心の鎖
「……やれやれ。受け入れるとは思っていたけど、ああまで即答とはね」
二人が出て行った後のファミレスで、司と美咲は一息ついていた。
言いながら、司は懐からタバコを取り出す。
美咲は一瞬咎めるような視線を向けるが、司の何とも言えない表情を見てやめた。
「司、本当にいいんですか? このまま、何もしないままで彼に引き渡してしまって」
「嫌なことを聞くなあ、美咲は。良くないから、こうして気を紛らわしているんだけどね」
「あまり良くない傾向ですね。体に毒ですよ?」
「だとしても、今更どうするっていうんだい? 今から二人を追いかけて、その仲を僕に引き裂けと? 今ようやく笑顔を取り戻した彼女の目に、もう一度涙を浮かべさせろ、とでも言うのかい? そんなことをして、何になるんだ」
吐き捨てるように言って、彼は火をつけたタバコの煙を深く吸い込む。
やりきれない感情が胸の内にあるのは、事実だ。モヤモヤとした、捨てきれない思いがあるのも、また同じ。
だが、それを霧散させるために自分の望みを叶えようとすれば、あの少女の願いを引き裂くことになる。
そんなことを望んで、ここまで生きてきたわけじゃない。そんなことがしたいがために、この力を手に入れたわけじゃない。
司がこの力を手に入れたのは、あの少女の笑顔を守るためなのだから。
だから、そんなくだらない感情は胸の内で押し殺す。何よりも彼が願うのは、ただ一人の少女が幸せでいることなのだから。
たとえ、その隣に立つのが彼ではなくとも。
たとえ、少女に何一つ感謝されず、敵として憎まれ続ける立場になろうとも。
彼女が笑顔でいることができるなら、司はそれを許容する。いつも通りのヘラヘラとした笑みを浮かべながら、その条件を全て呑む。
「……決めたんだ、とっくの昔に。この道を歩き続けるって」
「……そうですね。私もその場にいましたから」
彼の口元から紫煙が伸びていく。
もやもやと空中をさまよった煙は、空調に吹き流され、いつの間にか消えていった。
あの煙のように、いつのまにかこの感情が消えてくれるなら、どれほど楽だろうか。
だが、そんなことは起こるはずもない。
この思いは、肺にたまったタールやニコチンのように、延々と彼の中に留まり続けるのだろう。この身が果てるまで彼を蝕み続けるのだろう。文字通り、永遠に。
それでも、この道を選んだのは他の誰でもない自分だ。この道を歩き続けると決めたのは、自分自身だ。
たとえ、少女の思いがこちらに向くことがなかったとしても。たとえ、司の抱く想いがどんなに祈っても実らないのだとしても。
少女が笑顔であるように、少女が幸福であるように。そのためだけにこの身をかけて戦い続けると決めているのだから。
だから、止まらない。止まるわけにはいかない。
この胸のモヤモヤも、そうしているうちにいつか収まってくれるはずだから。
「……さて、行こうか美咲」
「もういいのですか?」
「準備をしなきゃいけないからね。せっかくやるんだ、失敗は許されないよ?」
それだけを言って、司はフィルター近くまで吸いきったタバコの火をもみ消した。
そして、彼は今日も茨の道を行く。モヤモヤとした感情を決してなくすことなく、されど口にはへらへらとした笑みを浮かべながら。
◆
「ここ、でいいのか……?」
「メールで送られてきた集合場所はここ、だね」
日曜日。
琉衣夜と瑠奈の二人は、予告通り金曜日に司から送られてきたメールに従って、かつて天使と交戦した廃工場へ来ていた。
「相変わらず荒れてんな、ここ」
「まあ、誰も来ないだろうしね。こんなところ。……正直、私も何もなければ来たくないよ」
そりゃそうか、と答えながら辺りを見渡す。
不気味な雰囲気を纏う、朽ちかけた建物。それだけで、近寄らない理由は十分だろう。
加えて彼らは知らないが、琉衣夜が天使と交戦した際に発生した光の柱のせいで、この場所は周辺の住民から訳の分からない不思議スポットとして認識されてしまっている。以前にも増して周囲に人気がないのはそういった理由もあるのだが……この二人が知る由もない。
「それにしても……」
「どうした?」
琉衣夜はひょい、と建物を見上げる。
魔力のない人間なら、ただの廃屋だと思って気にもしないだろう。だが、魔導師の世界に片足を突っ込んだ今だからわかる。
力を目に集中させずともそこだけ景色の中から浮かび上がってくるような、妙な感じが目の前の建物から感じ取れる。おそらく、“黒”を目に集中させれば、空間に展開されている魔力と術式が目に飛び込んでくるだろう。
「瑠奈、これって結界か?」
「あ、琉衣夜も気づけるようになったんだ。そう、相当レベルの高い魔導を使ってるね。一般人は当たり前だけど、並みの魔導師だったらこの結界にすら気付けないんじゃないかな」
「……それは、喜んでいいのか?」
「まあ、これに気づけるだけの実力があるってことだから。喜べるかどうかはさておき、ね」
思わずツッコミを入れると、瑠奈は苦笑いをしながらそう答えてくれる。
琉衣夜からすれば、瑠奈を守るために力を求めているから相応の実力があるに越したことはない。だが、周りと違うことを指摘されて喜ぶようなタイプでもない。いろいろと複雑な面持ちで固まる他なかった。
「まあ、それはいいや。そんなことよりこれ、前回は入れなかったけど今回は入れるんだよな?」
「触ってみれば? 多分、それが一番手っ取り早いと思う」
「適当だなあ」
それでいいのか、なんて思いながら、結局他に方法も思いつかないので恐る恐る手を前に出す。
やはりいつかと同じように、柔らかいが決して外部からの侵入を許さない壁がそこにあった。
(入れないじゃねえか……)
どんな意図があるのか知らないが、こういう時苛立たないでいれるほど、琉衣夜は大人じゃない。
苛立ち紛れに目の前の壁をもう一度殴りつける。これで入れなければ、“黒”を使ってぶち壊してやろうと考えていた。
しかし、予想に反して壁に激突して途中で止まるはずだった拳は、拍子抜けするほどにあっさりと空を切った。
「あ……?」
一瞬前と全く違う反応に、琉衣夜は眉をひそめる。
じっと目を凝らして見ると、目の前に展開されている結界から感じる印象がはっきりと変わっていた。さっきまではこちらを通すまいとする意思がはっきりと感じ取れたのに、今はそれを感じない。むしろ、歓迎するような雰囲気さえ感じられる。
司がそういう風にプログラムしていたのだろうか。それ以外の理由は考えつかないのだが、実際にそれは可能なのかどうか。そこまでは魔導の知識をつけ始めたばかりの彼には分からない。
「へえ……。こんな機能もつけられるんだな」
「後付けで、それも触れただけで誰かを判別して再設定するって、なかなか面倒な設定のはずなんだけどね。よくやるなぁ……」
そんなことを言い合いながら、瑠奈も琉衣夜と同じように結界に触れる。すると、やはり二度目は結界に触れることなくその手はあっさりと結界の内部に入ることができた。
「こんな訳分からん結界を作れる辺り、なんだかんだあいつも“罪咎の巣”のメンバーなんだな」
「その言い方はちょっとひどいような……」
琉衣夜の若干司を下に見ているような発言に、瑠奈が苦笑する。
そうは言うものの、初戦闘時は魔導も形質も使えなかった琉衣夜相手に負けた過去があるせいで、琉衣夜の中ではそこまで強いような感じがしていない。
前回や今回の動きを見るに、司は自分から攻めにかかるよりはこんな風に拠点を作ってその中に誘い込むのを前提とした戦い方が得意なのかもしれない。
それなら、あの時の強さと目の前にある結界の強さが食い違っているのも納得できる。
そこまで考えて、まあどうでもいいかと思考を切り上げる琉衣夜。
正直、今は司の実力なんてどうでもいい話だ。今日の話の趣旨はそこにないし、そんなところに主軸があるのならこんなところまでわざわざ来ない。
今日やるべきは、琉衣夜と瑠奈の新たな契約を結ぶこと。
それが最優先事項なのだから。
以前琉衣夜がぶち壊した壁から工場の中へと入っていく。
相変わらず、暗い雰囲気を纏う場所だ。そこら中に割れたガラスだの、壊れかけた機械だのが散乱し、その上には年月を感じさせる埃が例外なく降り積もっている。
前回は司や美咲、天使との連戦があったから気にする余裕がなかったが、改めて見るとひどいところだと思う。
「そういや、瑠奈。ここの噂知ってるか?」
「え? 何かあったの、ここ?」
何の疑心も抱いていない表情で、瑠奈が聞き返してくる。
どうやら、何も知らないようだ。琉衣夜は一度耳にしたことがある噂を、ニンマリと笑みを浮かべながら口にする。
「ここな、昔はちゃんと稼働してる工場だったんだけど、資金繰りがうまくいかなくなって倒産したんだと。んで、誰もいなくなったこの工場で社長が首を吊ったらしくてな。……それ以来、出るんじゃないかって噂があるんだよ」
「出るってまさか……」
「まあ、この流れできたら、その社長の幽霊しかいないわな」
言いながら、工場の中をぐるりと見渡す。
割れた窓。埃の積もった床。開けられたまま放置されている扉。そこには、かつて人がいたという気配を見いだすことができない。完全な、廃墟だった。
ぶるりと体を震わせる瑠奈を落ち着かせるように、彼は言葉を続ける。
「ただの噂みたいだけどな。俺の“黒”に引っかからない」
あたりを確認する琉衣夜の目元には、幾つもの黒い紋様が浮かび上がっている。皮膚の上を不気味に蠢くそれは、普通の人間ならわからない情報まで見切り、彼に伝達してくる。
例えば、この場にかけられている結界の魔導式。
例えば、この場に存在する人間の構成。
例えば、この場に幽霊や怨霊といった類のモノが存在するか、否か。
彼の形質、“黒”の根源となっているのは、人間の抱く負の想念だ。
人間は理性だけではなく、感情の影響を強く受けて日々生活している。そして、その内怒りや妬み、驕りや恨みなどなどといったマイナスの感情は、往々にして住んでいる場所そのものに刻み込まれ、残っていることが多い。
そういった、この星に残されている人の負の思いを力に変換するのが、彼の形質。その形質の副次的な恩恵として、彼は人の想念から生まれる力——魔力や形質などの構成や弱点を見るだけで理解することができる。
そして、その見ることができる情報の中には、幽霊などといった霊体だけの存在も含まれる。これは、少し前に瑠奈が出会った幽霊を見ることができたことからも確定した事実だ。
その彼の力でも、この場にその手の存在は確認できない。ならば、いないと考えてまず間違いないだろう。……悔恨と、上手くいっている者への嫉妬らしき感情は、ベットリとこびりついているが。
この程度なら生きている人間に影響はないだろうが、見ていて気持ちのいいものではない。危険性がないことも確認できたことだし、と彼はさっさと“黒”の力をシャットダウンする。
「ねえ、琉衣夜。その力使うの、しんどくない?」
「しんどくない、と言ったら嘘になるな。正直、戦闘の時でもない限り、使いたくない」
この力を使うと、見たくもない他人の悪意を嫌でも見ることになる。自衛のためにしょうがない場面なら観念して受け入れるものの、そうでもない時ならばなるべく使いたくないのが本音だ。
とはいえ、この場に危険がないことを確認することができたのだから、その程度は必要経費と考えることにする。
「まあ、あの馬鹿が『気が変わった』とか言って罠を仕掛けてないとも限らないしな」
「やれやれ、信用ないなあ」
後ろから、司の声が聞こえてきた。振り向くと、小さく苦笑いを浮かべている。
「そこまで疑われていると、さすがにへこむね」
「悪いな。人を疑うのは、俺の性分でね」
悪びれもせずに、そう言ってのける。実際、彼は司や美咲のことを信じたわけじゃない。必要だから、利用するだけ。その程度にしか考えていない。
彼が信じるのは、この世でただ一人、契約で結ばれた瑠奈だけ。
龍音や三上先生も、何かきっかけがあれば自分を裏切るものだと心の奥底では信じきることができていない。可能性は低いかもしれないが、それでも絶対じゃない。……人の心に対して絶対というものを、そもそも信じられない。
「ま、君が僕をどう思っているか、なんてどうでもいいんだけどね。そんなことを考えること自体が、そもそも時間の無駄だ」
「いいこと言うじゃねえか。それでいいさ」
二人して似たような、歪んだ笑みを浮かべる。そう、彼らは別に友達じゃない。利害がたまたま一致しているからそれに合わせて手を組んでいるだけ。
それで、いいのだ。
利害が合わなくなったら? 単純だ。切り捨てればいい。互いにそう考えている。だから、何の問題もない。
……まあ、その間に挟まれてまごついている瑠奈には、少し申し訳なく思うが。
「さて、馬鹿なことを話している暇もない。さっさと儀式場に移動しようか。この奥さ」
「本当に何もいらないんだな」
「一週間もあったんだよ? その辺りは抜かりなく準備してあるよ」
へらへら笑いながら、司は奥の部屋へと向かう。
かつて、瑠奈の中にいる“大天使”を封印し直す儀式場があった場所だ。そちらの方からは、以前ほどではないが魔力が集中しているのを感じ取れる。
「瑠奈、どう思う?」
「今の所は大丈夫だよ。攻撃的な術式も、こっちに危害を加える術式も見えないし」
「なら、いいか」
一応瑠奈に確認を取ってから、先に歩いて行く。
たとえ何かがあってもこれならば瑠奈をかばうことができるはずだ。何かあれば“黒”を即座に展開できるように準備しながら、一歩また一歩と奥へ向かう。
「……あまりこの場でその力を使って欲しくないんだけどね」
「ん? 何かまずいか?」
「君のその力は、他者に対して凄まじく攻撃的だからね。せっかく整えた地脈も術式も、まとめて食い荒らされちゃたまらないんだ」
「ああ、そういうことか。……まあ、儀式の前には全部オフにするから、勘弁してくれ」
「頼むよ。一週間もかけたんだ、一発でお釈迦にされたらこっちもたまらない」
司の若干疲れがにじみ出ている声を聞いて、“黒”は引っ込めておくことにしておく。琉衣夜としても、儀式の妨げになるようなことはしたくない。
以前戦場となった場所は、今は別の魔導陣が描きこまれた空間に変わっていた。恐ろしい量の魔力と書き込まれた術式の数だけでそれがいわゆる大魔導に匹敵するものだということはわかるのだが、それ以上のことは分からない。
今も瑠奈から魔導の授業を受けているとはいえ、琉衣夜は魔導の世界に入ってまだ一ヶ月しか経っていない。パッと見ただけでそれが何の魔導なのかわかるほど、彼の知識は充実していないのだ。
「これ……対天使の術式も組み直すの?」
「ああ、そうだ。君と琉衣夜君が契約を組み直すと、天使の術式にも影響が出かねないからね。全部を書き直す必要はないと思うが、一応全て準備をしてある」
瑠奈がキョロキョロと部屋を見渡しながらそう尋ねると、司は普段とは違う優しい笑みを浮かべながらそう答えた。
その表情を見て、琉衣夜はわずかに驚いた。
この男が、あんなに綺麗な表情を浮かべることができるのかと、そんな少し失礼なことを思ってしまう。なにせ、これまで見たことのある司の表情といえば激昂している時を除けば、何を考えているのかわからないへらへら笑いくらいのものだ。
瑠奈とやりとりをしている時だけは普段の表情を見せるのだろうが、それにしてもあそこまで変わるものなのか。
「あれは、瑠奈の時だけですよ。私と話すときでも、あそこまで柔らかい表情にはなりません」
「……お前、いつの間にここに来た?」
「今ですよ。こんにちは、琉衣夜さん。体調は問題ありませんか?」
「問題ない。あと、さんは別につけなくていいぞ」
「では、琉衣夜とお呼びしましょうか」
「それでいい」
後ろから突然話しかけて来た美咲に、警戒心を隠すことなく表に出す琉衣夜。
先ほど“黒”で探知をかけた時には、彼女の反応はなかったはずなのだが……。そのこともあって、彼は一度警戒心を解いたのだ。
今の所美咲からは敵対心が感じられないこともあって普段通りの対応をしているが、彼女と司が同時に襲いかかってきたら相当苦戦をすることになるだろう。
戦力が均衡している以上、気を抜いているとまずそうだ。
表情には出さずにそんなことを考えながら、美咲との会話を淡々と続けていく。
「んで、あの術式を起動させた後、儀式はどのくらい時間がかかるんだ?」
「だいたい二時間ほどになるかと。あなたと瑠奈の契約そのものはあまり時間がかかりませんが、天使用の術式を調整するのにだいぶ時間を取りますからね」
「やっぱり天使の方は色々と手間がかかるんだな」
「一つ間違えば、核兵器以上の災厄を引き起こしますからね……この儀式場を組み上げる時も、本部の人間の確認を取ったりしているんですよ?」
「へえ」
それでも二時間で調整できるのか。
魔導の儀式と聞くと、結構時間がかかるような気がしていのだが、案外そうでもないのかもしれない。
「こっちの体調は問題ないが、お前らの方は大丈夫なのか? この前の戦闘の傷、ちゃんと治ってるのかよ」
「ええ、問題ありません。私も司ももうすでに傷は癒えていますし、魔力の補充も完了しています。お気遣い、感謝します」
「いいさ。あいつの儀式に何の問題もないなら、それでいい」
「……本当に、あなたもあの子を大切に思ってくれているのですね」
「じゃなきゃ、こんなところまで来てない」
「それも、そうですね」
淡々と答える彼に、どうしてか笑みがこみ上げてくる美咲。
彼は歯に絹着せないだけで、案外ただぶっきらぼうなだけなんじゃないかと今の言葉を聞いて思うようになったのだ。
実際、琉衣夜は今までの間毒を吐くことはあれど、嘘をついたりすることはなかった。加えて、自分が口にしたことはそれこそ天使に牙を剥くことになってでも達成して見せている。
そう言うことも踏まえると、本当は存外信頼の置ける人物なのかもしれない。
本人は、そういった評価を決して喜びはしないのだろうけれども。
(瑠奈も、そういう所に惹かれたのかもしれないですね……)
彼の隣でキョロキョロと魔導式を確認している少女がひかれる少年の一端に少しでも触れることができたような気がして、美咲は思わずくすくすと笑みをこぼしてしまった。
「……何だよ」
「いえ? 瑠奈と仲良くしてくれるとうれしいな、と思っただけですよ」
「……ほんとかよ」
「ええ、嘘偽りなんて全くありませんよ」
どうだか、とこちらをジロリと見やる彼に微笑みを返すだけで、美咲はそれ以上何も喋らない。
そうしている間に、司と瑠奈の間で話が終わったらしい。
「どうしたの、琉衣夜?」
「美咲、どうかしたのかい?」
同時にそう尋ねかけてくる二人に、琉衣夜と美咲は思わず顔を見合わせる。
とは言え、こちらに隠すような話をしていた訳でもない為、二人ともすぐに返事をした。
「いや、別に。そっち側の体調とかは問題ないのか、確認してただけだ」
「ええ。瑠奈に何かあったら困るから、と。瑠奈」
「ん? どうしたの?」
「……いいお方に出会いましたね」
「……うん。私の、一番大切な人」
女性二人が何か小声で話しているが、そちらは聞かないようにしておく。女性同士の話に聞き耳をたてると、大抵面倒臭いことになる。瑠奈と龍音が話している時に耳をそばだてて、酷い目にあった経験がある琉衣夜はそう判断していた。
同じように司も手持ち無沙汰らしいが、そちらに話しかけることもない為、壁に寄りかかって目を閉じる。
司は司で、魔導陣の調整が終わった為、すでにやることも無い。ポケットからライターとタバコを取り出し、火をつけていた。
そんなまるで相いれることのなさそうな二人を見て、美咲と瑠奈が顔を見合わせて苦笑する。……まあ、美咲から見れば司が琉衣夜に心を開ききれないのは仕方ないと言えるのだが。
「さて、準備も人も揃ったことですし、始めましょうか。瑠奈、それに琉衣夜。魔導陣の中心に立ってください」
「はい」
「ああ」
美咲に言われた通り、二人はひときわ大きく描かれた魔導陣のど真ん中に立つ。この魔導陣を中心として、他の術式が魔力を増幅させていくような構成になっているらしい。
「ここで何をすればいいんだ?」
「まず、君たちの間にできている魔力パイプを契約により、補強し直す。その後、契約を結んだ後で天使用の術式に影響が出ていないか全部確認して、緩んでいる部分を再度補強。儀式が終わるまではざっと二時間はかかるから、トイレだの水分補給だのは今の内にやっておいてくれよ」
「……だってよ、瑠奈。大丈夫か?」
「……ううん、まあ大丈夫だと思う。こっちにくる前にトイレは行ってあるし」
デリカシーないよ、とジト目で呟く瑠奈に、仕方ないだろと返す。というか、今の話の流れでそれを言うのは酷いような気がする。
「だそうだ。司、頼む」
「了解。じゃ、始めようか」
フィルターギリギリまで吸ったタバコを惜しむようにもみ消しながら、司がこちらに歩いてくる。美咲も補助に入るらしく、長髪をまとめ直していた。
瑠奈も緊張しているのか、しきりに辺りを見回して術式を確認している。
「おい、大丈夫か?」
「え、う、うん。……緊張してる、かな」
あはは、と照れ隠しで頰をかいている。まあ、これだけの術式を描きこまれた儀式場のど真ん中で、しかも儀式の内容が内容だ。
緊張するのも、無理はないかもしれない。
「司、美咲。少し時間もらってもいいか」
「……少しだけなら、構わないよ。儀式ができる時間も限られているから、早めに頼むよ」
「わかった」
瑠奈の手を引いて、二人からは見えないところまで歩いていく。
念のために死角になる所まで行って、琉衣夜は足を止めた。
「どうしたの?」
「今の緊張した状態だと、失敗してもおかしくないと思ってな。少し、ほぐしてやろうかと」
言って、瑠奈の頭に手をやる。
普段通り口元には不敵な笑みを浮かべながら、ポンポンと頭を撫でた。それだけで、若干だが瑠奈の体の緊張が緩んだような気がする。
「大丈夫だ、俺が隣にいるから。いつも通りでいればいいさ」
「……うん」
ん、と瑠奈が頷いた。
ちょいちょいと彼女の右手が琉衣夜の左袖を引っ張る。何かと手を差し出すと、そっと瑠奈の両手が彼の手を包んだ。
もっちりとした柔らかい感触と、ほんわりと暖かい体温が伝わってきて、琉衣夜の頰が自然と緩む。もしかしたら、自分も雰囲気に当てられて知らぬ間に緊張していたのかもしれない。
ふと、瑠奈の両手がかすかに震えていることに気付く。瑠奈自身もそれには気付いているのだろう。視線が合った途端、恥ずかしそうに伏し目がちになってしまった。
「気にすんな。しょうがないさ」
「……いいなぁ、琉衣夜は。緊張しなくて」
「……俺も、緊張してるよ。でも、こうするしかないだろ?」
琉衣夜とて、何にも動じない鋼の心を持っている訳ではない。
心の動転を表に出さないように努めているだけであって、実際は驚きもするし動揺もする。
それでも逃げ出さずにいられるのは、これ以外に方法がないとわかっていて、なおかつそれを行わないと瑠奈に危害が及びかねないと理解しているからだ。
もしも瑠奈がこの場にいなかったら、瑠奈と知り合うことがなかったら、間違いなく面倒ごとを嫌って逃げ出していただろう。
それだけは、断言できる。
だから。
「こうするしかないとわかってるから、今こうして立っていられるだけだ。怖がってるのは、俺も一緒だよ。怖がってる者同士、一緒に頑張ろうや」
そう言って、笑みを浮かべる。不敵で素敵で大胆な、普段通りの笑顔を。
この言葉が、瑠奈の助けになるかはわからない。もしかしたら、ほんの少し彼女の気を楽にするだけかもしれない。
けれど、それならそれだけで構わない。
一緒にいることで少しでも瑠奈の助けになるのなら、それだけで十分だ。それ以外にどうすればいいのかわからない以上、やれることを最大限やるだけだ。
そんな気持ちが少しでも伝わったのだろうか。瑠奈の手の震えが、少しだけ弱くなる。
もう一度目が合うと、今度は小さな笑みを浮かべてくれた。
「うん……頑張ってみるね。そばに、いてよ?」
「もちろん。お前が嫌だと言わない限り、一緒にいるさ」
心配そうに言ってくる瑠奈に対して、当たり前だろうと言うようにポンポンと彼女の頭を軽く叩いた。
それで、ようやく心の重荷が多少は軽くなったらしい。震えが完全に止まり、その目に光が宿る。
「よし、じゃあがんばろっか」
「ああ、行こうか」
もう一度ぎゅっと手を握りしめ、自分を奮い立たせるように深呼吸をする瑠奈。最後に「よし」と小さくつぶやいて、今度は彼女が琉衣夜の手を引いて歩き出す。
儀式場に戻ると、司はやれやれと言った調子で首を振り、美咲は何を勘違いしたのかほんのり頰を染めていた。
「見せつけてくれるね、全く。それで? 今度こそ、始めても大丈夫かい?」
「ええ。お願いするわ」
「そういう訳だ、頼む」
「はいはい。なら、さっさと儀式場の真ん中に立ってくれ」
面倒臭そうに腕を振り、先ほどと同じ指示を二人に下す。
手を繋いだまま儀式場の真ん中に突っ立っている瑠奈と琉衣夜に青筋を立てそうになるものの、司は持ち前のポーカーフェイスを十分に発揮してどうにか持ちこたえる。
……長い付き合いの美咲にだけは雰囲気だけで見透かされ、一歩後ろから心配の視線を投げられているのだが。
「さて。じゃあ、始めようか」
一言ポツリと呟いて、司が目を閉じた。
瞬間、世界そのものが鼓動するかのように、儀式場が鳴動する。
『!?』
途端、全身を駆け抜けていく魔力の奔流を察知した琉衣夜がとっさに“黒”を起動してしまう。
瑠奈の手を離し彼女の前に立ちながら、彼の全身を星そのものから汲み上げた負の力が駆け巡る。
この瞬間、彼の頭の中から儀式のことは完全にすっぽ抜けていた。考えていたのは想定外のことが起きたのではないかと言う不安と、瑠奈のことを守らなければならないと言う覚悟のみ。
その二つの感情だけを基に、琉衣夜の集めた力が地を這い四方へ拡散する。
「止めろ、バカ!」
「!」
“黒”の魔力が壁に展開された魔導陣に触れようとした瞬間、かつてないほど逼迫した声で司が叫ぶ。
その声に反射的に反応し、“黒”をすんでのところで停止させた。
「……言っただろう。君の力は魔力をかたっぱしから食い荒らす傾向があるから、儀式場の中では絶対に使うな、と」
「すまん。だが、今のは……?」
「対天使の術式に耐えるだけの魔力を循環させるんだ。パイプも十分以上の強度がいるし、それを作るための魔導もその分普段の魔導に比べて大規模になってしまう。……その辺りは、この前渡した書類に書いてあったはずなんだけどね」
「……悪い」
そういえば、と書類に書かれていた内容を今更ながらに思い出す。
思い返せば天使の封印に使った術式だけでもこの部屋全体を儀式場にする必要があったのだから、それに加えてもう一つ別の魔導を使うとなれば輪をかけて強大な術式になるのは予想がつく。
それに比例して、魔導の反応が大きくなるのも想像できておかしくないはずだ。完全に、琉衣夜の早とちりである。
いくら瑠奈の身が心配だったとはいえ、そのせいで儀式場のど真ん中にいる彼女を暴走の危険に晒すかもしれなかったことを考えると、今の一手は決して賢明とは言えなかった。
この辺りが、魔導の世界に浸かり始めて間もない彼の弱点だろうか。
「儀式はいけるのか? 悪影響は出ていないか?」
「かろうじて、ね。いくつかの補助術式が歪んでいるが、その程度なら問題はない。……続けるよ。今度は邪魔しないでくれよ?」
「すまない。頼む」
司に頭を下げ、儀式場の真ん中へと戻る。
戻ると、瑠奈が心配そうにこちらを伺いながら手を差し出してきた。手を繋ぐと、まるで元気付けるかのように何度かぐっぐっと強めに握られる。
それは、言外に「大丈夫?」と尋ねてきているようで。
そんな彼女の声なき言葉に、「大丈夫、ありがとう」と思いを込めて同じように何度か力を込めると共に、小さな笑みを返す。
それで伝わってくれたのだろう。瑠奈も微笑み、再び目を閉じて集中を始めた司の方へと視線を戻した。
琉衣夜も彼の方へ目をやる。
目を閉じて魔力の循環によどみがないことを確認した司は、儀式の手順を最初からもう一度始めた。
まずは部屋にびっしりと描きこまれた術式一つ一つに過不足なく魔力を流し込んでいくことで、魔導を起動させる。
一つ一つは小さな効果の魔導に過ぎないが、いくつものブースターを効率よく組み合わせることで元の力は際限なく増加されていく。
無論、人間一人で扱いきれる魔力量は限られている。故に、魔力が大きく膨れ上がってきたところで司は一つ目の大規模魔導を発動する。
それは、かつて彼が瑠奈の対天使術式を更新する際に使った、七重の連鎖魔導結界だ。
三位一体を示す天界の数字『三』と、四方及び四大天使を表す地上の『四』。この二つの意味を掛け合わせることにより、『世界』そのものという莫大な意味と力を魔導に組み込むための式。
これを利用することで、まずは琉衣夜と瑠奈の間に作られている魔力の経路を再構築、補強することで対天使の術式に耐えうるものへと作り変えるのだ。
だが、この工程が完了すれば、二人の魂はもはや分かつことが不可能なほど強く、固く結びつくことになる。もはや、それ以外の第三者が間に割って入ることはできなくなってしまうほどに。
それほどに、魔力と魔力をつなぎ合わせるということには大きな意味があるのだ。生命力を精製して生み出される魔力同士の契りは、心と心、体と体、魂と魂そのものの契りに他ならない。
そんな作業を、他ならぬ自分自身がやらなければならないという状況にあって。
そんなことを考える司の中に、苦い感情がこみ上げてくる。
今この瞬間にでもこの作業を放棄したいとさえ、心の端で思ってしまう。
そんな相棒の心境を察したのだろうか。
「司。私が代わりましょう」
ポン、と後ろから美咲の手が肩を叩いた。
目をやると、彼女の目には同情の色が浮かんでいる。
「いくら覚悟をしているとはいえ、この作業はあなたにとって辛いものであることに変わりはないはず。私でもできるのですから、代わりましょう」
魅力的な提案だ。
ここまできちんと魔力を通して起動をしてしまえば、後は細かい調整をするだけで最初の行程は完了する。
そして司には一枚劣るが、美咲も十分な力量を持つ魔導師だ。任せても、おそらく問題はないだろう。
数瞬の間、思考を巡らせる司。
しかし、彼はその場を動かない。
視線を前に戻し、必要な手順を淡々と進めていく。
「司……」
心配するようなかすかな声も、聞こえないとばかりに無視して作業を続ける。
今目の前で起きている琉衣夜と瑠奈の魔力の結合を見るのは、司にとって甚だ不愉快であることにはなんら間違いがない。
心の底から想っている相手が、別の男と文字通り離別できないほどの結びを交わすことを、よりにもよって自分自身が手助けしなければならないのだ。
彼にとって、どれほど苦く苦しい役割か想像するに難くない。
だが、司は動かない。
それが、この場において最善の策だと知っているが故に。
それが、目の前で儀式を受けている少女にとってもっとも幸福に繋がる道であると、信じてやまないが故に。
軋み、苦痛を叫ぶ自らの心など歯牙にもかけず、ただただ必要な作業を必要なタイミングでこなしていく。
全ては、一人の少女のために。
それを改めて理解した美咲は、もはや何も言わなかった。
己の望みのために、他者の幸福のために、ただひたすら茨の道を行く一人の男に敬服するかのように頭を下げ、事の成り行きを見守る。
そして、司の努力を褒め称えるように、彼の想いを祝福するかのように。
魔導陣が、ひときわ強い光を放った。
暖かい光が琉衣夜と瑠奈を包み込み、その間に繋がっている経路を再構築していく。
儀式が半分成功したことを告げる、優しい光。
だが、司本人からすれば、いまいましい事この上ない輝きだった。
口元を歪め、誰にも聞こえない程度の声量で一言呟く。
「……気に入らないね、全く」
呪いを撒き散らすかのように言い捨てながら、しかしその動きは止まらず次の行程のために新たな作業を開始する。
その動きは、儀式が完了するまで一度も止まることはなかった。




