こんばんは
つい数秒前まで、世界を裂くような音を立てて渦巻いていた風はどこかへ消え、再び教会に静寂が戻る。もうそこは、深い海の底のように静かだった。
月にかかっていた雲も晴れ、天窓からは再び透き通るような月の光が差し込んでくる。
やわらかな光にヴェールに包まれ、レイとハルカのシルエットが浮かび上がる。
二人はお互い強く抱きしめ合っていた。
レイはハルカを隠すように、ハルカはレイの中でさらに体を小さくして離れまいと必死に制服の裾を掴んでいる。
突風が収まったことに気がつくと、ほっと胸をなでおろした。
「…レイ、だいじょうぶ?」
レイの胸の中から、苦しそうなくぐもった声が聞こえてくる。慌てて腕の力をぬいた。
「平気。ハルカこそ、大丈夫?」
ハルカの肩に手を乗せたまま、問い返した。
「うん、大丈夫。ありがとう」
二人は目が合うと、息と吹き出し小さく笑った。
すると、緊張の糸がぷつんと切れたのか、腰がぬけ床にぺたりと座り込んだ。
きょとんとするお互いの顔があまりに間抜けに見えて今度は声を上げて笑う。
「はー、笑いすぎておなかいたい」
ひとしきり笑ったあと、レイは床に手を置き、天窓を見上げる。
そのときだった。
空気が水に沈んだかのように、大きく波打った。
世界から音が消えた。
インクを垂らしたような鮮やかな藍が、教会をゆっくりと染めていく。
「な、」
レイの言葉は続かなかった。
その音が発せられるより先に、自分の右手が触れている床に文字が浮かび上がったのを見た。
「いや!」
手を触れているのが恐ろしくなって、咄嗟に腕を振りあげた。
「レイ!」
床の文字は青白い閃光を放つと大きく弾け、宙に霧散した。
散り散りになった光の粒は互いにぶつかっては、火花のようにパチパチと瞬き、空を漂い教会全体を星空に変えていった。
星屑のような輝きは意思を持つかのように動き出し、レイの右手に集まる。
「何、これ…」
咄嗟に右手を握り込む。光の粒は、更に輝きを増して、軌道を描き出した。
(痛くは、ない。熱くも、冷たくも、ない)
自分の腕ではなくなってしまったような感覚に陥り、確かめるように自分の手首をぎゅっと握る。
(――でも、止まらない…)
自分を掴む手に力がこもる。
「レイ」
少しだけ、クレープの甘い香りが鼻腔を撫でた気がした。
ハルカは、ゆっくりとレイの手に自分の手を重ねる。
「大丈夫だよ。レイの手、ちゃんとここにあるから、大丈夫だよ」
ハルカはレイの手をやさしくほどいていく。
はっと自分の腕を見ると、手首にくっきり握り込んだ手の跡が残っていた。
「…レイ、怖い?」
レイは口をつぐんだ。
震える右手をじっと見つめ、小さく息を吐く。
「…わかんない」
その声は自分でも驚くほど弱々しかった。
「そっか」
それだけ言うと、ハルカはかたかたと震えるレイの手を蛍を捕まえるように包み込んだ。
じんわりとハルカの体温が伝わってくる。
「私の手、あったかい?」
ハルカの両手の隙間から光が見え隠れしている。
本当に蛍になってしまったみたいだ。
「…うん。子ども体温」
「あ、そぉいうこという」
ハルカは頬をふくらませる。
「冗談。…安心する」
相変わらず光はとめどなく溢れ、軌道を描く星の粒はレイのことなどお構いなしに手の周りをくるくると回っている。
それでも、レイの表情はほぐれていった。
「うん、良かった」
レイの顔を見つめ、ハルカも安心したように笑った。
二人は床に座り込んだまま、光を目で追う。
(さっきまでは、そんなこと考える余裕なんてなかったけど、)
「…きれい」
「うん。私こんなに星に囲まれたこと、生まれて一度もないよ」
二人の瞳もその煌めきを閉じ込める。
それから思い出したようにハルカは口を開く。
「ねえ、レイ。実はね、あっち、あそこから声が聞こえてきてるの」
ハルカはおもむろに立ち上がると、祭壇の方を指さす。
世界を塗りつぶす夜のインクは次第に溶けていき、いつの間にか祭壇はその輪郭を現していた。
「誰かいるの?」
レイもゆっくりと腰を上げる。ハルカの視線の先をなぞり、祭壇へ目を向ける。
「うん」
確かにうなずく。
その言葉と同時に、ふわりとまろやかな風が二人を包む。
教会の中にいるはずなのに、誰も触れていない祭壇の敷布が小さく揺れる。
レイはまた何かが起きるのではないかと、わずかに体をこわばらせ、身構える。
ハルカは、目を細め、優しく微笑んだ。その視線の先は、祭壇の少し上。
「こんばんは」
レイは思わず息を呑む。
「…ハルカ?」
返事はない。
ハルカはただ、そこにいる『何か』を見つめていた。




