第2章 昏きに潜む-9
男は殺すもの。
女は食うもの。
強い人間が全て根こそぎ奪い尽くし、弱い人間は全てかっさらわれる。
勝ちたければ強くならなければならず、負ける奴はただ弱かっただけのこと。
食べるには食い扶持を稼がねばならず、食い扶持を稼ぐには自ら勝ち取らなければならない。
食べることができなくなれば、そのまま野垂れ死ぬ。
助けてもらうことは……まあ、よほどのことがない限り無理だろう。
なにせ自分達の食い扶持を稼ぐだけでも難しい世界があるものだ。
そんな中で、彼—オイゲンは生まれ育った。
母は薬物に溺れていた。
自分の快楽を考えることしかできなくて、食うことよりも薬と性交からもたらされる悦楽を何よりも史上と考えていたらしい。
最低限息子に対する食事は多少なりと思考する余地が残っていたらしいが、息子が自分で食い扶持を探すことができるようになると、その残っていた全てのリソースを己の快楽へ降り注ぐようになった。
父親のことは影も形も知らない。
というよりも、どれが父親なのかおそらく母親ですら分かっていないだろう。
なんせ、薬物でトリップしているままに不特定多数と性交を繰り返していれば、誰に種付されたかなんてはっきりとわからないに違いない。
そう笑っていたのは、うちのボロ屋の近くを縄張りにしていたジジイだ。
まあジジイが言っていることも納得だ。
なにせ物心ついた後に我が家に帰れば、聞こえてくるのは嬌声か譫言だ。
母親のことなんて見ないようにしたいところだが、そもそもボロの平屋にトイレ以外の仕切りなんて存在せず、母親が昨日とは違う男に股を開いている姿かトリップして虚ろな目をしている姿のどちらかを見ることになる。
そんなこともあって、彼が家に寄り付かなくようになるまではそれほど時間がかからなかった。
母親の庇護を期待するよりも、自分で食べ物を確保する方がよほど確実なのだ。
おまけに家に帰ると一定確率で怒れる男性の拳骨が待っている。
一般人の庇護欲を煽るのに青あざはある程度の効果はあるが、痛みと動きにくさを天秤にかけて考えるとなるべく作りたくはない。
だからこそ、彼は同い年の少年少女が小学生に通い始める頃には、既に擦り切れた価値観と饐えた思考が備わっていた。
周囲の人間は利用し、騙し、喰らい潰すもの。
そんな前提の元に生活をしていれば、まともな人間が生まれるわけがない。
母親が亡くなった時も、彼の心は大して揺らがなかった。
むしろ、これは使えると確信したくらいだ。
貧民エリアで生まれ育ち、父を知らない子供。
頼れるただ一人の親戚であった母親を失い、身寄りのない無力な子供。
現代において、頼れる者のなき子供は弱者だ。
この属性を、使わない理由はない。
時を置かずして、オイゲンは孤児院に拾われることとなった。
それなりに整った見た目とそこそこ優秀な頭脳を備えていたのが、自分によっては幸いだった。
最低限の知識を蓄えられる能力と、周囲に嫌われないだけの魅力。
それだけの能力があれば、ある程度の境遇まで自分を持っていくことは出来る。
無論、それが世間的に良い境遇とは限らないが。
「おやおや、この辺りは決して治安が良いとは聞いていませんでしたが……君のような子がいれば当然でしょうねぇ」
「……誰だ、あんた」
「初対面の相手には敬語を使うものですよ、そんなことを教えてくれる職員もいなかったのですか?」
身なりは随分と整った、白衣の男はイタリア訛りでそう言った。
恐ろしく胡散臭い、貼り付けたような笑顔を浮かべた男を前に、オイゲンは警戒を緩めることができずにいた。
夕方の路地裏。
後ろには自分の配下も何人かいる状態であるにも関わらず、眼前の金髪メガネは一切臆することなくそんな言葉を投げかけてくるのだ。
白衣の下に隠されているのはナイフか、拳銃か。
そこまで想定するほどに、眼前の男はこれまでの常識とは一線を画す雰囲気を醸し出していた。
「……俺のことを知ってるのか」
「ええ、知っていますとも、リヒャルト・オイゲン君。君のような優秀な人間を、私は探していたのですよ」
「優秀な人間、だと?」
「その通り。ぜひ私の組織に招きたいのですよ。少し時間をもらっても?」
「興味ねえよ」
「そうですか? であればわざわざこんな組織を作ることもないでしょう。君は自分の優秀さを理解しているはずだ」
そんなことを言いながら、男はこちらへ悠々と距離を詰めてくる。
その異様さにオイゲンは圧倒される何かを感じていたが、配下の低脳達はそんなものを感じるだけの能力はなかったらしい。
「いやいや、あんたそもそも誰に話をしようとしてるのか、分かってんの?」
「敬語とかえらそーなこと言ってっけどさぁ」
そう言って、配下達が金髪へ群がろうとする。
「やめろ」と止めようとしたが、しかし制止するには遅すぎた。
「例えばですが、私についてくればこういうこともできるようになりますよ」
そう男が囁いた瞬間のことだった。
一陣の風がその場を吹き抜け、金髪メガネに因縁をつけようとしていたオイゲンの配下をまとめて吹き飛ばしてしまった。
「な、何を……っ!?」
「別段驚くようなことでもありませんよ。仕組みが理解できれば、君にも出来るようになります」
「お、俺がこれを……?」
眼前の光景に驚愕の色を隠せないオイゲン。
それに対し、金髪の男は飄々とした調子を崩さないまま吹き飛ばした配下達へと歩み寄っていく。
「本当はこれのような魔力はなるべく混ぜたくないのですが……ふむ、素材としては使えなくもないか」
そう言って男は白衣の内側から黒々とした球を取り出した。
見つめれば見つめるほどに吸い込まれそうになるほどの引力を感じるそれ。
何から何まで初めての状況に戸惑っているオイゲンの前で、さらに自らの目を疑う事態が発生する。
ぞるり、と息も絶え絶えな配下の男達が、漆黒の宝珠へと飲み込まれていったのだ。
数人いたはずの、それなりの大きさがあるはずの男達が、あっさりとこの世から消失していて。
さっきまでここにいたはずの痕跡は、いつの間にか消滅してしまっていた。
愕然としているオイゲンの表情を見て、金髪メガネはにっこりと微笑む。
「さて、これで君を縛るしがらみはあの孤児院だけですね。それに、君は別にあの孤児院に対した繋がりは感じてないでしょう?」
「……なんで、俺を選んだんだ」
「偶然ですよ、ただの偶然。あの孤児院はもともと我々の組織の傘下にあるものでしてね。身寄りのない優秀な人材っていうのは、それなりに使いでがあるのですよ。少なくとも、先の素材にしか使えないクズどもよりは」
まあそれでも、と金髪メガネは笑いながら言葉を続ける。
「もし君がこちらへ来ることを望まないのであれば、別にそれでも構いません。記憶の処理はさせてもらいますが、君ぐらい優秀な人材なら表でも普通に活躍できるでしょう」
……嘘だ。
それは、十代前半をようやく越えた自分でもわかる。
確かに自分はそれなりにできるかもしれない。
でも、それなり止まりだ。
孤児院から通える学校で見ているだけでも、それは理解できる。
恵まれている者、恵まれない者。
手に入れられる者、手に入れられない者。
自分がどちらに属しているのかなんて、冷静に見据えれば理解できる。
自分は紛れもなく手に入れられない者だ。
積み上げることはできるはずだ。
しかし、それでもそれなり止まりだろう。
それだけは自分でも優秀だと理解できているからこそ、分かってしまう。
「ですが、君がもし望むなら私達の組織で学ぶことができる。表の世界では決して習得し得ない技術を得て、表の世界では掴み得ない能力を得られるでしょう。君くらいの実力者なら……まあ、それなり以上の地位を築けると思いますよ」
需要と供給が見合っていない状態ですしね。
そう、眼前の金髪メガネはこちらへと手を差し伸べてくる。
「君が望むなら金も、地位も、有り余るほど手に入るでしょう。もちろん、相応の努力は必要ですが」
眩しい。
そう、感じた。
自分に差し伸べられたその手が、まるで天使の助けに見えるほどに。
「……本当に、できるのか」
「ええ、恐らくは」
「食うのにも、困らないんだろうな」
「その程度であれば、十分以上に稼げるでしょうよ。むしろ、食うだけならほとんど困りませんよ」
「……わかった。連れて行け」
「良いでしょう。それでは、話をしに行きましょうか」
目の前に立つ男の手を取り、オイゲンはその背を追うことに同意する。
今の状態を続けても、その先にはそれなり以上の世界はない。
なら、普通から外れるのも一つの手だ。
そう自らの意思で、選びとって。




