琉衣夜が一つ息を吐いて、空っぽの弁当箱を片付け始める。
「気にすんな。お前にゃ、関係ないことだよ」
「はいはい。瑠奈、また何かこいつがやらかしそうになってたら、いつでも連絡してよ?」
「うん、そうするね」
龍音の言葉に、瑠奈は苦笑しながら答える。
自分で気づいているのだろうか? 他の人に対しては完全無視を決め込む琉衣夜が唯一まともに相手をするのは、龍音だけだということに。
龍音本人も琉衣夜を心配しているのだから、それを素直に伝えればまだ琉衣夜からの心象も変わるだろうに。
互いに素直になりきれない二人に挟まれて苦笑いをしながら、瑠奈はようやく手に入れた日常を謳歌するのだった。
◆
「……今日はお前かよ」
「悪いね。僕も君と一緒なんて、ごめんこうむりたいところだよ」
その日の夜。
司と琉衣夜は、会うなり毒を吐きあっていた。
昼過ぎに届いた依頼のメールに書かれた時間に、指定通りの場所へ到着したら司とばったり出会ったのだ。相性の悪い二人がこんな形で出会うことになったら、そりゃあこうもなるだろう。
「んで? お前がいるなら、俺が来る必要なかったんじゃないのか」
「そのセリフは僕が言いたいね……。君一人に最近負荷がかかりすぎているから、僕にお鉢が回ってきたらしい」
「……なおさら、俺いらなかったんじゃねえのか」
「知るか。依頼を回して来るやつに文句を言ってくれ」
ぶちぶちと文句を言い合いながら、捕獲対象が潜んでいるらしいアパートが見える位置に移動する。
「はぁ……今回のやつ、捕獲対象だよな?」
「そうだね。生死問わずとはなっているけど、なるべく捕獲が望ましいかな」
「……“黒”、使って良いか?」
「構わないよ。まだ僕の魔導は使ってないからね」
司は懐からタバコとライターを取り出しながら、そう答える。
仕事を始めた直後からこの調子なのを見ると、本当にやる気がないらしい。自分も似たようなものだから、琉衣夜からは何も言わないが。
「んじゃ、やるか……」
自分へと合図するように、一言つぶやいた。
途端、琉衣夜の周囲から黒い筋が何本も何本も彼の足元へと集まっていく。それはまるで、彼を地面へと引きずりこまんとする亡者の群れのようにも見えた。
それを一望し、琉衣夜は一つ皮肉げな笑みを浮かべる。
「その程度で俺を食いつぶそうなんて、出来る訳が無いだろ?」
口々に恨みや憎しみ、妬みといった生前の悪感情を垂れ流しながら彼の体を奪おうとする不埒者達にそう告げると共に、それらの悪霊を力でもって統制し、自らの力へと変換する。
「俺の体はくれてやれないが、獲物はくれてやる。……行け」
集めた力を五つの塊に分散、形を与えてアパートへと放つ。
解き放たれた力はそれぞれ三つが大型犬の姿を、二つが鴉の姿を模した物へと変貌し、琉衣夜の命令通り獲物の居場所を探るべく駆け抜けていく。
「あとは相手が尻尾を出すまで待っていれば良い。待機戦はお前の得意な分野だろ、安斎?」
「了解した。しかし、何度見ても便利な力だね」
「これでもこっちは相応のリスクを取ってるんだ。この程度は働いてくれないと、割りに合わない」
魔導師としては未熟な琉衣夜が連日こうして戦い続けていられるのは、“黒”が応用力の高い形質であると同時に、アンチ魔導師として強力な能力であることが大きい。
何せ魔力と名のつくモノは触れた端から端から食いつぶしていく、琉衣夜でも完全に制御しきれない代物だ。
体の中に残していれば琉衣夜の魔力や生命力を食い荒らし、外に出せば周囲の魔力を無差別に食い散らかす。
今琉衣夜がこんな力を操れるのは、彼自身が食い潰されないように一度力の元となる負の感情を自らの精神力で屈服させているからにすぎない。もしも彼の心が折れれば、今放っている黒獣達は即座に翻意し琉衣夜を喰らいに来るだろう。
それだけのリスクを取って、彼は“黒”を使役しているのだ。
この程度の利便性は持っていてくれないと、使うに使えぬ無駄な異能と化してしまう。
「……あそこか」
普通の場所に比べて、魔力の流れが若干おかしい位置を発見する。
魔導師は普通の人間に比べて魔力量が多い為、世界に与える影響も当然大きくなる。変化そのものは微弱なものだが、貪欲な獣達はそれすら見逃さない。
漆黒の獣はアパートの三階まで一気に駆け上り、おかしな点を察知できる部屋へと走っていく。また翼持つ影は一つの窓をめがけて一直線に飛んでいっていた。
「安斎、おびき出すぞ。準備はいいか?」
「出来るなら、一分ほどほしいかな」
「あいつらが食い殺さなけりゃ、な」
言葉と同時、琉衣夜は顔のあたりまで手を上げる。
その合図と同時、鳥の姿をもった二体は窓際に、犬の形を取った三体は部屋の扉のすぐそばに陣取った。
「……やれ」
呟くと同時、手を振り下ろす。
瞬間、鳥の内一体が同時に窓に体当たりしてガラスをぶち破り、後に待っていた二羽目が中へと侵入した。
同じタイミングで、獣達も扉を破り開けて中へと駆け込んだ。
それを感知して、琉衣夜はニヤリと笑う。獣達の動きと周囲の情報は、彼の脳内へと直接送られてくる。部屋の中の状況はすでに把握が完了していた。
部屋の中にいるのは一人だけだ。体格から考えておそらく男性だろう。
感じられる魔力の量から考えて、おそらく彼が目標の敵だ。あいつを殺害、もしくは捕縛することで今夜の任務は完了する。
さっさと食い殺すのも一手だが、それをすると“黒”を通じて失われていく生命力の感覚が琉衣夜の頭の中に直接何の制限もなく入り込んで来ることになる。
端的に言うと、死ぬ直前の人間の思考が全て自分の頭の中に無理やり叩き込まれるのと一緒だ。
それをやると、本気で一週間は眠れなくなる自信がある。それだけは、やりたくない。
相手の魔導師は眠っているところだったらしい。突然窓とドアを破って襲いかかってきた侵入者に狼狽しきっていた。
何か魔導を使おうとしているらしいが、“黒”によって生み出された獣達がそれを許さない。空を舞う黒鳥が魔導式をついばんで狂わせ、その隙に駆け寄った獣達が足元へと食らいつく。
それだけの応酬でも、相手の魔力は確実にむしりとられていく。
“黒”が奪った魔力は琉衣夜に還元することもできるが、今は必要ない。“黒”から魔力を組み上げると、それはそれで精神にダメージを受けることになる。
まだまだ琉衣夜自身の魔力に余裕がある現状、必要のない供給は受けない方が彼にとって楽なのだ。
それよりも、その魔力を使ってさらに獣達の力を強化する方が、現状においてはよっぽど使える。
半端な魔力をかじったせいで余計に腹をすかせた獣達が、我先に魔導師へと襲いかかる。
魔導師は今その場で“黒”を撃退することはできないと判断したらしい。齧り付かれてろくに動かない足を必死に動かしながら、窓へと向かう。
追撃させるが、足を止めさせることは間に合わない。魔導師が窓枠へと辿り着いてしまう。何らかの対策があったのか、魔導師は辿り着いたと同時に窓の外へと身を投げ出した。
「出てきたぞ。あとはよろしく」
「やれやれ……やるか」
司は口元に半分ほど吸い終わったタバコをくわえ、腕を前に出す。
その手に瞬時に現れるのは、かつて琉衣夜を貫こうとした霊弓だ。一つ大きく息を吸い込みながら弦を引きしぼり、目標を定める。
「フッ!」
裂帛の気合いと共に、不可視の矢が空を割いて放たれた。
魔力で生み出された矢玉は彼の想像と寸分違わぬ弾道を通り、落ちていく魔導師の腹を貫いた。
「オガァッ!?」
痛みに呻く声がかすかに耳へ届いた。
その一瞬後に、地面に叩きつけられたらしいグシャリという音が響く。
「落ちたな」
「だね。さっきの獣は使えるのかい?」
「鳥は使える。獣は間に合わないな」
「魔力を阻害する呪いを打ち込んであるから、数分は魔導を使えない。“黒”で捕縛することはできるかい?」
「下手すれば死ぬけど?」
「じゃあやめておいた方が良さそうだね」
やれやれと呟きながら、司が左手に持つ弓の形を変える。弓の代わりにその手に生み出されたのは魔力の縄だった。
強度はそこそこだが、見ただけで捕縛している相手の魔力を散らす呪いがかかっていることがわかる。相手が戦闘を魔導に依存しているタイプの敵ならば、これで捕縛した時点で勝負が決まるレベルの代物だ。
黒鳥を援護に回そうかと考えていたが、あんな物を持っているならいらないだろう。下手に“黒”を使うと、司の魔導を阻害しかねない。
展開していた全ての“黒”を、奪った魔力と一緒に星へと返す。集めた量に対して奪った魔力の量が少ないため、“黒”の反発が来ないかが心配だったが、特に何もなく終わり、安堵の息を吐いた。
(これでもかなり少なめにした方だが……それでも多少残るか。普通の魔導師相手なら、もっと少なくしても良さそうだ)
体に残しておくと、魔力を食い荒らすわ夢見を悪くするわと、百害あって一利もない状態になってしまう。
多少手土産に魔力をくれてやると案外遺恨なく引っ込んでくれるため、最近は魔導師から奪ったものでまかなうようになっていた。
目をやれば、既に司が魔道の縄で敵を縛り終えている。それを見て、琉衣夜は一息ついた。
「これで今日の仕事は終わりか?」
「ああ、そうだね。仕事の報酬はまた担当のやつをつついて支払わせておくよ。他に何か言いたいことは?」
「休みをよこせと伝えてくれ」
「了解。伝わるといいね」
投げやりな返事を返してくる司に背を向けて、家の方向へと歩き出す。
とはいえ、この時間だと既に終電の時間を過ぎてしまっている。そこらへんを走っているタクシーを適当に捕まえて帰るしかないだろう。幸い、金に関してはアホみたいに降って湧いてくる依頼のおかげで当分困らない。
あくびを一つしながら、大道路への道を歩いていく。
しかし、彼の足はそこで止まることになった。
「藤崎、少し待て」
「……?」
彼を呼び止めたのは、緊迫した司の声。
振り向けば、彼の顔が青く染まっていた。
「どうしたよ」
「……瑠奈が、さらわれたらしい」
「……は?」
その瞬間、完全に琉衣夜の思考が止まった。
◆
「まさか、ここまで簡単に天使を捕まられるなんて思わなかったなぁ。ね、エメト」
そう、グラベル・ラビは自らの半身に語りかける。
もともとこの街に来たのは儀式場に使うのにふさわしい地脈があったからだ。それさえ使うことができれば、自分の目的は達成できる。
だが、あれほど無防備に放置されている“大天使”を無視することはできなかった。どの道、天使の入れ物が住んでいる街で騒ぎを起こせば、入れ物が所属している組織につっかかられることになる。
それならば、“大天使”も利用して儀式をさっさと完遂させる方がよほど良い。
どの道、彼女のやり方が世界に認められることはないのだ。どうせ世界中から敵視されているのだから、今更敵対する組織が一つや二つ増えたところで何の問題もない。
「儀式をできるようになるまで、あと一日と少しくらい……。ここのタワーに人がたくさんいなかったら、間に合わなかったかもしれないね」
今グラベルが行なっているのは、このタワーそのものを儀式場へと変換する作業だ。“大天使”なんて思わぬ収穫があったから、術式の書き換えに少し手間取っているものの、予定より人員が多く確保できたために今の所予定からはそこまで外れていない。
既にタワーのあちらこちらには、床から壁から天井から魔導式がびっしりと描き込まれている。
地脈から組み上げられた魔力により次から次へと魔導が増幅され、さらに魔導式が描きこまれる、という一つのループが完成していた。
これが一通り完成すれば、彼女は人の身でありながら“大天使”以上の力を行使できるようになるはずだ。
そうなれば、誰もグラベルの邪魔をすることはできない。
彼女の幸福を、誰も拒むことはない。
「……待っててね、エメト。もう少ししたら、二人で幸せになれるから」
どくんどくんと脈打ちながらさらに強大な力を生み出していくタワーを見て恍惚としながら、グラベルは一人誰もいない中空を見上げ呟く。
その傍らで、彼女の魔力を一身に受けて育ってきた魔力結晶がキラリと輝く。
彼女の目的は、その一言に尽きる。
グラベルの愛する人を奪った世界を浄化し、エメトと二人だけの世界を築く。今の彼女の頭の中には、それ以外の何も思いつかない。
それだけを思い、数年の時を過ごして来た。
それだけを想い、数年の間捜し求めて来た。
そして今、彼女の願いは成就されようとしている。
その実感があるからこそ、グラベルの表情が緩んでいく。その唇はいずれ訪れる世界の混乱を思うがゆえにぐちゃりと歪み、その頰はいずれ自分が世界にもたらす災厄を望むが故に真っ赤に上気する。
あと少し、あとほんの少しだ。
その瞬間が、待ち遠しくて仕方がない。
待っていれば直ぐに訪れるその時を、グラベルは今か今かと待ち続けていた。




