第3章 泡沫の影-1
昏き地下道を怪しげな輝きが埋め尽くす。
乾ききった血を思わせる鈍い赤、臓物を想起させるどろりと暗い桃色、眼球へと至らせる濁った白、そして人が焼失した後に残る灰色。
全くもってポジティブなイメージに至ることのできないそれらの色は混ざり合い、時に反発し合いながら一つの螺旋を生み出し、渦の中心にぽっかりとした空白を生み出した。
その場に存在する全ての色相が混じり合ったその一点は、濁りもなく曇りも見えない純粋な黒が浮かんでいた。
初めは染みにしか見えないようなその極点は、注ぎ込まれる魔力が増加するにつれてその大きさを拡大させていき、遂には人一人が通れるほどの空間へと変貌していく。
そのぽっかりと浮かぶ穴からは禍々しい気配と共に、下水道の濁った匂いとはまた別種の臭気が漏れ出してくる。
人に限らず動物が腐り果てた時の匂い、水が一点に滞った際に生じる澱みの臭い、そしてカビや病に侵された土地が放つ悪臭。
それらが入り混じった、言いようのない汚れ濁った臭気。
伝承の通りであれば、黄泉比良坂の入り口は伊邪那美命と黄泉醜女より逃げ果せた伊邪那岐命によって塞がれたという。
それが確かであればなるほど、日輪と無縁の地下世界の匂いはこのようなものなのかもしれない。
しかし、セレナはその異様な気配と臭気を前にして、怯むどころか微かな笑みを浮かべていた。
術式は、確かに起動した。
安定するまでに時間こそかかったものの、今まさに伝承の通り黄泉の世界は開かれた。
さすれば死者の世界に留まっているであろう弟にも、手を伸ばすことができるはずだ。
術式を維持する魔力は、残り数時間ほどだろうか。
それだけあれば、間に合うだろう。
自らの内を流れる魔力を励起させ、胸元のロザリオへと注ぎ始める。
セレナの生命力と魔力にはかつてこの世に存在していた弟の名残が未だに残っている。
一部の魔力を分け与えるのではなく、生命力と魔力の全てを文字通り移譲されたその時から、セレナは二人分の魔力を行使することができるようになっていた。
そして、二人目の魔力は本来の自分が保有する魔力とは全く波長が違うもので。
この魔力と弟の形見たるロザリオを媒介として黄泉の世界を走査し、波長が同一の者を探し当てる。
それこそが、かつて失ったはずの弟に他ならないはずだから。
「やっと……たどり着いた。必ず、探し出してみせる」
万感の思いと共にそう囁くセレナ。
ロザリオへ十分なだけの魔力を充填し、今まさに黄泉の国を探索するべく一歩踏み出そうとする。
コツン。
その背後で、足音が響いた。
コツン、また一つ足音が異空間と化した暗闇に響く。
振り向こうとするよりも先に、背後の侵入者が口を開いた。
「止めとけよ、何をしようとしてるのか知らねえけどさ。その穴の先に行ったら、帰ってこれねえぞ」
「……“黒翼”か」
「随分と名が売れてんだな、俺。ま、それはどうでもいいや。これは本気の忠告だ。アンタが何をしたくてこの式を作り出したのかは知らねえが、生者の思い通りに動くほど死者は容易くねえぞ」
まだ少年と言ってもおかしくない年齢の男が、鋭い瞳でこちらを見据えて立っていた。
しかしその全身から放たれる魔力と闘志はヴァーリやオイゲンと比べても劣らない。
若いくせに随分と経験を積んだのだろうか、魔導師の世界は時としてとんでもない化け物を生み出すものだ。
そんな胡乱な思考を振り払い、セレナも言葉を返す。
「そうかね。忠告はありがたいが、私にはこれ以外の手段が思いつかないんだよ。それ以上言うことが無いのであれば、放っておいてくれるとありがたいんだが」
「そうもいかねえ。その穴、どう考えても許容できるレベルの瘴気を越えてる。他の魔導師を呼び寄せない為に結界を張らなかったのかもしれないが、幾ら何でも場を荒らしすぎだ。……テメエの部下のせいで俺の同僚も負傷してるんでな。放っておいたら、病状が悪化するだろうが」
「なら、既に話は平行線だな。私はこの術式を手放すつもりはない。君は事が済むまで静かに見守ってくれるつもりはない。であれば、残る手段は実力行使だけだろう?」
「……最後にもう一度だけ忠告を聞く気はあるか?」
「ないね。人の善意はなるべく受け取りたいが、こちらにも退けない一線がある」
シャラリ、と音を立ててセレナの手に何かが握られる。
その動きに呼応するように、琉衣夜もまた自らの元に漆黒の群れを呼び出していた。
両者の視線が鋭く釣り上がり、互いの発する気配が一瞬にしてチリチリと肌を傷付ける程の鋭利さを伴う。
「こちらこそ最後に聞くが、下がってくれるつもりは無いのか? 長くても数時間で終わるんだが」
「知ったこっちゃねえ。テメエの目的が何だか知らねえが俺の縄張りで許可もなくそんな事をやった時点で許すつもりはねえ」
それに、とそこで更に琉衣夜の放つ気配が重厚さを増す。
その重圧は、眼前に立つ敵に対して明確な殺意を示していた。
「……テメエらは俺の周りに手を出しすぎた。その落とし前は、数倍にして取り立てさせてもらう」
「やれやれ、結局こうなるのか。良いだろう、始めようか」
セレナの背後で開かれた穴の向こう側から発せられる異様な気配が、一際強く大きな違和感を放ち始める。
これ以上放っておいても百害あって一利なし。
問題の解決は早ければ早いほど良い。
そう決断した琉衣夜が一歩踏み出し、セレナが応じるように腕を動かす。
そして、長い夜を終結させるための戦いが始まった。




