第2章 昏きに潜む-13
ずるり、と自分から何かが溢れ落ちる感覚があった。
上下すら不安定になるほどの暗がりの中、彼は自らの腹の辺りへ目をやった。
ごぽりとちょうど腹の真ん中辺りから真っ黒な液状のナニカが零れ出している。
おずおずと手を伸ばして、そのナニカに触る。
途端、まるで自分の内臓を触ったかのように全身がびくりと跳ねた。
とてつもない違和感が臓腑を襲う。
普段見ることすら出来ないはずの臓物を、目の前に並べて見させられているかのような、そんな違和感があった。
身体に伝わってくる感触から眼前の漆黒が自らの一部であると錯覚しそうになる。
でも、そんなことは有り得ない。
そんな事があってはならない。
だって人の体内は肉と骨であるはずだ。
怪我をした時に流れ出す体液は大方赤であるはずだ。
それなのに、彼の腹から零れ落ちるナニカは真黒で、にも関わらずソレは彼の一部であるかのように振る舞う。
そのナニカを、自分の身体は自分の一部であるかのように錯覚する。
この状態に違和を感じなければ、何に違和感を覚えれば良いのか。
ふと、気付けば先ほど指で触れた黒は、指先に少しはりついていたらしい。
彼の体内から溢れ出しているのに、どうしてかこの液体らしきソレはほんのりと冷たさすら覚える。
そして、ソレはじわりじわりと広がりはじめていた。
「う、あ……っ!?」
指先をゾワゾワとした冷たさが覆っていく。
ほんの少し触っただけなのにどうしてこの黒い粘液はここまで広がっていくのか。
気付けば、漆黒の冷液は指先から手の甲を越えて既に手首まで届いていた。
じわりじわりとネバネバはゆっくりと、しかし確実に彼の体を覆っていく。
「ひ、ぃあぅ……い、ぁだ……っ!!」
ひぃ、ひぃと喉が鳴るのを感じる。
自分の声が、言葉にならない。
取り払おうと右手で勢いよく払うように手を振るうも、黒水はどんどんと彼の肌を駆け上がってくるどころか、払い落とそうとした右手にさえその黒のナニカは這いずり寄ってくる。
その速度は一気に跳ね上がり、彼の胸元で黒の波濤は合流した。
そしてその漆黒はうねりを上げて彼の喉元へと喰らい付き、あっという間に顔の半分ほどを飲み込んだ。
もはや声を上げることもままならない。
いつしか漆黒の怒涛は指の先から足指の先まですっぽりと包み込み、今まさに彼を消化するように顫動していた。
(何だ……この、黒いのは……!?)
全身をどろりと包み込む漆黒のヴェールを前に、搔きわけるように手を動かしても全く歯が立たない。
ずるりずるりと全身を飲み込むように這い回る真黒を前に、彼は何もできない。
指の先から心の臓に至るまで、全てが漆黒に染められる。
ひんやりとした爬虫類を想起させるような、しかしまるで黒絹のように滑らかな触感のナニカに、少しずつ少しずつ全身を締め上げられていく。
(これは、もし、かして……)
「あなたの予想通りだよ」
いつの間にか真っ黒に染められたはずの視界の中に、純白の肌を持つ何かが現出していた。
汚濁と不浄を感じさせる周囲の漆黒とはまた別格の雰囲気を醸し出す、腰まで届くであろう純黒の髪。
周囲から浮いて見えるほどの、神々しさすら感じるほどに純白の肌。
そして、その体を蠱惑的に彩る黒一色のショートワンピース。
今この瞬間、彼が漆黒に覆い尽くされようとしている事が頭の中から吹き飛んでしまうほどに、その存在は魅力的だった。
「あんた、は……」
「別に質問しなくて良いよ。答えるつもりもないから」
耳も既に覆われているはずなのに、何故か通る声。
鼓膜を震わせ、脳髄に響く、誘惑的な音。
その声音自体は、こちらに対してポジティブな感情は抱いていないだろう事がはっきりとわかる。
それなのに、彼は眼前の少女に引き込まれていた。
自らの心臓が高鳴っていると、自覚できるほどに。
「今は、別に力を貸してあげるよ。今は、ね」
「あんた、いや、おまえ、は……」
「眠りなさい、黒の先導者。今はまだ、あなたのお願いを聞いてあげる」
ふっ、と少女の身体が錯覚したのかと感じるほど刹那の瞬間で、彼の元へとたどり着いた。
その口元に、唇が届きそうなほどの至近距離に。
宵闇よりも深く暗い世界の中、星々の瞬きのように煌めく蒼玉の瞳が、にたりと微笑む紅色の唇が、その奥で蠢く薄桃色の舌が。
目に見える全ての情報が、琉衣夜の全身をぞくりぞくりと舐り回す。
びぎり、と身体がきしむのを感じる。
決して漆黒が彼の全身を締め上げている訳ではない。
むしろその逆。
彼の全身が、彼をその場に押しとどめようとする黒のヴェールを引きちぎらんとばかりに力を発しているのだ。
眼前のあまりにも魅力的な餌を前に、喰らい付かないのは逆に失礼だとでも言うように。
自分の中で、むくりむくりとこれまでほとんど自覚もしていなかったような衝動がどんどん膨れ上がっているのを感じる。
それを自覚すると同時に、彼の中の力も否応なく増していく。
目の前のか細い少女。
誰にも汚されていないだろう、純白の少女。
今のこの場には他に誰もなく、誰も自らを律する者などいない状況。
自分でさえ気付きもしていなかった情動が、ビキビキと力を発していた。
そんな少年を前にして、少女はその肉感的な微笑みをさらに深める。
その指先が彼の胸元をすす、と通り抜けていく。
まるでこちらを促すかのような所作で、さらに内なる熱量が膨らんでいくのを感じた。
桃の唇が言の葉を紡ぐ。
「次に出会う時は、あなたの望みも叶うかもね」
脳内がその声を言葉と認識した瞬間、ぐるりと世界がねじ曲がって消え失せた。
感覚が、意識が、思考が、あっさりと遥か彼方へと消滅する。
「……何だ。何か、変な夢を見たような……」
ズキズキと、自分の頭が痛むのを感じる。
目を開いても周囲の光景は変わらない。
上半身を起こして頭に手をやるも、軋むような痛みは彼の頭にこびりついて離れようとしない。
早く起きてしまったのかと枕元に置いてある携帯を覗き込めば、むしろ十分すぎるほどの睡眠を取った事がわかる時間だった。
「……いつもと違う場所で寝てっから、身体が落ち着かなかったか」
もしくは、昨日静が受けた毒が、時間をおいて自分にも回ってきたか。
ぼんやりと思考を巡らせるも、その可能性は薄いと判断する。
“黒”を全身に浸した琉衣夜の体は、外部から侵入しようとする害有る物に対してひどく敏感に反応するようになっている。
瑠奈との間に結ばれた“破れぬ誓い”も反応していない事だし、昨日の回収時に彼が毒を吸い込んだ訳ではないだろう。
「だとしたら、本当に寝る場所変えたからか……? 俺、そんなに繊細なタイプだっけか……?」
疑問符が留まる事なく浮かび上がる。
せめて夢の内容が思い出せればこの頭の軋みも少しは説明つきそうなものだが、生憎とこの頭は睡眠時の記憶を全て彼方へ放り捨ててきたらしい。
やれやれと溜め息を一つつき、このまま寝転がっていても仕方ないと体を起こした。
ぐぐっ、と伸びをしていると、かちゃりと軽快な音を立てて隣のドアが開いた。
「おはよー、琉衣夜」
「おはよう、瑠奈。眠れたか?」
「……あんまり。静、意外と寝相が悪くて……」
「お、おう。まじか……」
良く見ると普段はあまりついてない寝癖が至る所に見受けられる。
寝相で転がるだけの体力が戻っているならまあ良いと言いたい所だが、念のためと一緒に寝た瑠奈からすれば良い迷惑だろう。
「朝飯にするか。洗面所、先に使うか?」
「うう、お言葉に甘えようかな……。琉衣夜の方は大丈夫?」
「ああ、俺の方は問題ない」
「そっか。じゃあお先〜」
盛大なあくびをこぼしながら瑠奈は洗面所へと向かう。
それを見送ってから、琉衣夜は布団を片して朝食の準備を始めた。
いつの間にか、頭痛は消えていた。
それこそ、知らぬ間に。




