幕間:懐かしい話
レイが赤い本を見つける前、シエラは机に腰掛けて、二人を見守っていた。
ハルカは本棚の間を歩き回り、レイは一冊一冊丁寧に背表紙を目でなぞっている。その様子を見て、シエラは小さく笑う。
「懐かしいですね」
エリオが首を傾げる。
「何がです?」
シエラは本棚に目を向けたまま、「昔の私たちに似ていませんか?」と笑う。ほんの一瞬だけ、表情が遠くなる。
エリオはわずかに視線を落とした。
「そう、ですね」
ふっと、息をついて続ける。
「……お茶でも淹れて参ります」
「ありがとうございます」
シエラが微笑むと、エリオは目を細め、席を立った。
音を立てずに閉まる扉を最後まで見送ると、シエラは、そっと右足へ手を添える。本棚を見つめる目を静かに閉じる。
冷たい石の床、古い本の匂い、紙をめくる音。
それらが、遠い記憶を呼び起こしていく。
【幕間:シエラ】
――あの日も、相変わらず古い本の匂いがしていましたね。
古い本には、不思議な効力がある、私は書庫にいる時間が好きでした。乾いた紙、インクの匂い、長い年月を閉じ込めたような時の流れを五感の全てで感じられる場所。
「ここに来た日以来でしょうか…」
書庫に来るたびに、あの日を思い出してしまうから、ここに来ることを少しだけ避けていました。
あれは、まだ私が本部にいた頃のお話でした。
審問の間は、不思議なほど静かでした。高い天井から差し込む光が冷たい石床を照らしています。私とエリオはその中央に立っていました。
私たちを囲む聖職者の皆様は、誰一人として声を荒らげないでいました。ただ、静かに私たちだけを見つめていたのです。
「……司祭シエラ」
最上段から、穏やかな声が冷たい石の壁を反響して辺りに響き渡りました。
「そして、神官エリオ」
私たちにゆっくりと周囲の視線が向けられました。
「何か、弁明はありますか」
司教の問いかける声はわずかに重く響きました。
私は、胸の前で手を重ね小さく息を吸います。
――きちんと、お話ししなければなりませんね。
そう思った瞬間、
「あるとすれば、お前たちの謝罪でしょう」
凛と、よく通る声が私の前を通りました。
エリオは司教たちと私の間に入るように立っていました。
――ああ、やっぱり。
私は思わず目を閉じます。
昔から、この人は変わりません。自分のことより先に、私のために怒ってしまう。
「エリオ」
小さく名前を呼びます。けれども彼は一歩も引きませんでした。
「謝るべきは私たちではない」
毅然とした態度で言い放ちました。
「人々へ真実を伏せ続けている、あなた方です」
その言葉に広間がざわめきました。
司祭は枢機卿に耳打ちをしていました。
「慎みなさい」
先ほどとは別の司教がわずかに苛立ちの色を見せました。
「謹んだ結果が、これでしょう」
私はそっとエリオの袖へ手を添えました。彼は少しだけ身体をピクリと強張らせ、わずかにこちらに目をやりました。その瞳は怒りではなく、悔しさが宿っているようでした。
きっと、この人は私よりも傷ついている、そんな気がして胸が締め付けられる感覚がしました。
「……申し訳、ありません」
エリオが身を引くと、私は一歩前へ出ます。カツンとかかとが鳴る音が静寂を裂きました。
「彼の言葉が強すぎたことは、お詫びいたします」
けれど、と私は顔を上げました。
「私も、彼と同じ考えです」
空気が止まったようでした。
「人々には、真実を知る権利があるはずです」
一つ一つ、言葉を選び取っていきます。
「知らずに守られることと、知った上で選ぶことは決して同じではありません」
司教の一人は静かに目を伏せました。
「それは、教会が決めることです。その時を見極める責務が我々にはあります」
「…そうでしょうか」
小さく首をふり、思わず言葉がこぼれます。
「その時は、いつ訪れるのでしょうか。」
一歩前へ出ます。
「百年後でしょうか」
もう一歩踏み出します。
「千年後でしょうか」
答える方はいませんでした。
「その時が永遠に訪れないとしたら、それを私たちが独占して良いのでしょうか」
沈黙だけが、広間を満たしていきます。
「シエラ様……」
やがて、口をつぐんでいた枢機卿が立ち上がりました。
「……司祭シエラ」
司教たちに緊張が走りました。
「あなたは、誠実で多くの信徒から信頼されています」
枢機卿は枯れ木のような指を杖の上で組み替えました。
「それ故に、残念でなりません」
その言葉だけで、全てを悟りました。
「このまま本部に置くわけには、いきませんね」
小さく言葉が吐かれるのが見えました。
息がつまり、喉の奥がわずかに苦くなるのを感じました。
「本日付で、中央大聖堂での任を解きます」
その言葉が落ちた瞬間、広間は水を打ったように静まり返りました。異を唱える方は誰もいませんでした。
私は静かに目を伏せ耳を傾けます。
「東方管区、聖アンジュ教会への赴任を命じます」
――そうですか。東方へ。
「随分、遠くなりますね」
「ふざけるな!」
私の言葉を遮るように、エリオは叫びました。
「これは教会が下した正式な任命です」
枢機卿は表情を変えず、冷たく言い放ちました。
「これは口封じだろう!」
「何を言うか。東方にも導きを必要とする人々がいます」
「ええ。シエラほど相応しい者はおりませんね」
枢機卿に賛同するように司教から次々と声が上がりました。
「エリオ」
怒りに任せて声を荒げる彼の袖をそっと引きます。
「行きましょう」
それだけ伝えると、彼は苦しそうに押し黙り、唇を噛みました。
良かった、と胸の内で息を漏らしました。このまま彼を止めずにいたら、きっと次に出てくる言葉で、彼は自分の立場を崩していたでしょう。
彼は、視線を泳がせわずかに身を震わせました。
「……シエラ様」
「ありがとうエリオ。大丈夫ですよ」
自然と笑みが浮かびました。
「きっと東方にも、私を必要としてくださる方がいるのでしょう」
それだけは、不思議と疑いなく出た言葉でした。
「これも天命なのです」
どこへ行っても、誰かが笑ってくれる場所がきっとあると信じたい、そう願わずにはいられませんでした。
「エリオ、うまくやりなさい」
私はぐっと覚悟を決め、広間を後にしようと立ち上がると、誰にも聞こえないように耳打ちをしました。
エリオは何か伝えようと口を開こうとしていましたが、それを最後まで見届けることなく、私は扉の近くに立つ神官に目を配ります。神官たちは静かに頷くと、重い扉を開きました。
「失礼いたします」
それだけ残し広間を出ると、閉じる音が聖堂の廊下へ響き渡りました。




