宇宙が始まる前?
二人は書庫の中をゆっくりと歩き回った。
床から天井まで届く本棚が規則正しく並び、その間を細い通路が幾筋も伸びている。どこを見渡しても本、本、本。見上げるほど高く積み重ねられた背表紙は、まるで静かな森の木々のようだった。
二人が書庫の奥へ姿を消すと、静かな空間に本をめくる音だけが残った。
シエラはその様子を穏やかに見つめ、小さく微笑む。
「楽しそうですね」
「ええ。……思っていた以上に」
エリオは本棚へ目を向けたまま答える。
「書庫へ誰かを案内するのは、久しぶりでしょう?」
「そうですね」
シエラは静かに頷く。
「昔は、町の子どもたちもよく来ていたのですけれど」
少しだけ懐かしむような声だった。
「最近は、本を読む子も少なくなりましたから」
エリオは近くの窓を開ける。
夏の風が地下へ流れ込み、紙の匂いをゆっくりと揺らした。
「……埃が舞いますよ」
「ふふ、ごめんなさい」
シエラは袖をまくると、小さな布を手に取り、本棚の縁をそっと拭き始めた。
「シエラ様、そのようなことは私が」
「大丈夫ですよ」
にこり、と笑う。
「少し体を動かしたかっただけです」
「ですが──」
「エリオ」
名前を呼ばれただけで、エリオは言葉を飲み込む。
「……承知しました」
肩をすくめながら、結局は隣で同じように棚を拭き始めた。
二人はしばらく何も話さない。
布が木をなでる音だけが、静かな書庫へ溶けていく。
ハルカは気になる題名を見つけるたびに立ち止まり、難しそうな顔で背表紙を読み上げようとしては、すぐに眉を寄せて首を傾げる。
「えっと……精……えーっと……」
しばらく唸ったあと、小さく本を棚へ戻した。
「読めない」
ぽつりと呟き、次の本棚へ向かう。
一方のレイは、一冊ずつ背表紙を目で追いながら静かに歩いていた。
何か手掛かりになるものはないだろうか。
そんな期待を胸に、本棚の列をゆっくりと巡っていく。
やがて本棚の角を曲がったところで、二人はばったりと顔を合わせた。
「思ったより普通だね」
ハルカが少し拍子抜けしたように言う。
「うん」
レイは並ぶ本へ視線を向けたまま頷いた。
「教会史、地域史、植物図鑑……これは聖典かな。それに哲学っぽい本もあった」
「あっちには神話みたいなのがあったよ」
ハルカは来た道を指差す。
「でも難しくて全然読めなかったんだよね……」
「ハルカ、漢字苦手だもんね」
「レイは科学苦手じゃん!」
「それとは話が違うでしょ」
「違わないもん」
頬をぷくっと膨らませながら、ハルカはレイの後ろをついて歩く。
本棚の間はひんやりとしていて、歩くたびに靴音だけが静かに響いた。
「この辺だったかな」
レイは立ち止まり、ゆっくりと視線を上へ向ける。
「詩集……聖典の注釈書……あと…、これは……」
そのとき、一冊だけ赤い背表紙が目に留まった。
「あ」
周囲の本より少し大きく、厚みもある。
レイは背伸びをし、両手でそっと引き抜いた。
ずしり。
想像以上の重みが腕へ伝わる。
「重っ……」
「そんなに?」
ハルカも慌てて下から支える。
二人で抱えるようにして表紙を見つめた。
「なんて書いてあるんだろ」
深い赤色の革表紙には、金色の文字が刻まれている。
けれど、その文字は見たこともない形をしていた。
丸みを帯びた線と鋭い線が複雑に絡み合い、どこまでが一文字なのかさえ分からない。
「わかんない」
ハルカは首を傾げる。
「変な字。全部つながってるみたい」
「昔の文字なのかな……」
レイは本を抱え直し、近くの閲覧机へ運んだ。
机へそっと置くと、古い革が小さく軋む。
ゆっくりと表紙を開いた。
ふわりと、乾いた紙と革の匂いが静かに漂う。
「うわ……古」
ハルカは思わず顔を近づける。
「でも、中はちゃんと読めるね」
ページの縁は長い年月を物語るように飴色へ変色し、ところどころ丁寧に補修された跡も残っている。
何人もの誰かがこの本を開き、大切に受け継いできたのだろう。
レイは破らないよう慎重にページをめくる。
ぱらり。静かな音が書庫へ溶けていく。もう一枚。さらに一枚。
指先が、あるページでぴたりと止まった。
「――宇宙が始まる前?」
「なにそれ」
ハルカが隣から覗き込む。
「……わかんない」
レイは小さく首を振る。
二人は顔を見合わせると、もう一度その一文へ視線を落とした。




