第2章 昏きに潜む-10
「が、あ……」
「ふん、舞踏会はここまでじゃの。もう足腰も砕けておるではないか、おなごよりも先にへばるのは流石に弱々しすぎんかの」
はらはらと宵闇の天から小雨が降り始める。
ペッタリと自分の額にくっつく前髪を鬱陶しげに払いながら、静はそうオイゲンへと囁きかけた。
答えはない。
うめき声はこちらへ届いているものの、それは意味を持った言葉には聞こえなかった。
もしかしたら、朦朧とした意識で何やら夢でも見ているかもしれない。
やれやれ、と嘆息を零しながら静は電話に貼り付けた呪符を起動させる。
通信術式がつながる先は“罪咎の巣”の受付担当だ。
近隣の回収班をよこせと連絡をすれば、十数分でこちらへ到着するらしい。
魔導師といえどその速度で動くのはそれなりにしんどいだろうに、人材が足りない足りないと言いながらある程度のカバースタッフは用意しているのだろう。
……もしかすると、単純に大天使と“黒翼”のバリューネームに引っ張られる魔導師が多すぎるだけかもしれないが。
魔力の放出もすでに一般生活で漏れる程度の量にとどまっている。
意識もすでに混濁している状況であるし、そもそも腰骨を叩き砕かれている状態だ。
体を上下に分断しても良かったのだが、それをする直前でカラスとネズミの猛撃にさらされることになった。
おそらく最後の魔力を振り絞っての攻撃だったのだろうが……それももはや失われた。
流れ出る血と共に自らの首輪も限界を迎えたのだろう。
既にネズミもカラスも三々五々散り散りになり、この場に残る敵の操り人形はいない。
ふう、と一息をつきながら、シャラリと自らの神刀を鞘に収める静。
念のためとはいえこんな殺伐とした現場に身を置き続けるのは、個人的にしたくない。
明日の学校もトレーニングもあるのだから、さっさと終わらせて帰りたい所ではある。
「早く来てくれんかの。あやつがぶちぶち文句を垂れる理由がようわかるわ」
ボソリと、そう呟く。
何かを待っている時の十数分は異常なほど長く思えるものだ。
いっそこのまま帰ってしまおうかなんて考えるものの、回収班が到着するまでに敵方に回収されると面倒ごとになりそうだ。
琉衣夜と瑠奈に電話でもかけて暇つぶしでもしようかと思い、ポケットから携帯を取り出す。
屋上を鮮烈なる風が通り過ぎたのは、その時だった。
「……っ。舞踏会は既に終わっておるのじゃが?」
「承知。潰れた男を回収しに来ただけのこと」
「ほう、これからカップルになるかもしれぬ男女の仲を引き裂くと?」
「良い男ではない。忘却を推奨する」
そう言ってこちらから距離を取ろうとするのは、突然現れた黒ずくめの男性。
……男性、だろう。
声も体格も、女性のそれとは思えない。
マスクとパーカーのフードを深々と被っているせいで、その顔はほとんど見えない。
その瞳が真っ黒なことだけが、かろうじて見て取れた。
その手には、何も握られていない。
だが、その足元には静のすぐ近くで昏倒していたはずのオイゲンが倒れている。
屋上へ静止する際に、ついでに回収されたのだろうか。
「そうもいかん。其奴にはこれから色々と聞くことがあるからの。……返してもらうぞ」
「こちらもこいつの回収が目的だ。返却は不可」
そう答えると同時、男の手が閃光の如く振るわれた。
その手にはいくつかの玉らしきものが握られており、その玉を躊躇することなく屋上の地面へと叩きつける。
刹那、閃光と異様な匂いを放つ煙が放たれた。
「さらばだ」
「ぬぅ、小癪な……!」
人間の平衡機能は中枢こそ三半規管が請け負っているものの、視界が急に潰されるとそのパフォーマンスを一気に削り取られる。
おまけに異臭を放つ煙付きとなれば、敵を追いかけるどころかその場に留まることすら危険と本能が全力で叫んでいた。
舌打ちをこぼしながら、静は全力で後方へと跳躍する。
地面を蹴る時の感触と記憶の中の光景だけを頼りに跳躍距離を大雑把に決めたが、屋上からはどうにか落ちずに済んだ。
聴覚と魔力感覚だけを頼りに周囲の状況を探るも、敵の気配はもはやそこにはない。
どうやら、こちらの動きを止めた刹那の間にさっさと後退したらしい。
時間にして一分ほどだろうか。
ようやく自らの視界が完全に回復するも、やはり気配の通り敵の姿はもはやそこにはなかった。
「……くそ、まんまと逃げられたというのか」
ギリギリと奥歯を噛み締めながら、静はそう吐き捨てる。
刹那、ドクリと自らの心臓が一際強く高鳴り、少女の全身から力が抜け始める。
「か、あ……」
(ま、ずい……さっき逃げる時に、少し、吸ってしもうたか)
吐き気がこみ上げてくる。
万一に備えてがぱりと口を開けて、吐き出したとしても呼吸が確保されるように左手を突っ込む。
フルフルと全身が小刻みに震え、ぐらりとその身が屋上に崩れ落ちた。
(く、そ……携帯は。携帯は、どこじゃ。おとした、か……?)
左手に握っていたはずの携帯が、どこかに消えていた。
おそらく力が抜けた所で落としてしまったのだろう。
視界が少しずつ薄れゆく状態では、自らの携帯を探すことすら難しい。
(不幸中の幸い、は、既に回収班が、向かいつつある、くらいかの……)
崩れ落ちた床は夜気を吸って既にひんやりと冷え切っている。
にも関わらず、自分の体温のせいか全く涼しくならない。
ドクドクと相変わらず高鳴り続ける脈拍だけが耳に響いて、やたらとうるさく感じる。
(ぬぅ……やらかした、か)
その意識が少しずつ闇に堕ちてゆく。
あまりにも甘美な眠りへの手招き。
そのまま誘いに乗れば、二度と戻れないだろう闇へのいざない。
しかし、その誘いを蹴るには、静の全身はあまりにも脱力しきっていた。
「……おい、何やらかしてんだ」
「ぬ、ぅ……?」
不意に、そんな声がかけられるまでは。
うつ伏せに倒れた静の体がごろりと仰向けに転がされた。
と、思った次の瞬間にはその体が再びうつ伏せに戻される。
「何か毒でも食らったか。吐きそうか?」
「い、ぁ……」
小さく頭を縦に振る。
声の主は静の体をすう、と柔らかく上から下へ撫でていく。
刹那、その手から流し込まれた魔力が、静の全身に浸されていった。
調整された魔力が全身に染み渡り、ほんのわずかに静の呼吸が安定する。
「眠たいなら、そのまま寝ちまえ。あとはこっちでどうにかしてやる」
「あ、ぁ……すま、ん……」
「気にすんな、偵察してたとはいえお前を一人で行かせた俺のミスだ」
ぐしゃぐしゃとその頭が撫でられ、ぐいとその全身が抱え上げられる。
静を丸太でも持ち上げるように肩で抱えた琉衣夜は、その場に残された魔力の主へ向けて小さく囁いた。
「……気にすんな。お前の負け分は、きっちりあいつらに払わせてやる」




