第3章 泡沫の影-3
漆黒のソレは、凄まじい速度で二者の距離を詰めてくる。
その速度自体はたいして速くない。
目で追うのは難しいかもしれないが、ヴァーリに比べれば追う事が出来るだけでも上出来。
動き始めたソレに呼応して、琉衣夜は呼び出していた“黒”を展開する。
漆黒の巨人に対して、呼び出したのは真黒の波濤。
巨体故の圧を放ちながら接近してこようとする敵に対し、下水路の汚濁よりもさらに深く濃密な汚穢が濁流と化して巨人へと襲い掛かる。
……が、濁りきった怒涛は、巨人の前にあっさりと静まり、敵へ一切干渉する事なく消失した。
「な……っ!」
これだけで終わるとは、もちろん思っていなかった。
しかし、ここまで反応がないとも思っていなかった。
端的に言えば想定外の自体を前に、琉衣夜の反応がわずかに硬直する。
そして戦場においてその一瞬は、致命的な隙となって現れた。
ゴシャリという鈍い音を立てて、琉衣夜の体が吹き飛ばされる。
直撃の刹那、“黒”を防御に回す事が出来たが故に胴と脚が泣き別れすることはなかったが、あっさりと肋骨がへし折れた感覚が全身へと伝播した。
防御への意識の傾注と、直撃の瞬間に全身へと駆け巡った激痛が、さらに受け身を取る思考を奪い取る。
凄まじい音を立ててアスファルトの壁に叩きつけられた琉衣夜の肺から全ての酸素が吐き出され、ついで腹部と背中の双方から発せられる激痛でギチギチと噛み締められた歯が軋む。
どしゃり、と横から地面へと落ちた琉衣夜はぜいぜいと荒い吐息を繰り返しながら、されど敵の次なる動きを警戒するべく視線を向けた。
既に傷の修復は開始されている。
だが、痛覚へ干渉するのは流石に現時点では難しいと判断し、痛みに震える体を押し殺しながら壁に手をつきながらも立ち上がった。
複雑にへし折れた骨を修復するのはさらなる激痛が走るものの、そんな事に意識を割いている余裕などない。
こちらがまごまごしている間に、黒の巨人は再度動き始めた。
対し、琉衣夜も痛みに怯む体を叱咤しながら両腕を宙へと走らせる。
右手が振るうのは漆黒の針雨。
ざばぁと水音を立てて下水路から飛び出した“黒”が、使い手の意に応えて数千数万の針へとその身を変えて、巨人へと降り注ぐ。
左手が刻むのは殲滅の輝き。
天使の光を基に生み出した使い慣れた魔導を即座に完成させ、真正面から敵の進撃を食い止めるべく解き放つ。
一つでも突き刺されば凄まじい勢いで生命力を喰らい尽くすはずの漆黒の万針は、しかし敵の体に立つことなくしゅるりしゅるりと消え溶けていく。
対して、空間を引き裂く純白の輝きは甲高い音を立てながら突き進み、人間で言えば腹にあたる部分へと直撃して巨人の態勢を大きく崩した。
つまり、魔力そのものを吸収ないし無効化している訳ではないはずだ。
であれば、敵の反応の差異は魔力の方向性にあるはずで。
(“黒”をそのまま放出しても攻撃が通らねえ……『殲光』は態勢を崩す程度のダメージ喰らってる。なら、“黒”は使わない方が良いか!)
口内に溜まった鉄の香りを吐き出しながら、琉衣夜はそう結論づける。
攻撃数が少なすぎて相手のフィルターを推測しきることは難しいが、ざっくりとした方向性は作っておいた方が良いだろう。
ならば、次に確認するべきは決まっている。
瞬間、琉衣夜の背から漆黒の暴風が吹き荒れ、一対の奔流となってその背から放たれ始める。
即席の翼を生み出した琉衣夜はその場から大きく飛び退き、両腕を宙にひらめかせながら複数の魔導式を展開していく。
“黒”の直撃でダメージを与えられないなら、効きそうな魔導を片っ端から試してみるに限る。
せっかくこれまで学習してきたのだ、レパートリーは使用しなければただの持ち腐れである。
幸いにして、漆黒の巨人はその体躯こそ巨大なれど、その動きはさほど早い訳ではない。
ならば、その体で試してみるとしよう。
宙に刻まれた式が、文字が、円が、凄まじい速度で形を成し、意味を生み出し、独立した術式へと変貌していく。
それは、真紅の炎弾だった。
それは、翡翠の石剣だった。
それは、蒼穹の風槍だった。
魔力の奔流が琉衣夜の手によって一つ一つが強大な魔導へと練り上げられ、次から次へと宙を引き裂いて黒の巨人へと殺到する。
あるものは、突き刺さった途端に氷柱へと変貌した。
あるものは、着弾の瞬間にその半身を覆うほどの豪炎へと炸裂した。
あるものは、その魔力体を引き裂く烈風となりてその場を駆け抜けた。
だが。
(……ダメか。ダメージは入っているけど、消し飛ばすほどじゃねえ。どこを起点にしてるのかまだわかんねえが、本体を飛ばさねえと消えねえか)
「…………ふふ」
漆黒の巨体の向こう側、今も佇むセレナの口元がゆるりと崩れるのがわかった。
眼前で起きている光景を、「無駄なことを」と一笑するかのように。
まあ、気持ちはわかる。
自分が相手の立場だったら同じような反応をしたに違いない。
そして、そんな反応をするということは、この巨人そのものの中に核はないのだろう。
そう、ざっくりと当たりを付ける。
だから、あっさりと攻撃を取りやめ、アスファルトの地面を蹴り付けた。
その体が宙を翔け、漆黒の巨人を飛び越え、本当に簡単に背後の術者の元へと辿り着く。
セレナの目が、こちらへと飛び込んでくる“黒翼”を前に、愕然と開かれた。
眼前まで迫り来る真黒の風を前に、敵は目を閉じることすら許されない。
刹那、轟! という音と共に暴風が荒れ狂い。
下水道の中を、水っぽい音が炸裂した。




