おかえり
「あ、じゃあ、私ここで降りるね」
「うん。また明日!」
胸の前で小さく手を振るレイに、ハルカも同じように振り返す。レイが電車を降りるまで目で追いかけ「がんばれ」と唇だけを震わせた。
改札を出ると人はまばらになった。急に静かになった夜の街を見つめ、レイは歩き始めた。
(……別に、会いたいわけじゃない)
心の中で自分に言い訳を重ねる。しかしその足は、少しずつ歩調を上げていた。
(ただ、ちゃんと顔を見て話せる日が珍しいだけ。……それだけだし)
マンションの前に着き、エレベーターを待つ。自分の家のドアの前で一度立ち止まり、乱れた呼吸と制服の襟元を整えた。鍵を回して、静かにドアを開ける。
「……ただいま」
いつも暗い玄関は、電気がついていて明るく、夕飯の香ばしい匂いが胸を満たした。
「あ!おかえり〜レイ」
開けっ放しのリビングのドアから顔を出したのは、いつもの派手なメイクや髪型ではなく、長い髪を簡単に一つにまとめて、控えめな部屋着を着た母親だった。お玉を手にして、柔らかく目を細める。
「急いで帰ってきたの?汗かいてるじゃない」
レイがゆっくりと歩いてリビングに向かうと、その額を指さして言った。
「……別に、普通に歩いて帰ってきたし」
レイは澄ました顔で答える。自室のドアに手をかけてキッチンに振り返る。
「……今日、休みだったんだ」
「そうなのよ。久しぶりにレイと夕飯食べたくてね。ほら、もうすぐできるから支度してきて〜」
レイは小さく「うん」とだけ返事をし、部屋のドアを開けた。ぼすん、と床に荷物を置き洗面所に向かう。
手を洗いながら、鏡に映る自分の顔を見る。どこか浮き足立っているような表情が、ひどく恥ずかしく思えた。
食卓にならべられたのは、肉じゃがと味噌汁、それと少し焦げた卵焼き。二人きりの食卓に座ると、嬉しそうに目を輝かせて、レイに話し始めた。
「ねえレイ、聞いてよ。お母さんね、やっぱりいつか自分の小さなお店を持ちたいのよ。お昼は美味しい紅茶とケーキを出して、夜は静かにお酒が飲めるような、そんな場所。……あ〜レイともお酒が飲みたいなあ」
「……またその話?」
レイは箸を動かしながら、小さくため息をついた。
「今の仕事だって大変なんだから、無駄遣いしないで現実みなよ……私を学校に通わせるあけでギリギリでしょ」
「レイが奨学生だから学費払ってないもーん。もう、相変わらず夢がないんだから。いいじゃない夢を見るくらい」
頬を膨らませたり、ふふと笑ったりしながら、肉じゃがをレイのお皿に添える。
(……いつだってそう)
レイは柔らかい肉じゃがを咀嚼しながら、母の手元に視線を落とした。
理想ばかり語って、現実の苦労から目を背けているような母。自分がしっかりしなきゃと焦らされるたび、胸の奥に小さな苛立ちが募る。
(……でも)
マメに手入れをしているその指先も、長年の苦労の色を隠せずにいた。視線を上げてじっと顔を見つめると、いつもは化粧で隠れている目元のクマが薄っすらと残っているのがわかる。
(女手一つで育ててくれてるんだもんあ……)
「……焦げた卵焼き、味は普通だね」
「あ〜ひどい!」
むくれる母を見て、レイはほんの少しだけ口元をゆるめた。




