第3章 泡沫の影-2
琉衣夜が一歩を踏み出した途端、セレナが両腕を同時に動かす。
左手はいつの間にか首から外されたロザリオを、そして右手に握っているそれは、
「……杯!?」
ぞっ、と琉衣夜の背筋に怖気が走る。
神を信仰する者が利用する礼装、その中でも杯を象る礼装と言えば琉衣夜には一つしか思い浮かばなかった。
即ち、聖杯。
神の子が最後の晩餐にて使用したとされるモノ。
あるいは、処刑の丘にて神の子の血を受けたとされるモノ。
そのどちらにせよ後に語り継がれる歴史の中で重要な役目を果たしたとされる内容が多く、聖遺物の一つとして数えられるモノである。
もしも、眼前の敵が持つソレが真実の物品だとしたら。
静の神器と同格か、それ以上の奇跡を起こしてみせるに違いない。
そう思考を巡らせながら、琉衣夜は踏み出した足を必死に食い止め、後方へと飛び退く。
あの杯にどのような力が宿っているとしても、今距離を詰めることは得策では無い、そう判断して。
その慌てようを見て、セレナは口元にうっすらと笑みを浮かべる。
そして、彼女は杯に満たされた紅の液体を唇へと注ぎ込んだ。
ごくりごくりとその喉が中身をあっさりと飲み干し、一息をついたセレナが杯から手を離した途端、杯は宙空へ解けるように消え去った。
「随分と驚かせたようだが、安心したまえ。先ほどの杯はただの杯。君が考えているような仰々しい代物では無い」
クスクスと微笑みながら、セレナはそう囁く。
第一、真実の聖杯など保有していたらこんな場所でこそこそと儀式をする必要はないに違いない。
……いや、別の意味で姿を隠す必要があっただろうか。
本物の聖杯など、世界中の信徒から狙われる逸品であろうから。
閑話休題。
彼女が利用したのは、本当にただの杯だ。
意味を持っているのはその中身に加えて、それを飲み干したという事実。
聖書に曰く、神の子はパンを自らの体とし、杯に注がれたワインを自らの血と告げて弟子たちへ与えたという。
そして、この逸話は聖なる儀式として取り入れられ、現代に至るまで執り行われ続けている。
この逸話と儀式をなぞるのならば、きちんとした手続きを踏む事で神の血肉を己が身へ取り込んだという意味を持たせることが出来る。
そういった意味では、先ほどの杯はただの杯ではないと言えるかもしれない。
大した力を持たないとは言え、きちんとした魔導的意味を持たせることができる礼装なのだから。
「杯自体には意味がないのは本当さ。むしろ、この身に取り入れた血肉こそに意味があるのだから」
飲み干した紅色の液体が体に吸収された途端、セレナの身から放たれる圧力が増大した。
神の血肉と称される物をその身に受け入れ、聖母への祈りを捧げるロザリオを纏うその姿は、場所こそ正しければ祈りを捧げる聖職者のそれであっただろう。
だが、その背に秘した暗黒の回廊が、こいつがただの聖職者などではないことを明確に物語る。
「……聖職者ってのは、酒も禁止じゃなかったのか」
「無論、泥酔は避けるべきものだ。が、アルコールの摂取そのものは禁じられていない。むしろ神の子は儀式の中にぶどう酒を取り入れている。酔っ払うことがあってはならないだけで、ね」
宙へ溶け落ちた杯の代わりに、その手に握られたのは漆黒の錫杖だった。
刹那その錫杖から、黄泉への道から放たれる異様な気配以上にどろどろとしたおぞましいオーラが放たれ始める。
そのオーラを前に、琉衣夜は首を傾げた。
「……おい、聖職者がそんな気配を漂わせても良いのか」
「私の信仰は偽物でね。洗礼もミサも聖餐も、何度も何度も経験したが目的へ至るまでの方法論でしかなかった」
ずるずると放たれるオーラは次第に彼女の前に収束し、一つの形を生み出していく。
ソレは、下水道の天井すれすれまで膨らみ上がった人型だった。
人ではない、決して人をかたどったものではない。
ソレはまるで神話の中に出てくる神格のような凄まじい気配を放っている。
人の形に近いにも関わらずこれほどのオーラを、しかも人間が生み出した模造品が放つとなれば、元になった何かもある程度絞ることができるが……。
「随分ととんでもないものを呼び出したな。こいつは骨が折れそうだ」
「そうであってくれれば嬉しいね。その間に私の儀式を進める余裕ができる」
あっさりと言い放ち、セレナは呼び出した何かを琉衣夜へとけしかける。
声なき咆哮と共に、漆黒のソレはその全身を大きく広げてこちらへと動き始めた。
「……そうはいくかよ。さっさと通らせてもらう」
吐き捨てて、琉衣夜も即座に迎撃体制へと移る。
刹那、漆黒の両雄が激突した。




