第2章 昏きに潜む-17
ひゅう、と風を切る音が聞こえれば、次の瞬間に嵐と化した爆風が戦場を蹂躙する。
いかな漆黒の翼とて、幾度も嵐に飲み込まれれば千々と散りゆく定め。
爆発とすら錯覚するほどの衝撃波を前に、しかし琉衣夜は散弾の如くばら撒いた真黒の種を萌芽させる事で嵐に込められた魔力を散逸させ、逆に己が意を通すための魔導式へと変貌させて反撃の一手へと組み替える。
されどその魔導式が狙う先にはもはや敵の姿はなく、吹き荒れる暴風はその狙いを達せぬまま再び世界へと溶け落ちていった。
息をつかせる暇もなく再びヴァーリの手元で生み出された風の渦が琉衣夜の元へと到達するもこれは身を大きく捻る事で回避し、お返しとばかりに『殲光』の輝きが二筋彼の手から解き放たれる。
だが、至近距離から放つならともかく、反応するだけの間合いがあれば、相手はこれに対応してしまう。
皮膚の一片から骨の髄に至るまで魔力と闘気に浸されたその腕は、それを覆う黒衣さえも分厚き障壁へと変化させ、あっさりと天使の閃光を模した一撃を弾き、往なしてしまう。
それどころか『殲光』がかき乱した大気中の魔力すら味方につけてより一層の風刃を生み出す始末。
その間合いは先ほどからほとんど変わっていない。
すなわち、互いに致命の一撃を刺し得ぬ距離。
琉衣夜に対して一瞬で距離を詰める事が出来ない代わりに、ヴァーリが琉衣夜の魔導に反応できてしまう距離。
先に踏み込めば反撃で自らが吹き飛びかねない、されど踏み込まねばこの戦いは終わりを見せないであろう間合い。
故に、この戦闘は両者ともに凄まじい速度で飛び回りながら、その一方で敵の隙をいかにうまく生み出すかという思考戦へと移り変わっていた。
牽制の一打が刺されば、その隙に大技を叩き込む。
されど敵の一打が当たれば、致命の瞬間を相手に与えかねない。
であればこそ、周囲にあるもの全てを利用して敵の動きを制限し、限定し、追い詰めた上でとどめを刺す。
理屈は互いに理解しているといえど、されどそうはさせぬとばかりに両者共に隙を見せぬ状況が続けば、戦場は膠着の様相を呈しつつあった。
……無論、膠着しているのは戦い続ける魔導師のみで、戦場にはこれまでの凄絶なやり取りを想像するに余りあるほどの爪痕が残されているのだが。
初めに立っていたアスファルトは田畑の畝の如く掘り返され、震脚の土台となった地面は深々と抉れ、その場に鎮座していたはずの多くの緑は引き裂かれ見るも無残な様相を呈している。
大規模な嵐が通り過ぎたとしても、こうはならないであろうと断言できるほどの惨状。
後始末を行う回収係の苦労は察するに余り有る。
……察したからと言って、手加減ができる相手かと言えばそれははっきりとノーだと断じられるのだが。
「鼠のようだな、“黒翼”。そんな翼は放り捨てて昏き地下にでも逃げた方が性に合っているのではないか」
「そういうテメエは随分と喋るようになったじゃねえか。さっきまでは口を開くのも億劫そうだったのによ」
飄々とした言いぶりでこちらを腐すヴァーリに対し、琉衣夜も軽々と言葉を返す。
互いに息すら上がっていない。
ほんの一瞬前まで一手誤れば我が身が砕ける戦闘を行っていたとは思えない態度だが、これが魔導師の極致。
体を動かすだけなら一般人にもできる。
魔導を使うだけならその辺の魔導師にだってできるだろう。
これを高度なレベルで両立し、それを継続できるだけの能力と経験を積んできた両者だからこそ、この天秤は高度な位置で釣り合っているのだ。
これがそんじょそこらの魔導師が相手であれば、どちらの相手をしたとしてもあっという間に天秤は傾き切っていただろう。
互いにそれを戦闘の中で理解し、敵といえどここまでの研鑽を積み上げてきた相手だとわかっているからこその軽口でもあった。
「時が時ならば真正面から挑みたい敵だが……此処は戦場。語るは無粋」
「別に今から帰ってくれたっていいんだぜ。テメエがこっちに来ないって言うんなら、こっちから突っかかる理由もねえんだ」
それは、琉衣夜の偽らざる本心だ。
無論経験値は喜ぶべきものだが、別段今の彼は先頭を心底求めている訳ではない。
同等の力を持つ相方が近くにいる以上、自分たちに仇なす相手がいなければわざわざこちらから襲いかかる理由もないのだ。
その言葉に対し、ヴァーリは苦々しさを含んだ表情へと変わる。
「かもしれん。だが、これも依頼だ」
「依頼、ねえ……」
あいも変わらず気の乗らない素ぶりを見せる琉衣夜に対し、ヴァーリも深々と息を吐く。
本当に、ここでない場所で出会う事が出来ていれば、もっと気持ちのいい果たし合いができていたかもしれない。
だが、思うままに行かないのが現世の定め。
久々に興の乗った闘争と言えど、終わりは唐突に訪れる。
その切っ掛けは、両者の全く介在せぬ場所から現れた。
「……っ!」
びりびりと、魔力を感じる者ならまず間違いなく肌を震わせるであろう怖気が走った。
振り向けば、その奇妙な魔力はとある一点から放出されている。
無造作に放たれるその魔力はあまりにも醜悪だった。
この身に纏う“黒”とて人間の悪意を束ねて取りまとめた力だが、この感覚はそれともまた違う。
腐臭にも似た、ドロドロと粘りつくかのようなその魔力は収まる所を知らず、むしろ更に放出量を増している。
明らかなる異常。
この状況がこのまま放置されれば、魔導師はおろか魔力を感知し得ない一般人にすら影響が及ぶだろう。
そんな思考を間違い無いと思わせるほどの、異常にして絶大なる変化。
そんな状況を前にして、しかし眼前の敵は冷静さを崩さない。
「……これも、テメエと仲間が起こしたことか」
「さてな」
「……悪いが、テメエと喋ってる余裕がなくなった。無理矢理にでも通してもらうぞ」
「させるとでも?」
ヴァーリの全身から放たれる魔力がより一層収斂される。
未だ破れる事なくその身を覆う黒衣は、通された魔力に反応して防御能力をさらに増大させ、強化された肉体は先ほどまでよりも強大な熱量を放ち始めていた。
対する琉衣夜も、手段を選ぶ余裕はもはや無い。
その代償が重かろうと、己が取りうる最大最高の手段を持ってこの場を可能な限り迅速に通り過ぎるために、自らの意識を一点に集中させる。
変化は唐突だった。
これまで琉衣夜の周囲を漂い、一時的に防御のためにまとわりつく程度の距離感を保っていた“黒”達が、琉衣夜の全身へ躊躇する事なく飛び込んでいったのだ。
ずるずるずるずると気色の悪い音を立て、全身から漆黒の泥を吸い上げると共にその全身を夜空よりも黒く、汚泥よりも暗い闇が染め上げていく。
いつしか少年の全身は真っ黒に沈んでいた。
その表皮は指の先から顔に至るまで全てが真黒に呑まれ、唯一色を見せるのはガパリと開かれた口から覗く朱色のみ。
るらるらと蠢く墨よりも深い表皮をその身に纏いながら、少年はこれまでのそれとは全く異なる昏く、低い声で囁いた。
「……通ラセテモラウゾ」
言葉は一瞬。
刹那、音すら飲み込む衝撃波が、戦場を蹂躙した。




