幸せなのは、こっちのほう
放課後になると、広いグラウンド上で走り込みをしたり、試合形式の練習をしたりと部活動に励む生徒たちの声が盛んになる。そんな青春を横切り、二人は校門をくぐる。住宅街へ続く夕暮れの坂道には、二人の足音だけが響いていた。夕方の風は、昼間よりも少し冷たく、制服の裾をゆっくりと揺らしている。中腹に差し掛かると、ハルカは大きくため息をついた。
「タケちゃんってば、本当に容赦ないんだから」
「寝ちゃった私たちに非はあるんだし、しょうがないよ」
午後の授業を寝て過ごした上に、そのまま移動教室をすっぽかした罪は想像以上に重かった。
「タケちゃんってば、自分は職員室に残って仕事して、うちらに『あれ持ってこい、これ持ってこい』ってさあ」
指を眉間に当てて、ぐいっと細い眉を寄せると、できる限りの低い声で言った。
「それ、先生の真似?」
「そう。似てない?」
「似てない」
ばさりと切り捨てるような一言にハルカは残念そうに笑う。
「厳しいなあ」
下り坂に差しかかった頃、レイは歩調を緩めた。先を歩くハルカの背を見つめる。喉に引っかかった言葉を紡ごうかどうしようか悩み、わずかに唇を揺らす。
「――昨日のことだけどさ」
レイは一歩踏み込んで口を開いた。
「ん?」
ハルカは首をかしげ、半歩後ろのレイを振り返る。
「昨日、やっぱりなんか言ってたよね」
ハルカの足が止まった。
「え?」
「風のとき」
返事はない。ハルカは少しだけ視線を落とす。それを見て、レイはしまった、と思った。どうして自分がそこまで、昨日のハルカの行動にこだわるのか、わからなかった。ただ脳裏に焼き付いたハルカの姿が、遠くに行ってしまいそう不安になったことだけは確かだった。
「……」
二人の間に沈黙が落ちる。時間にしてほんの数秒のことだったにも関わらず、永劫の中に沈んでいくかのようだった。遠くを走る電車の音がやけに大きく聞こえた。
「――笑わない?」
「笑わない」
ぽつりとハルカが口を開いた。昨日何かを映していた彼女の瞳は、レイの視線を外すように左右に動いている。
「なんか、変なんだよね」
「何が」
「風、なのかな」
ハルカは自分でも考えがまとまっていないようで、少しずつ言葉を続ける。
「昨日の魔法の話の続き?」
「違うの。全然魔法とかそういうのじゃなくて、なんていうか、すごい感覚的な話なんだけどね」
言葉を探すように、空を見上げる。黄昏の風が、ハルカの髪をすくい上げ大きく揺らした。ハルカは亜麻色の瞳を瞼の裏に隠すと、数歩前を歩く。レイもゆっくりと後を追う。
「例えば、ここ」
ぬるい風が二人の足元を抜けた。
「ほら、この風」
ハルカはゆっくりと目を開く。
「なんていうんだろ。告白して振られた…みたいな。そんなもやっとした感じ」
「私に聞かないでよ」
語尾をあげて、小さく首をかしげながら言うハルカに、レイは思わず苦笑した。
「レイならわかるかな〜って」
えへへ、とハルカは頭をかいて笑った。その笑い方を、レイは知っていた。
ハルカは困っているとき、誤魔化したいとき、少しだけ傷ついているとき、こうして笑うのだ。
「ハルカさ、そういうこと」
レイが口を開くと、ハルカの肩がぴくりと揺れた。
「そういうことっていうか、魔法の話もさ、私以外に言わないよね」
その言葉にハルカは目を丸くし、それから静かに目を伏せて「……うん」とつぶやいた。
「なんで?」
レイは飲み込めなかったその言葉に、意地が悪いなと自嘲っぽく笑った。
「『変なやつ』『馬鹿じゃん』って言われるの、嫌じゃん。まあ、馬鹿は否定できないんだけど……」
ハルカはまた笑う。いつもの明るい笑顔だった。しかしその奥で、ほんの僅かに影を落としていた。
「高校生になって、気づいちゃったっていうかさ」
風が二人を優しく包む。木々が揺れさらさらと音を立てた。レイはしばらく黙ったまま歩き出した。ハルカも少し遅れてそれに続く。そして、レイは徐ろに口を開いた。
「別に言わせとけばいいじゃん?」
「え?」
「その、『さみしい風』ってやつ。ハルカにしかわかんないんでしょ」
「……うん」
「だったら、別にいいじゃん」
レイは足を止めて振り返る。
深い藍で縁取られた紺色の瞳は、色素の薄いハルカの瞳をまっすぐ射抜いた。
「ハルカにはわかるんでしょ?」
夕日が二人の影を長く伸ばしていた。
「それでいいじゃん」
しばらくして、ハルカは小さく笑った。
「……レイって、たまにすごいこと言うよね」
「たまに?」
「ううん、いつも」
夕暮れの空には、いつの間にか藍が混ざり始めていた。ぽつりぽつりと空に白く輝く星が姿を見せる。
夜風をはらんだ空気はわずかに冷たく、それでいてどこかやわらかかった。
「はあ、すっきりした!」
ハルカは大きく両腕を伸ばした。ついさっきまで沈んでいたのが嘘のような、晴れやかな顔。
「びっくりしたなあ、もう」
突然大きな声をあげた彼女に、レイは呆れ顔で返す。ハルカはえへへ、と笑った。
「ありがとう、レイ」
そう言って、ハルカは振り返る。
わずかに残る夕陽の残光を背に笑うハルカは、眩しいくらいにまっすぐだった。
「レイに会えて、幸せだよ」
一瞬、時間が止まった気がした。
『……レイって、たまにすごいこと言うよね』
脳裏でハルカの鈴のような声がこだまする。まるで愛の告白のようなハルカの言葉にレイは視線を逸らした。
「自分だってそうじゃん……。ほら、今日は駅にできた新しいクレープ屋、行くんでしょ」
「あっ、そうだった!」
ハルカはぱっと表情を明るくした。
「シュガーバターだけっていうのがいいらしいんだよね。楽しみだな〜」
軽い足取りで歩き出すハルカの背中をじっと見つめる。
(まっすぐで。危なっかしくて。どうしようもなく、目が離せない)
「……幸せなのは、こっちの方」
そんな小さなつぶやきは風にさらわれて、消えていった。
「レイ!はやくー!」
少し先でハルカが大きく手を振っている。
「はいはい。今行く!」
レイは夕焼けの影に隠れてひっそりと微笑むと、跳ねる背中を追いかけた。




