エストレア高等学校
重厚な鐘の音が木々を揺らし響きわたる。
エストレア高等学校の予鈴の音だ。歴史を感じさせる音に似合わず、学校の周りは住宅街や商業施設が立ち並ぶ閑静な地域だった。しかし、それでもこの鐘の音は必要不可欠なもので、エストレア高等学校は豊かな緑に囲まれており、小さな森林を挟んで隣の敷地には中等部が併設されているのだ。その広大な面積を誇るエストレア高等学校は、幾度となく補修工事がされているものの、校舎から頭二つ突き出して君臨しているステンドグラスの施された鐘楼は当時のまま残されている。数年前に歴史的価値のある建造物と認定されて以来は、自由に出入りできた鐘楼も限られた職員と生徒しか立ち入れなくなったという。
そんな歴史ある学園に、弾むような声が突き抜けた。
「ギリギリセーフ!」
肩で息をしながら、ハルカが叫ぶ。額に汗をうっすら浮かべ、わずかに紅潮した頬にぺったりとついた紙を払った。そんなハルカの上から雷のような怒号が落ちた。
「なにがセーフだ。ギリアウトだろうが」
腰にジャージを巻いた筋骨隆々の男性教師は、青筋を立てながらも呆れたように返した。ハルカと並ぶ様子はさながら巨人と子犬のように見えるだろう。
「タケちゃん厳しいってば。いいじゃん、門が閉まる前に入ったんだから!セーフでしょ」
タケちゃんと呼ばれる男性教師の巨躯などお構いなしに、頭から湯気が立ちそうな勢いでハルカは抗議した。
「生徒が走って滑り込んでくるところを、勢いよく閉める教師がどこいるんだ!まさか、それをわかってわざと遅れてきてるんじゃないだろうな……」
「え!?そんなことないよ!そりゃあタケちゃんは怒ったら鬼みたいに怖いけど、根は優しいのわかってるから目の前で閉めるなんてことしないかなあ〜なんて思ってはいるけど……それを当てにしてるわけじゃないからね!うん」
論点が思いがけない方向へ転んでいき、しどろもどろになりながらも思いの丈をぶつけはじめるハルカを見つけ、少し前に敷地に足を踏み入れたレイが戻ってくる。
「……ハルカ、行くよ。本鈴鳴ったら今度こそほんとに遅刻になるんだから」
いつまでも頬を膨らませているハルカの襟をつかみ、レイはタケちゃん――体育教師のタケルに軽く会釈をして歩き出した。
ずるずるとレイに引きずられながらも、ハルカはまだ不満そうに口を尖らせている。
「絶対絶対セーフだったよね!?」
レイもそう思うでしょ、と半ば強引に同意を求めてくるハルカ。
「はいはい。セーフセーフ」
レイは呆れ返ってぞんざいな肯定の言葉を返した。ハルカは、そんな雑な返事にさらに口を尖らせていくのだった。
石畳の道を暫く歩き、レイは一度立ち止まる。
「……。ねえ、ハルカ。いい加減重いんだけど」
ハルカを引きずる手は、いつの間にか襟から鞄の紐に居場所を変えていた。その姿はまるで手綱を握る飼い主のようだ。
「はあい」
よいしょ、と呟きながら、ようやく自分の足で歩き始める。二人は昇降口に入ると、並んで廊下を歩いた。少し歩くとハルカが思い出したかのように口を開く。
「そういえば、この学校の名前って変だよね〜」
「ああ、エストレア?」
「うん、意味わかんなくない?」
「私も入学式の式次第を見たとき、受ける学校間違えたな、と思った」
「いやいや、受験するときに気づくでしょ」
「まあ、その時は学校なんてどこでもよかったし」
「ふうん。でも、こうして同じ学校になれて今年も同じクラス、私は最高にツイてるね!」
ハルカは、指で大きくブイを作った。口元だけわずかに上げて、満更でもないような顔をするレイは、それを隠すかのように冷静に返す。
「たしかに。でもそれ、テスト前に言うこと?」
レイがじとっとした目を向けると、ハルカはばつが悪そうに身体を揺らした。
「テスト前だからだよ〜」
雑な現実逃避である。
そうしてテスト範囲や、昨日寄り道したお店、SNSで見つけた新しいカフェなど他愛もない話をしているうちに教室へ着いた。
扉を開けると、始業のチャイムの直前だからか、ほとんどのクラスメイトはすでに教室で思い思いに過ごしていた。テストに備えて席で勉強する者もいれば、その一方で全て放り投げ楽しそうに談笑している者もいる。それらを横目に、「おはよ〜」と、手をひらひらと振りながら、ハルカがクラスメイトに挨拶をする。レイも、それとなく合わせて軽く挨拶をする。
レイの席は窓際の後ろから二番目。ハルカは、その斜め前だった。鞄を机の横に掛けると、ハルカは筆箱だけを机の上に置いた。
「ほんとハルカって律儀だよね」
「だって〜。クセなんだもん」
「筆箱出すのが?」
「もう、レイのいじわる!」
その瞬間、始業のチャイムが鳴った。
「ほら席つけー、出席取るぞー」
教室に入ってきたタケちゃんが、いつもの大きな声を響かせる。
「タケちゃん声大きいってー」
「マジでうるさ〜い」
けらけらと笑いながら女子たちから野次が飛ばす。言葉とは裏腹に楽しそうなのは、教員への信頼の表れなのだろう。
当の本人はそんなことを気にも留めず、出席簿を開いた。それが彼の慕われる所以なのだろうと胸の内でつぶやきながら、レイは見た目に反し淡々と朝会を進める担任を一瞥すると、グランドに視線を落とした。
*
「終わった〜〜〜〜!!」
「完全にヤマが外れた…」
「お昼食べ行こ〜」
テストが終わり、昼休みの始まるチャイムが鳴った。
教室からぞろぞろと生徒が出ていき、気づけば教室にはハルカとレイだけが残されていた。
レイは机の上を手早く片付けながら、ハルカの席へ目を向ける。ハルカはテスト開始から十分ほど経った頃には、すでに机に突っ伏していた。
(あの様子じゃ、さすがに今回は呼び出しか)
「ハルカ、起きて。昼休みだよ」
腰に手をあて、ため息交じりに声をかける。その声に反応するように身体はもぞもぞと動いたが、すぐにまた静かに寝息を立て始めた。
「…いい加減、置いていくよ」
しびれを切らしたレイは、ハルカの肩を大きく揺らした。
「…も〜、レイ…私は今世紀最大の悪を滅ぼそうと、世界を奔走する勇者だよ?…そんな私に向かって…すう…」
「もう、起きてるのはわかってるよ。どうする?これ以上続けるなら、本当に置いていくよ」
その言葉を聞いた途端、ハルカはがたっと音を立てて立ち上がった。
「はい、ばっちり目が覚めております。レイ隊長、どこまでもお供します」
ハルカはぴんと腕を伸ばしてから、右手をぴたりと額の前に止めて敬礼してみせた。
「ほんと調子いいんだから」
「お兄の特製弁当だよ!一緒に食べよ」
エストレア高等学校の食堂はガラス張りになっており、テラスも併設されている。昼休みになると、食堂と呼ぶには美しすぎる場所で昼食をとろうと生徒がごったがえしている。
二人が出会った一年生の当初は憧れもあり、食堂で昼休みを過ごすことが多かった。しかし今では、秘密基地を探すように、誰もいない二人だけの『食堂』を見つけることも楽しみの一つにしている。
今日は出遅れたこともあり、よく使う中庭の木の下に向かった。
きらきらと光る木漏れ日が落ちた芝生の上に、二人は腰をおろした。
ハルカは毛先と似た色のピンク色の包みを、レイに渡されたものは、昔ハルカの兄が使っていたという水色のものをそれぞれ開いた。
「わ、おいしそう」
蓋を開けるなり、ハルカは声を上げる。
「ハルカは毎日食べてるんじゃないの」
「それでもおいしそうなものに、『おいしそう!』っていうのは、大切なことなんです」
ハルカは子猫のように小さく歯を見せて威嚇した。軽口を叩くレイだったが、目尻を少し下げるとハルカを見つめる。
「いつも私の分まで用意してもらっちゃって、ほんとに大丈夫なの?」
「いいのいいの。『あのハルカに友達ができたんだって?こりゃあお兄ちゃんが腕によりをかけて胃袋を掴んでおかねば』って張り切ってたから」
兄の真似をしているのだろう。肩を大きく揺らして腕まくりをすると、ぶんぶん腕を振った。
「ハルカ、お兄さんにどう思われてるの……ていうか、何、むしろ怖いんだけど。お兄さん彼女いるんだよね」
「一昨日別れてたよ」
「……あ、そう」
「『彼女を一番に考えられないなんてひどい』って泣かれたらしいよ」
ハルカの兄は二人と同じくエストレア高等学校を3年前に卒業し、今は大学に通っている。ハルカと同様に明るく、そしてハルカ以上に気遣いをするために生まれてきたような人だった。しかし、それを上回るほどの長所であり欠点が『それ』だ。
「今度またハルカの家、お邪魔しに行くね。ちゃんとお礼言わないと」
「だからほんとに気にしないでってば!」
二人だけの昼下がり。穏やかな風が木々を揺らしていた。
お腹いっぱいになった二人は、仲良く午後の授業を寝て過ごし、見事に屈強な体育教師タケちゃんに呼び出しをくらった。




