幕間:あなたがどこへ行こうとも
「シエラ様!」
背後から絨毯を駆ける足音と共に、私を呼び止める声がしました。
「シエラ様、お待ちください」
私が立ち止まると、目の前に立ち肩で息をする彼と目が会いました。その象牙色の瞳は私の奥を見ようとしているようで、つい目を逸らしてしまいました。
「……エリオ、これまで不甲斐ない私を支えてくれてありがとう。身体には気をつけてくださいね。……ああ、でも私より美味しい料理を作りますものね。心配いりませんでしたね」
いつになく下がよく回っていることに気づいていたものの、それを止める術を私は知りませんでした。
「シエラ様、」
「ああ、ええと、そう。本をいくつか差し上げますね。とても勉強になるものがあるのですよ。ほら、エリオも歴史を学びたいと言っていましたよね」
私は自分の長い礼服の裾とわずかに顔を出すつま先を交互に見やり、何か話せることはないかと次の言葉を探します。すると、エリオが肩を優しく揺らしました。
「……シエラ様、聞いてください」
それまで顔を上げられずにいた私を覗き込むように、エリオが腰をかがめていました。
私の瞳は彼に射すくめられてしまいました。
「シエラ様、私はあなたの補佐ですよ」
「え」
思いがけない言葉に私は耳を疑いました。
「中央大聖堂の司祭シエラの補佐ではありません。立場など関係ない、シエラ様の補佐をしていたいのです」
「……そんな、それはあなたの道を閉ざす行為になるかもしれないのですよ」
自分の声が震えていくのが伝わってきました。そんな私に構わずエリオは答えてしまいます。
「それでも構いません」
迷いのない、まっすぐな返事でした。
「エリオ――」
続く言葉が泡沫のように弾け、うまく紡ぐことができずにいると、肩を支える手にわずかに力がこもるのを感じました。
「何を言われても、これだけは譲れません」
「……っ」
彼の瞳に映る私の顔は、溢れてくるものをこらえようとして、それは情けないものでした。
少し前まであった喉の奥の苦さは、いつの間にか消えていました。
「どこへ行こうと、お供いたします」
身体中から温かいものが湧き上がるようでした。それは一つ一つ雫となってぽたぽたを床を濡らしていきます。
エリオはその雫をそっと指先ですくうと、小さく微笑み言葉を続けました。
「……東方でも、最果てでも。あなた征くと言うのであれば――地獄でも」
聖職者らしからぬ思いがけない言葉を聞いて、笑いが込み上げて来ました。
「ふふ、私たちが行くのはきっと主のもとですよ」
エリオは目を丸くすると、少し視線を逸らしました。
「言葉の綾です…」
さっきまであんなに凛然としていたはずなのに、子どものように顔を背ける姿がおかしくて、愛おしくて、私はもう一度小さく笑いました。
「ありがとう」
今度は私がエリオの瞳を捉えると、ようやく彼も安心したように笑顔を見せました。
「さあ、早速荷造りをいたしましょう!」
そういつもの調子を戻すと、私の横に立ち歩き始めました。
「まあ、旅行に行くみたいね」
二人で並んで長い廊下を歩きました。
「シエラ様とであれば、どこにいても楽園ですから」
「あらまあ……」
差し込む午後の日差しが、柱にあたり床に影を落としていました。
*
私たちに与えられた部屋は、驚くほど静かに迎え入れてくれました。
少しずつ集めていった写本に瓶詰めにしたハーブ。古びたローブと盃や燭台などの祭具。
「さて、まとめていきましょう」
えいや、と長い袖をまくる仕草をするとエリオが慌てて駆け寄りました。
「シエラ様おやめください。私の目には猛毒です」
エリオは、すらりとした手を顔の前で振っていました。
「もう……いい加減慣れてください。エリオも自分の荷物をまとめるのですよ」
荷物を運ぶときに使っていた木箱を見つけると、薄く被った埃を払いました。
「う……。申し訳ありません……」
肩を落としながら歩くエリオをよそに、本が傷まないように気をつけながら丁寧に詰めていきました。
荷造りを始めてわずか数十分程度で、見事に部屋は片付きました。私たちの横には一箱の木箱とトランクが二つ。
「思ったより、少ないですね」
「必要なものだけで十分ですから」
エリオは、住み慣れた部屋を眺めていました。
――もう、戻ることはないでしょうね。
胸の中でつぶやきました。それでも、不思議と未練はありませんでした。
「この場所は、変わってしまいましたね」
私は思いがけない言葉に聞き返すと、エリオは少しだけ困ったように笑いました。
「……いえ」
部屋をもう一度見渡し、小さく息をつきます。
「荷物に忘れ物がないか、もう一度確認しておきましょう」
そういって、彼は話を切り替えると鞄へ視線を落としたのでした。




